白熱の太陽が大型マンションの向こうに昇ってくるのが見える。
太陽は白熱で今日も暑そうだ。
日の出も少し遅くなって6時ごろから春日山あたりから昇り始めている。
真夏は5時過ぎると昇り始めていた。
季節は確かに来ているのに暑い。
季節のズレで本当に秋が来るのだろうかと思ってしまう。
7時半では太陽がまだ私の見える範囲に昇っているのでカーテンを閉めて置かないと暑い。
9時過ぎてくると太陽はかなり上に昇っていて私の目線から見えないのでカーテンを開ける。カーテンを開けないほうが涼しいが閉めたままでいると鳩たちがベランダに入ってきて糞をしたりするので太陽が私の目線から見えなくなるとカーテンを開けている。
先日、特別老人ホーム こころの家族 故郷の家・京都に取材で現場に入っている。
京都の故郷の家は京都市南区東九条にある。京都駅から近い所にある。河原町通から民家の中の道を入って北に少し行くとある。
まさかここの関係者が私のブログを見ているとは夢に思っていなかった。
それが関係者のトップが「チョンさんのブログに故郷の家をのせてくれているので見ています」と言って下さった。
もうずいぶん前のことになる。
金剛学園の小学校の子どもたちが入居している1世たちの高齢者や日本人高齢者の慰問のために訪問するので私は何度か同行取材したことがあった。
子どもたちが高齢者と手をつなぎコミニユケーションする姿に感動してついジャーナリスト・ネットの画面に構築していた。
最近はもう掲載しなくなった。
ジャーナリスト・ネットの画面も諸事情により生活的な軽い記事は掲載ができなくなったことで結局、生活的な軽い記事は「鄭容順の直言」や「韓日サロン・・・リビングルーム」で画面構築をしている。
そして金剛学園の子どもたちが訪問する故郷の家は大阪府堺市にあるのでかなり遠いので取材はついパスをすることが多くなった。
ジャーナリスト・ネットでは掲載はもちろんしなくなった。そして鄭容順のブログでも日々の日記が多く書くことが限られてきたので書くことが少なくなった。
話は変わる。
今年は「韓日併合100年」8月29日に併合の調印をしているが韓国が国際政治に疎かったことも責任があるだろう。しかし国際会議に韓国をさせないで併合に持っていったこともおかしい話である。韓国側から見ると「不平等条約」になる。
そして産経新聞には連日、韓国併合は日本が韓国を救ったというような文書で日本が併合しなかったら他の国が併合したことなどが書かれ、日本植民地時代に建物を作り鉄道を敷きダムも作ったという。
しかしこれは違う。
日本が植民地統治して朝鮮半島を軸にして中国などの制覇して植民地をする足がかりというとてつもない侵略が目的のためにしたことだった。当時の朝鮮人のためにしていない。植民地統治下した日本の政治策略の目的があったのだ。
昨日の「たかじんの-----」のテレビ番組で外国人の参政権問題で、ある出演者が批判していた。その言葉が露骨だった。そして在日コリアン嫌いをモロに表していた。これでは3世、4世たちがこうした差別発言に日本国籍に切り替えていくのも無理もないと思った。
「みんな日本に出稼ぎにきておいて何が参政権か」と言った。
私から見るとこの人、どんな歴史を分かってこんなことをテレビという放映の前で言っているのか、この人の人間性を垣間みた。
こんな発言が面白いからテレビに出演させているのか。
テレビ制作関係者にも首を傾げた。
この発言にもう1人の出演者は「そんなこと言ってはいけないよ」と言ってたしなめていた。
日本社会には前者の発言する人が大多数である。
しかし私は違うと言いたい。
私の祖父の家は韓国慶尚南道晋陽郡智水面で村1番の土地を持っていた両班(ヤンバン)の家だった。当時、日本は日本植民地統治するのにはまず土地を持っている地主、両班社会から潰すことだった。朝鮮人の土地を奪い牢獄に入れて土地を奪うことができなかったら拷問した。私の曾祖父も牢獄に連れて行かれて日本総督府に土地を渡すということで名前をサインして牢獄から出してもらった。
そして土地は1町だけ残してすべて日本総督府に取られた。
祖父は小作人になったがこれでも食べていくことができず当時の朝鮮半島全土、出稼ぎでまわった。しかし食べられなかった。いよいよ日本にいくしかないと思って日本にきたのである。
京都駅の鉄道工事のために京都に来た。
東九条に1番最初に住み着いている。
この一族の家は日本総督府の土地調査法で土地を強奪されて日本に来なければ生きていけなかった。
かつて当時の朝鮮で鄭の家は村では名家、曾祖父が人を呼ぶと村の人、全部が集まったという家である。この家の歴史の名残が保存されているのが韓国慶尚南道晋州の晋州博物館の一角に名残が残されている。
建物は日本で財を成した一族の分家筋が寄贈している。
本家の長男だった私の祖父もとうに亡くなり父親は日本の会社で定年まで会社員をしたので普通の暮らしをしてきたので暮らしは分家とは天と地の差ができた。
それも運命としかいいようがない。
しかし家の両班の名残を韓国の一角に残してくれたことに感謝をしている。
父親は分家とは往来はしなかったが分家がなぜ財をなしたのか。その歴史は子どもたちに話して伝えてきた。
私が晋州博物館や晋州城を訪問して「晋陽鄭氏(チンヤンチョンシ)の家の名残を見つけて日本に戻ってきて父親に報告した。往来していなくても分家が何をしているということは知っていたのか。「それは分家筋が寄贈して建てた」と私に話した。
何年か後、父親の他界後、分家筋の長男に会ってこのことを聞くとやはりそうだった。日本に来て祖父の弟が分家筋になる。祖父と弟は兄弟で祖父の時代は往来していたが父親の代になって父親の他の兄弟は行き来していたが父親は祖父の遺言を守って行かなかった。
しかし血筋の歴史はよく知っていた。
生きた歴史証人がいたのに----。
出稼ぎに来たには違いないがその前に日本総督府は何をしたのか。このことについて知ってもらいたい。
ここにまた記述したのは叔父たちが子どもや甥や姪に我が家の歴史を教えているだろうが私は知っていることはここに記述をしていく。
なぜ、日本にきたのか。先人の歴史を知ってもらいたい。
日本総督府は日本語を知らないのにカタカナと漢字を入れた文字で「土地調査法」を実施した。日本語の読めない朝鮮人たち、日本総督府に提出する申請用紙に書けるはずがない。こうして抵抗したものは牢獄に連れられてそして泣く泣く土地を日本人に渡した。合法で土地を渡したのではない。
このことを日本人は知ってもらいたい。
私の本家筋の叔父たちは会社員で生涯を通したので日本に税金を払って子どもたちを教育して人並みの生活をしてきた。しかし運が分家にみんな行ってしまったのか。商いの頭角があったのか関西では指折りの財閥になった。
双方の家の往来はないが今も町で見かける分家筋がしている商いに私はその建物を見ている。
日本に土地を取られて日本に来た1世たち、汗と血と涙で働き働いて生きてきた。その子孫が今も関西に大多数が住んでいる。
まだ生き証人が残っている。日本人は韓日併合の歴史を把握してから在日コリアンの出稼ぎの歴史を話してもらいたいです。
もう時計は9時15分、ここまで書く間にゲラの返信がきて編集局に送信したりしていた。
今日はゆっくりしたいがそうも行かない。
広島で取材した取材メモをパソコン入力しないといけない。この人の取材は資料として残しておきたいので原稿にする前にパソコン入力をしておこうと思っている。
少しこれから休憩です。
太陽は白熱で今日も暑そうだ。
日の出も少し遅くなって6時ごろから春日山あたりから昇り始めている。
真夏は5時過ぎると昇り始めていた。
季節は確かに来ているのに暑い。
季節のズレで本当に秋が来るのだろうかと思ってしまう。
7時半では太陽がまだ私の見える範囲に昇っているのでカーテンを閉めて置かないと暑い。
9時過ぎてくると太陽はかなり上に昇っていて私の目線から見えないのでカーテンを開ける。カーテンを開けないほうが涼しいが閉めたままでいると鳩たちがベランダに入ってきて糞をしたりするので太陽が私の目線から見えなくなるとカーテンを開けている。
先日、特別老人ホーム こころの家族 故郷の家・京都に取材で現場に入っている。
京都の故郷の家は京都市南区東九条にある。京都駅から近い所にある。河原町通から民家の中の道を入って北に少し行くとある。
まさかここの関係者が私のブログを見ているとは夢に思っていなかった。
それが関係者のトップが「チョンさんのブログに故郷の家をのせてくれているので見ています」と言って下さった。
もうずいぶん前のことになる。
金剛学園の小学校の子どもたちが入居している1世たちの高齢者や日本人高齢者の慰問のために訪問するので私は何度か同行取材したことがあった。
子どもたちが高齢者と手をつなぎコミニユケーションする姿に感動してついジャーナリスト・ネットの画面に構築していた。
最近はもう掲載しなくなった。
ジャーナリスト・ネットの画面も諸事情により生活的な軽い記事は掲載ができなくなったことで結局、生活的な軽い記事は「鄭容順の直言」や「韓日サロン・・・リビングルーム」で画面構築をしている。
そして金剛学園の子どもたちが訪問する故郷の家は大阪府堺市にあるのでかなり遠いので取材はついパスをすることが多くなった。
ジャーナリスト・ネットでは掲載はもちろんしなくなった。そして鄭容順のブログでも日々の日記が多く書くことが限られてきたので書くことが少なくなった。
話は変わる。
今年は「韓日併合100年」8月29日に併合の調印をしているが韓国が国際政治に疎かったことも責任があるだろう。しかし国際会議に韓国をさせないで併合に持っていったこともおかしい話である。韓国側から見ると「不平等条約」になる。
そして産経新聞には連日、韓国併合は日本が韓国を救ったというような文書で日本が併合しなかったら他の国が併合したことなどが書かれ、日本植民地時代に建物を作り鉄道を敷きダムも作ったという。
しかしこれは違う。
日本が植民地統治して朝鮮半島を軸にして中国などの制覇して植民地をする足がかりというとてつもない侵略が目的のためにしたことだった。当時の朝鮮人のためにしていない。植民地統治下した日本の政治策略の目的があったのだ。
昨日の「たかじんの-----」のテレビ番組で外国人の参政権問題で、ある出演者が批判していた。その言葉が露骨だった。そして在日コリアン嫌いをモロに表していた。これでは3世、4世たちがこうした差別発言に日本国籍に切り替えていくのも無理もないと思った。
「みんな日本に出稼ぎにきておいて何が参政権か」と言った。
私から見るとこの人、どんな歴史を分かってこんなことをテレビという放映の前で言っているのか、この人の人間性を垣間みた。
こんな発言が面白いからテレビに出演させているのか。
テレビ制作関係者にも首を傾げた。
この発言にもう1人の出演者は「そんなこと言ってはいけないよ」と言ってたしなめていた。
日本社会には前者の発言する人が大多数である。
しかし私は違うと言いたい。
私の祖父の家は韓国慶尚南道晋陽郡智水面で村1番の土地を持っていた両班(ヤンバン)の家だった。当時、日本は日本植民地統治するのにはまず土地を持っている地主、両班社会から潰すことだった。朝鮮人の土地を奪い牢獄に入れて土地を奪うことができなかったら拷問した。私の曾祖父も牢獄に連れて行かれて日本総督府に土地を渡すということで名前をサインして牢獄から出してもらった。
そして土地は1町だけ残してすべて日本総督府に取られた。
祖父は小作人になったがこれでも食べていくことができず当時の朝鮮半島全土、出稼ぎでまわった。しかし食べられなかった。いよいよ日本にいくしかないと思って日本にきたのである。
京都駅の鉄道工事のために京都に来た。
東九条に1番最初に住み着いている。
この一族の家は日本総督府の土地調査法で土地を強奪されて日本に来なければ生きていけなかった。
かつて当時の朝鮮で鄭の家は村では名家、曾祖父が人を呼ぶと村の人、全部が集まったという家である。この家の歴史の名残が保存されているのが韓国慶尚南道晋州の晋州博物館の一角に名残が残されている。
建物は日本で財を成した一族の分家筋が寄贈している。
本家の長男だった私の祖父もとうに亡くなり父親は日本の会社で定年まで会社員をしたので普通の暮らしをしてきたので暮らしは分家とは天と地の差ができた。
それも運命としかいいようがない。
しかし家の両班の名残を韓国の一角に残してくれたことに感謝をしている。
父親は分家とは往来はしなかったが分家がなぜ財をなしたのか。その歴史は子どもたちに話して伝えてきた。
私が晋州博物館や晋州城を訪問して「晋陽鄭氏(チンヤンチョンシ)の家の名残を見つけて日本に戻ってきて父親に報告した。往来していなくても分家が何をしているということは知っていたのか。「それは分家筋が寄贈して建てた」と私に話した。
何年か後、父親の他界後、分家筋の長男に会ってこのことを聞くとやはりそうだった。日本に来て祖父の弟が分家筋になる。祖父と弟は兄弟で祖父の時代は往来していたが父親の代になって父親の他の兄弟は行き来していたが父親は祖父の遺言を守って行かなかった。
しかし血筋の歴史はよく知っていた。
生きた歴史証人がいたのに----。
出稼ぎに来たには違いないがその前に日本総督府は何をしたのか。このことについて知ってもらいたい。
ここにまた記述したのは叔父たちが子どもや甥や姪に我が家の歴史を教えているだろうが私は知っていることはここに記述をしていく。
なぜ、日本にきたのか。先人の歴史を知ってもらいたい。
日本総督府は日本語を知らないのにカタカナと漢字を入れた文字で「土地調査法」を実施した。日本語の読めない朝鮮人たち、日本総督府に提出する申請用紙に書けるはずがない。こうして抵抗したものは牢獄に連れられてそして泣く泣く土地を日本人に渡した。合法で土地を渡したのではない。
このことを日本人は知ってもらいたい。
私の本家筋の叔父たちは会社員で生涯を通したので日本に税金を払って子どもたちを教育して人並みの生活をしてきた。しかし運が分家にみんな行ってしまったのか。商いの頭角があったのか関西では指折りの財閥になった。
双方の家の往来はないが今も町で見かける分家筋がしている商いに私はその建物を見ている。
日本に土地を取られて日本に来た1世たち、汗と血と涙で働き働いて生きてきた。その子孫が今も関西に大多数が住んでいる。
まだ生き証人が残っている。日本人は韓日併合の歴史を把握してから在日コリアンの出稼ぎの歴史を話してもらいたいです。
もう時計は9時15分、ここまで書く間にゲラの返信がきて編集局に送信したりしていた。
今日はゆっくりしたいがそうも行かない。
広島で取材した取材メモをパソコン入力しないといけない。この人の取材は資料として残しておきたいので原稿にする前にパソコン入力をしておこうと思っている。
少しこれから休憩です。
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