昨日はよく寝たので疲れがとれたように思っている。
それが朝、起きるとまだなんとなく体がだるい。
やはり9月、10月と仕事の間に所用を挟んでいると連日の外出となった。
6週間程度、連日の外出、土・日も仕事が入ってずっと出ていることになってくる。
それに現場では目いっぱい、集中力で仕事をするので終わるとクタクタになっている。朝からメールとインターネットを検索する雑用していると時間はどんどん過ぎていく。今日は京都の現場です。
9時にはパソコンを閉めないといけないと思っている。
23日だったのか。前川清がでているテレビ番組「徹子の部屋」を見ていて映画出演をしている話をしていて主題歌も作られた。
作詞された伊集院静さんは前川清さんに「1度会いたい人がいますか」という話をされた。そんな会話に私の高校から20歳の青春を思い出す1コマに出会い、その時感じたことをブログに書いた。
誰か知らないけれどコメントが入っていた。仮名なのでここで記述できません。
内容も季節にちなんだ普通のコメントだった。コメント欄は非公開にしているので公開することはできない。
まさかその本人が私のブログを読んでコメントいれているという夢みたいなことはないと確信している。私と同じように共感する人が私のブログにコメントを入れてくれたと思っている。同じ思いを多くしている人がいるということはこの主題歌はヒットする。映画もヒットすると思っている。
私に国籍という障害がなかったら初恋が実ったかもしれない。
しかし1960年代はまだまだ日本社会は在日コリアンとの国際結婚はご法度だった。もちろん在日コリアンの親もそう簡単に日本人との結婚を受け入れることはできなかった。まだまだ心の中で在日コリアンは日本に植民地支配された屈辱は忘れていなくて日本人を受け入れない。
日本で生まれた2世の在日コリアンはそうした間で恋愛に苦しみ日本社会を理解しているようで理解していない。親のいうとおりに見合い結婚していった人がほとんどだった。中には日本人と在日コリアンと結婚した人もいるが勇気ある行動だった。私はそんな勇気がなくて親が進める人と結婚した。
こんな心の葛藤を体験してきたので自分の子どもの国際結婚に対して最初は反対してもいつのまにか子どもの選択に任せている。
この後遺症の辛さを2世は知っているから同じ思いをさせたくないとどこかで思っている。そして日本人の親も私たちと同じ世代になって最初は反対しても成り行きに任せるようになった。何が何でも反対ということはしなくなった。
もちろんまだまだ様々な事柄があるが2世たちは「ここは日本社会、子どもたちが生きやすい選択をすればよい」と思っている。
時代が変わった。
2世の多くは心の中になにかも蓋をして結婚した。
年を重ねていくといろんなことがあった。
そして60歳を過ぎて老後に向かう時は結局、夫婦2人の生活、健康で生活できればとよいと思って夫婦で助け合って生きている。
しかし時にふと、心に蓋が開くときがある。何かの時、何かの拍子に思い出すことが多くなった。後期高齢者になってふと生きているのか、死んでいるのか。そんな些細なことが気になる年齢になった。
まずずっと会わないでいくことになるだろう。しかし何かの拍子に思い出している。私が日本人だったら、相手が在日韓国人だったらたぶん初恋を実らせたことができたと思っている。
世の中はそう簡単なものではないとしみじみ思った20歳代だった。
話は変わります。
奈良の飛鳥、先日の20日、仕事で少しだけ同行取材をした。
平和な農村、古代史の宝庫にかつて私が奈良県をかけまわった雑誌記者時代を思い出していた。あのとき古代史をもっと勉強していれば今頃また違う知識がいっぱいあったのに当時はまだ30代の終りでまだまだ古代史にのめりこむほどの情熱がなかった。
年を重ねて飛鳥を歩くと先人、百済の人がどんな思い出を持ってここに立っていたのだろうかとやっとたどってみたい気持になった。
駐在職員のいった言葉「九州に多くの百済人が豊かさを求めて多くやってきた。
そしてさらに豊かさを求めて奥に奥にと入ってきてこの飛鳥の地にきた。この飛鳥の地に立って何を思っていたのだろうか」と話された言葉が印象的だった。
かつて若い頃、仕事で走り回っていて古への渡来人の町、飛鳥を歩くと涙がポロポロとこぼれたものだった。何か伝わるものがあるのだろうか。
さてこのへんで。身支度をします。
それが朝、起きるとまだなんとなく体がだるい。
やはり9月、10月と仕事の間に所用を挟んでいると連日の外出となった。
6週間程度、連日の外出、土・日も仕事が入ってずっと出ていることになってくる。
それに現場では目いっぱい、集中力で仕事をするので終わるとクタクタになっている。朝からメールとインターネットを検索する雑用していると時間はどんどん過ぎていく。今日は京都の現場です。
9時にはパソコンを閉めないといけないと思っている。
23日だったのか。前川清がでているテレビ番組「徹子の部屋」を見ていて映画出演をしている話をしていて主題歌も作られた。
作詞された伊集院静さんは前川清さんに「1度会いたい人がいますか」という話をされた。そんな会話に私の高校から20歳の青春を思い出す1コマに出会い、その時感じたことをブログに書いた。
誰か知らないけれどコメントが入っていた。仮名なのでここで記述できません。
内容も季節にちなんだ普通のコメントだった。コメント欄は非公開にしているので公開することはできない。
まさかその本人が私のブログを読んでコメントいれているという夢みたいなことはないと確信している。私と同じように共感する人が私のブログにコメントを入れてくれたと思っている。同じ思いを多くしている人がいるということはこの主題歌はヒットする。映画もヒットすると思っている。
私に国籍という障害がなかったら初恋が実ったかもしれない。
しかし1960年代はまだまだ日本社会は在日コリアンとの国際結婚はご法度だった。もちろん在日コリアンの親もそう簡単に日本人との結婚を受け入れることはできなかった。まだまだ心の中で在日コリアンは日本に植民地支配された屈辱は忘れていなくて日本人を受け入れない。
日本で生まれた2世の在日コリアンはそうした間で恋愛に苦しみ日本社会を理解しているようで理解していない。親のいうとおりに見合い結婚していった人がほとんどだった。中には日本人と在日コリアンと結婚した人もいるが勇気ある行動だった。私はそんな勇気がなくて親が進める人と結婚した。
こんな心の葛藤を体験してきたので自分の子どもの国際結婚に対して最初は反対してもいつのまにか子どもの選択に任せている。
この後遺症の辛さを2世は知っているから同じ思いをさせたくないとどこかで思っている。そして日本人の親も私たちと同じ世代になって最初は反対しても成り行きに任せるようになった。何が何でも反対ということはしなくなった。
もちろんまだまだ様々な事柄があるが2世たちは「ここは日本社会、子どもたちが生きやすい選択をすればよい」と思っている。
時代が変わった。
2世の多くは心の中になにかも蓋をして結婚した。
年を重ねていくといろんなことがあった。
そして60歳を過ぎて老後に向かう時は結局、夫婦2人の生活、健康で生活できればとよいと思って夫婦で助け合って生きている。
しかし時にふと、心に蓋が開くときがある。何かの時、何かの拍子に思い出すことが多くなった。後期高齢者になってふと生きているのか、死んでいるのか。そんな些細なことが気になる年齢になった。
まずずっと会わないでいくことになるだろう。しかし何かの拍子に思い出している。私が日本人だったら、相手が在日韓国人だったらたぶん初恋を実らせたことができたと思っている。
世の中はそう簡単なものではないとしみじみ思った20歳代だった。
話は変わります。
奈良の飛鳥、先日の20日、仕事で少しだけ同行取材をした。
平和な農村、古代史の宝庫にかつて私が奈良県をかけまわった雑誌記者時代を思い出していた。あのとき古代史をもっと勉強していれば今頃また違う知識がいっぱいあったのに当時はまだ30代の終りでまだまだ古代史にのめりこむほどの情熱がなかった。
年を重ねて飛鳥を歩くと先人、百済の人がどんな思い出を持ってここに立っていたのだろうかとやっとたどってみたい気持になった。
駐在職員のいった言葉「九州に多くの百済人が豊かさを求めて多くやってきた。
そしてさらに豊かさを求めて奥に奥にと入ってきてこの飛鳥の地にきた。この飛鳥の地に立って何を思っていたのだろうか」と話された言葉が印象的だった。
かつて若い頃、仕事で走り回っていて古への渡来人の町、飛鳥を歩くと涙がポロポロとこぼれたものだった。何か伝わるものがあるのだろうか。
さてこのへんで。身支度をします。
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