あまり早く着くといろんな人に会うので挨拶をするのに気も使う。こんな余分な気を使うこともこんな年になってわずらわしくなった。ギリギリに入るように考えて12時過ぎにタクシー乗り場に行った。
バスだと早く着きすぎたりするのでギリギリの時間にあわすのにタクシーが時間の予測ができた。
ホテルに着くと奈良新聞社関連企業の知人が受け付けの近くにいたので受付にいく私に声をかけてくれたので5分ほど立ち話をした後会場にいくと私は大方最後に入ることになった。
式典の舞台の前にいく気もなく後ろの隅っこでずっといた。
挨拶も簡潔にされてする人も少なくされていた。
女性代議士も来賓で挨拶されていたが同じところにいた人たちは横の人と雑談を交わしていた。私もそうだった。
後ろの方は聞いていない人も多かった。
パーテイーになって立食になった。隅っこの食材の置かれているテーブルは人がいっぱいでとれない。真ん中のテーブルが取りやすそうだった。真ん中のテーブルに行くと声をかけて下さる人が何人かおられて「お久しぶりです」と挨拶してまた私は隅っこのテーブルに戻った。そして宴はたけなわになった。
カラオケ大会で優勝された方々が自慢の歌のお披露目である。
私は1人だけ聞いて会場を後にした。
帰りはホテルのシャトルバスを使って戻った。
60周年記念のお土産はいろいろあったが「奈良新聞社60年史」が気になった。
夜12時ごろ雑用を終えてページをめくった。
私が奈良新聞社とかかわったころのところを読んだ。
「雑記帳の集い」が創設されたことが書いてある。
文章の中には「本紙の投稿欄『雑記帳』に投稿者の『雑記帳の集い』
が創設された」と記述されていた。
年代別に活動の記録が残されていた。
それを見て私は感慨深いものがあった。
やはり奈良新聞社と一緒に歩んだことは間違いがなかった。だからこうして奈良新聞社の記念誌に掲載してもらうことができた。
当時、発起人の中で1人の人はいつかは奈良新聞と離れて自主グループとしてこのペングループを発展させていくと意気込んでいた。
私はこのペングループを独立して奈良県で大きくするという野心も何もなかった。ペングループの発起人になっただけでも専業主婦の私には画期的なことだった。
ただ本能的に直感していた。財政も何もないグループの創設である。
自主グループになると女性の会合グループ、いつかは内部分裂して崩壊していくグループになると考えていた。理論的なことは何も分からなかったが『雑記帳の集い』は奈良新聞社と一緒に歩んで長く続くグループに発展していくと考えていた。
当時、冊子の第1号を作ることに私は情熱を燃やしていた。
印刷所の手配から印刷の見積もりまで全部私が担当していた。おかげさまで若い時は和文タイプ印刷で働いたこともあったのでその縁を生かして安い印刷費用でひとすじ縄ではいかない40数名の会員の原稿を引き受けて下さった。
こんな苦労は当時の発起人も会員も知らないだろう。
さて冊子の表紙に「雑記帳の集い」だけロゴにして入れるという。いずれ自主グループにしていくのでという。
私は反対した。私が出したアイデア、ロゴは「奈良新聞社『雑記帳の集い』」に対して自主グループにするその1人の意見は私の意見を潰すことで必死になった。
もう侃々諤々の意見の言い合いになった。
そして「あんたは性格が悪い」と何度もみんなの前で言われた。
この言葉も頭に残っている。
「私が『主』であんたは『従』だ」と言った。
なにかこの言葉も私の胸にグサッと刺さり彼女は大変いびつに見えて嫌いになった。
これが差別発言だとはそのときは気がつかなかったが彼女の内面に私の国籍に差別が潜在していたからこんな発言がでたことが年を重ねて分かるようになった。
私は当時まだ37歳、私より一回りの年上の人は年下が意見に従ってくるものだと思っていたのだろう。しかし嫌いになった彼女とはずっと対立したままにきた、今も表向きは挨拶ぐらいするがいじめられた屈辱はずっと忘れることができない。
しかし私は本能的に直感で自主グループになることを反対した。
奈良風土の「長い物に巻かれていく」そのままである。
私の意見に誰も賛同しょうとはせず年輩の人の意見に傾いていた。
そのことは奈良新聞社の社内にも伝わっていったのだろう。
次の会合のときに社員のO女性が会合に私も会員と言って参加してくれた。
そしてロゴのことで意見をまた交わしているとOさんが助け舟をだしてくれた。
「『雑記帳』の投稿欄は奈良新聞の紙面の中で掲載されているものだから『奈良新聞社』のロゴを入れるほうがいいと思う」と言ってくれた。
それでもその反対している人は「自主グループ」と言って反発した。
私は何の意味かわからなかったが本能だった。直感だった。「奈良新聞社」のロゴにたいして頑固にこだわった。
そしてOさんは言った。
「奈良新聞の上の人たちもたぶん『奈良新聞社』のロゴを入れてほしいと思っていますよ」とさりげなく言葉を出した。
この言葉で周りにいた編集委員たち約10人は口々に言い出した。
「奈良新聞の紙面で投稿しているのだからそれはやっぱり『奈良新聞社』のロゴを入れるほうがいいわ」と言って下さった。
その反対する人は何も言えなくなった。それでもまだしつこく30余人が集まる例会でロゴを入れるのか入れないのかの意見を出した。入れるほうが圧倒的に多かった。
このときのロゴでの意見の食い違い、意見を交わしたことは忘れていない。私の記憶の中にしっかり残っている。
それでもこの後のしっぺ返しが凄かった。
自主グループにすると言っていた人からずっといじめられ今も続いている。
何周年かの記念冊子に最初から冊子の編集委員にかかわっているのに私の名前を掲載しなかった。
そして2年抗議をしてやっと名前がのったと思ったら通名しか載っていなかった。このことに抗議したいくらいだった。がそんなエネルギーが消えうせた。
日本植民地時代の歴史認識のない人にいくら言っても無駄だと悟った。
民族差別のあることが浮き彫りにされた。
すでに本名を名のって4・5年たっていたのだから本名記載をしてカッコで通名を入れるのが本名を名のっている人の礼儀ではないか。
もっと悪かったのは本名を名のりだしてから私の会員の名前が1番後ろに記載されていた。
かつて公立学校の日本人教師がしたように本名を名のる子どもは名簿の1番後ろに記載した。あいうえお順にすれば誰かの後ろだとこれも抗議してやっと理解してもらえた。
いかに年配者の会合で日本植民地時代の歴史が希薄であることが見て取れる。
60年の記念誌を早いテンポで目を通したが私の言った発言は間違っていなかった。と改めて感慨にふけっていた。1人で自己満足していた。
奈良新聞社のロゴを使ったのでデスクたちや関係者は長い目で育つことを見ていて下さった。もし奈良新聞社と切り離していれば25年も継続してこの会合を発展させることができなかった。第一、編集会議や会合を行なう場所にも苦労しただろう。会合や編集会議はすべて奈良新聞社の社屋を利用することができた。これだけでも会合の経費は減額につながった。
そして冊子第1号を出版することでその自主グループを言った人たちからも反対された。しかしたとえ10ページ、20ページのうすぺらっな冊子であっても会合を創設した年から出して会合は継続していくとこれも私の本能で直感だった。形を作ることで奈良新聞社の支援も変わると確信していた。
そして奈良新聞社の社史に記載されるまでに「雑記帳の集い」は奈良新聞社で半永久の購読者になった。
感慨深いものがある。
ジャーナリスト・ネット代表のKさんたちが創設した奈良新聞社の「現代奈良研究会」のことも社史の中に記載されていた。
そして4年前に他界したMさんの功績も記載されていた。
参加して社史をもらったことはよかった。
私を専業主婦から社会参加の第1歩になった奈良新聞社、まわりではいいことも悪いことも聞くが私にとっては人生のし一部を過ごしたところである。
現在は「雑記帳の集い」には参加していない。会員でいる。これは民団奈良県本部のある方の助言である。
「本名で冊子にのっている。会員でいることは将来の子どもたちの希望になるから会員は辞めないで」ということでその言葉も大事にしている。
しかし「現代奈良研究会」の会員は続けていけるところまで続けていこうと思っている。これも本名で参加することに大きい意味がある。そして私自身、日本社会とのバランス感覚を養う大事な場所であるからだ。
また同僚だった人たちは取締役になっておられるがその人たちは私か本名を名のっても通名時代と変わらず付き合って下さる。そんな人脈も大事にしたいと思っている。
Tさん、Uさん、Ⅰさん、Kさん、晴れがましい舞台で緊張しておられたが皆さんの顔を見ることができてよかった。
60年誌を読んで気がついたことをここに書き込んでおくことにした。
弁解がましいことになったがこれも言わないと会員たちは創設当時の苦労話は1人や2人の話になっている。裏にはこんなことをあったと知ってもらいたいのであえて社名もいれた。すみません。
バスだと早く着きすぎたりするのでギリギリの時間にあわすのにタクシーが時間の予測ができた。
ホテルに着くと奈良新聞社関連企業の知人が受け付けの近くにいたので受付にいく私に声をかけてくれたので5分ほど立ち話をした後会場にいくと私は大方最後に入ることになった。
式典の舞台の前にいく気もなく後ろの隅っこでずっといた。
挨拶も簡潔にされてする人も少なくされていた。
女性代議士も来賓で挨拶されていたが同じところにいた人たちは横の人と雑談を交わしていた。私もそうだった。
後ろの方は聞いていない人も多かった。
パーテイーになって立食になった。隅っこの食材の置かれているテーブルは人がいっぱいでとれない。真ん中のテーブルが取りやすそうだった。真ん中のテーブルに行くと声をかけて下さる人が何人かおられて「お久しぶりです」と挨拶してまた私は隅っこのテーブルに戻った。そして宴はたけなわになった。
カラオケ大会で優勝された方々が自慢の歌のお披露目である。
私は1人だけ聞いて会場を後にした。
帰りはホテルのシャトルバスを使って戻った。
60周年記念のお土産はいろいろあったが「奈良新聞社60年史」が気になった。
夜12時ごろ雑用を終えてページをめくった。
私が奈良新聞社とかかわったころのところを読んだ。
「雑記帳の集い」が創設されたことが書いてある。
文章の中には「本紙の投稿欄『雑記帳』に投稿者の『雑記帳の集い』
が創設された」と記述されていた。
年代別に活動の記録が残されていた。
それを見て私は感慨深いものがあった。
やはり奈良新聞社と一緒に歩んだことは間違いがなかった。だからこうして奈良新聞社の記念誌に掲載してもらうことができた。
当時、発起人の中で1人の人はいつかは奈良新聞と離れて自主グループとしてこのペングループを発展させていくと意気込んでいた。
私はこのペングループを独立して奈良県で大きくするという野心も何もなかった。ペングループの発起人になっただけでも専業主婦の私には画期的なことだった。
ただ本能的に直感していた。財政も何もないグループの創設である。
自主グループになると女性の会合グループ、いつかは内部分裂して崩壊していくグループになると考えていた。理論的なことは何も分からなかったが『雑記帳の集い』は奈良新聞社と一緒に歩んで長く続くグループに発展していくと考えていた。
当時、冊子の第1号を作ることに私は情熱を燃やしていた。
印刷所の手配から印刷の見積もりまで全部私が担当していた。おかげさまで若い時は和文タイプ印刷で働いたこともあったのでその縁を生かして安い印刷費用でひとすじ縄ではいかない40数名の会員の原稿を引き受けて下さった。
こんな苦労は当時の発起人も会員も知らないだろう。
さて冊子の表紙に「雑記帳の集い」だけロゴにして入れるという。いずれ自主グループにしていくのでという。
私は反対した。私が出したアイデア、ロゴは「奈良新聞社『雑記帳の集い』」に対して自主グループにするその1人の意見は私の意見を潰すことで必死になった。
もう侃々諤々の意見の言い合いになった。
そして「あんたは性格が悪い」と何度もみんなの前で言われた。
この言葉も頭に残っている。
「私が『主』であんたは『従』だ」と言った。
なにかこの言葉も私の胸にグサッと刺さり彼女は大変いびつに見えて嫌いになった。
これが差別発言だとはそのときは気がつかなかったが彼女の内面に私の国籍に差別が潜在していたからこんな発言がでたことが年を重ねて分かるようになった。
私は当時まだ37歳、私より一回りの年上の人は年下が意見に従ってくるものだと思っていたのだろう。しかし嫌いになった彼女とはずっと対立したままにきた、今も表向きは挨拶ぐらいするがいじめられた屈辱はずっと忘れることができない。
しかし私は本能的に直感で自主グループになることを反対した。
奈良風土の「長い物に巻かれていく」そのままである。
私の意見に誰も賛同しょうとはせず年輩の人の意見に傾いていた。
そのことは奈良新聞社の社内にも伝わっていったのだろう。
次の会合のときに社員のO女性が会合に私も会員と言って参加してくれた。
そしてロゴのことで意見をまた交わしているとOさんが助け舟をだしてくれた。
「『雑記帳』の投稿欄は奈良新聞の紙面の中で掲載されているものだから『奈良新聞社』のロゴを入れるほうがいいと思う」と言ってくれた。
それでもその反対している人は「自主グループ」と言って反発した。
私は何の意味かわからなかったが本能だった。直感だった。「奈良新聞社」のロゴにたいして頑固にこだわった。
そしてOさんは言った。
「奈良新聞の上の人たちもたぶん『奈良新聞社』のロゴを入れてほしいと思っていますよ」とさりげなく言葉を出した。
この言葉で周りにいた編集委員たち約10人は口々に言い出した。
「奈良新聞の紙面で投稿しているのだからそれはやっぱり『奈良新聞社』のロゴを入れるほうがいいわ」と言って下さった。
その反対する人は何も言えなくなった。それでもまだしつこく30余人が集まる例会でロゴを入れるのか入れないのかの意見を出した。入れるほうが圧倒的に多かった。
このときのロゴでの意見の食い違い、意見を交わしたことは忘れていない。私の記憶の中にしっかり残っている。
それでもこの後のしっぺ返しが凄かった。
自主グループにすると言っていた人からずっといじめられ今も続いている。
何周年かの記念冊子に最初から冊子の編集委員にかかわっているのに私の名前を掲載しなかった。
そして2年抗議をしてやっと名前がのったと思ったら通名しか載っていなかった。このことに抗議したいくらいだった。がそんなエネルギーが消えうせた。
日本植民地時代の歴史認識のない人にいくら言っても無駄だと悟った。
民族差別のあることが浮き彫りにされた。
すでに本名を名のって4・5年たっていたのだから本名記載をしてカッコで通名を入れるのが本名を名のっている人の礼儀ではないか。
もっと悪かったのは本名を名のりだしてから私の会員の名前が1番後ろに記載されていた。
かつて公立学校の日本人教師がしたように本名を名のる子どもは名簿の1番後ろに記載した。あいうえお順にすれば誰かの後ろだとこれも抗議してやっと理解してもらえた。
いかに年配者の会合で日本植民地時代の歴史が希薄であることが見て取れる。
60年の記念誌を早いテンポで目を通したが私の言った発言は間違っていなかった。と改めて感慨にふけっていた。1人で自己満足していた。
奈良新聞社のロゴを使ったのでデスクたちや関係者は長い目で育つことを見ていて下さった。もし奈良新聞社と切り離していれば25年も継続してこの会合を発展させることができなかった。第一、編集会議や会合を行なう場所にも苦労しただろう。会合や編集会議はすべて奈良新聞社の社屋を利用することができた。これだけでも会合の経費は減額につながった。
そして冊子第1号を出版することでその自主グループを言った人たちからも反対された。しかしたとえ10ページ、20ページのうすぺらっな冊子であっても会合を創設した年から出して会合は継続していくとこれも私の本能で直感だった。形を作ることで奈良新聞社の支援も変わると確信していた。
そして奈良新聞社の社史に記載されるまでに「雑記帳の集い」は奈良新聞社で半永久の購読者になった。
感慨深いものがある。
ジャーナリスト・ネット代表のKさんたちが創設した奈良新聞社の「現代奈良研究会」のことも社史の中に記載されていた。
そして4年前に他界したMさんの功績も記載されていた。
参加して社史をもらったことはよかった。
私を専業主婦から社会参加の第1歩になった奈良新聞社、まわりではいいことも悪いことも聞くが私にとっては人生のし一部を過ごしたところである。
現在は「雑記帳の集い」には参加していない。会員でいる。これは民団奈良県本部のある方の助言である。
「本名で冊子にのっている。会員でいることは将来の子どもたちの希望になるから会員は辞めないで」ということでその言葉も大事にしている。
しかし「現代奈良研究会」の会員は続けていけるところまで続けていこうと思っている。これも本名で参加することに大きい意味がある。そして私自身、日本社会とのバランス感覚を養う大事な場所であるからだ。
また同僚だった人たちは取締役になっておられるがその人たちは私か本名を名のっても通名時代と変わらず付き合って下さる。そんな人脈も大事にしたいと思っている。
Tさん、Uさん、Ⅰさん、Kさん、晴れがましい舞台で緊張しておられたが皆さんの顔を見ることができてよかった。
60年誌を読んで気がついたことをここに書き込んでおくことにした。
弁解がましいことになったがこれも言わないと会員たちは創設当時の苦労話は1人や2人の話になっている。裏にはこんなことをあったと知ってもらいたいのであえて社名もいれた。すみません。
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