彼女は李さん。釜山水産大学を卒業してすぐ結婚をしたのがキャンバス恋愛をした人だった。まじめなご主人だった。堅物の人だった。その補佐を奥さんの彼女がしていた。
よく尽くしておられた。
私は取材現場が京都になった。民団京都本部にも出入りをして民団関係も取材しなければならなかった。
京都というところは在日同胞も同じで見識のまったくないものが現場に入って仕事することは容易ではなかった。
それでも私はまだまだ仕事に燃えていたのでめげないで訪問していた。
最初は会館に行っても誰も相手にしてくれない。
何しにきたのかという顔している。行事予定も黒板以外のことを他からきいているのに当時の職員は「そこに書いてあるだけ。見たらわかるやろ」とケンもホロロだった。
そして女性記者だったので婦人会の会館に最初挨拶に行って取材して記事にしていた。このへんの影響もあった。
当時の京都の在日同胞は派閥、派閥でその人脈は複雑だった。
しかし私はそんな派閥のことはまったく知らなかった。
情報収集をして取材して記事にすることに奔走していた。
めげないで京都に入った。京都の行政機関から入り京都の在日外国人教育の問題点を何度も掘り起こし記事にした。
また京都における同胞の地場産業経営者を取材するときは韓国商工会議所の職員にもずいぶん助けて頂いた。
そのとき右も左も分からない記者に一番、親身になって記事の情報などを教えてくれたのが当時の青年会会長で商工会議所の職員だった。
当時の青年会長は今、民団京都伏見支部の幹部役員になって支部の活動に奔走している。
お好み焼きを経営して奮闘している。
このときのことも私は生涯忘れることのできない思い出になった。
それも極端で1番お世話になった人たちと1番嫌な人たちだった人を思い出してしまう。
そんなとき当時の民団京都本部の職員は面識もない私にはなんの対応もしてくれなかったがめげないで通った。そのとき1番親切に対応してくれたのが現在釜山に住むRさんだった。
クリスチャンの彼女は人に対する思いやりをたくさん持っていた。
当時の新聞社は日刊紙でいつも多忙だった。昼食を食べないでよく電車に乗って京都に向かった。そんな私に驚いて「昼ごはんぐらい食べて下さい」と私の健康を気遣って昼食を出してくれたこともあった。
留学生の夫婦は大変だとこの彼女を通して初めて分かった。
日本のライオンズクラブからの奨学金を貰うのも大変だったようだ。
それで奥さんが民団京都本部で働いて収入を得ていた。まだ当時、民団で旅券のパスポートを発行していたので韓国語のできる留学生の奥さんは重宝されていた。
彼女の住んでいる京大近くの家も何度も訪ねた。それでも嫌な顔1つせず私に応対をしてくれた。
こんな人たちは韓国の人でも珍しい。よく出来た人だった。
旅券のバスポートが管轄の総領事館で発行されることになり彼女たちも継続して仕事ができるのか危機にさらされていた。
彼女たちの家族は釜山に帰国した。
そして彼女の助けもあってなんとか釜山水産大学で助教授を努めていたようだった。真面目なご主人だったのでしばらくして教授になられたと聞いている。
釜山から慶州に行くときも一緒に同行してくれたのも彼女だった。このことも一生忘れることのない借りを作ってしまった。
釜山に行くと彼女の家に泊まった。叔母の家より気を使わなかった。
そして釜山の叔母も時間がありすぎて暇だったのだろう。
たぶん何度も電話をして迷惑をかけていたのだろう。
ある日、釜山の叔母から母親に電話が入った。
彼女の電話が通じなくなったという。
私は母には「引越ししたのだろう」と言って黙った。それ以上言わなかった。
母が亡くなって2回目の秋がきた。
釜山の彼女と連絡がとれなくなって数年以上になった。
仕方がない。探せばいいがまた迷惑をかけそうでそのままにしてある。
いつか分かるときがくればぜひお礼を言いたい。
今は彼女、教授夫人になって子どもの教育に熱心に取り組んでいることだろう。
彼女のおかげで京都の現場をかけまわり当時の青年会長、そして佐京支部の皆さんなど多くの人たちにずいぶんお世話になった。多くの人のおかげでたくさん取材することもできた。その恩はけっして忘れていない。
40代の後半だった私はまだめげないでかけずりまわるエネルギーがたくさんあった。体の中に満タンしていた。
今はそのエネルギーもなくなってしまった。
京都の同胞たちは「何もないところに押しかけてきたがあんたはよくやったな」という言葉を聞くとみんな見ていてくれていたことがわかって感謝をしている。
京都の同胞たちに今日の私を育ててもらったとも思っている。
そんなことをあの日、あの時を書いていて思い出した。
よく尽くしておられた。
私は取材現場が京都になった。民団京都本部にも出入りをして民団関係も取材しなければならなかった。
京都というところは在日同胞も同じで見識のまったくないものが現場に入って仕事することは容易ではなかった。
それでも私はまだまだ仕事に燃えていたのでめげないで訪問していた。
最初は会館に行っても誰も相手にしてくれない。
何しにきたのかという顔している。行事予定も黒板以外のことを他からきいているのに当時の職員は「そこに書いてあるだけ。見たらわかるやろ」とケンもホロロだった。
そして女性記者だったので婦人会の会館に最初挨拶に行って取材して記事にしていた。このへんの影響もあった。
当時の京都の在日同胞は派閥、派閥でその人脈は複雑だった。
しかし私はそんな派閥のことはまったく知らなかった。
情報収集をして取材して記事にすることに奔走していた。
めげないで京都に入った。京都の行政機関から入り京都の在日外国人教育の問題点を何度も掘り起こし記事にした。
また京都における同胞の地場産業経営者を取材するときは韓国商工会議所の職員にもずいぶん助けて頂いた。
そのとき右も左も分からない記者に一番、親身になって記事の情報などを教えてくれたのが当時の青年会会長で商工会議所の職員だった。
当時の青年会長は今、民団京都伏見支部の幹部役員になって支部の活動に奔走している。
お好み焼きを経営して奮闘している。
このときのことも私は生涯忘れることのできない思い出になった。
それも極端で1番お世話になった人たちと1番嫌な人たちだった人を思い出してしまう。
そんなとき当時の民団京都本部の職員は面識もない私にはなんの対応もしてくれなかったがめげないで通った。そのとき1番親切に対応してくれたのが現在釜山に住むRさんだった。
クリスチャンの彼女は人に対する思いやりをたくさん持っていた。
当時の新聞社は日刊紙でいつも多忙だった。昼食を食べないでよく電車に乗って京都に向かった。そんな私に驚いて「昼ごはんぐらい食べて下さい」と私の健康を気遣って昼食を出してくれたこともあった。
留学生の夫婦は大変だとこの彼女を通して初めて分かった。
日本のライオンズクラブからの奨学金を貰うのも大変だったようだ。
それで奥さんが民団京都本部で働いて収入を得ていた。まだ当時、民団で旅券のパスポートを発行していたので韓国語のできる留学生の奥さんは重宝されていた。
彼女の住んでいる京大近くの家も何度も訪ねた。それでも嫌な顔1つせず私に応対をしてくれた。
こんな人たちは韓国の人でも珍しい。よく出来た人だった。
旅券のバスポートが管轄の総領事館で発行されることになり彼女たちも継続して仕事ができるのか危機にさらされていた。
彼女たちの家族は釜山に帰国した。
そして彼女の助けもあってなんとか釜山水産大学で助教授を努めていたようだった。真面目なご主人だったのでしばらくして教授になられたと聞いている。
釜山から慶州に行くときも一緒に同行してくれたのも彼女だった。このことも一生忘れることのない借りを作ってしまった。
釜山に行くと彼女の家に泊まった。叔母の家より気を使わなかった。
そして釜山の叔母も時間がありすぎて暇だったのだろう。
たぶん何度も電話をして迷惑をかけていたのだろう。
ある日、釜山の叔母から母親に電話が入った。
彼女の電話が通じなくなったという。
私は母には「引越ししたのだろう」と言って黙った。それ以上言わなかった。
母が亡くなって2回目の秋がきた。
釜山の彼女と連絡がとれなくなって数年以上になった。
仕方がない。探せばいいがまた迷惑をかけそうでそのままにしてある。
いつか分かるときがくればぜひお礼を言いたい。
今は彼女、教授夫人になって子どもの教育に熱心に取り組んでいることだろう。
彼女のおかげで京都の現場をかけまわり当時の青年会長、そして佐京支部の皆さんなど多くの人たちにずいぶんお世話になった。多くの人のおかげでたくさん取材することもできた。その恩はけっして忘れていない。
40代の後半だった私はまだめげないでかけずりまわるエネルギーがたくさんあった。体の中に満タンしていた。
今はそのエネルギーもなくなってしまった。
京都の同胞たちは「何もないところに押しかけてきたがあんたはよくやったな」という言葉を聞くとみんな見ていてくれていたことがわかって感謝をしている。
京都の同胞たちに今日の私を育ててもらったとも思っている。
そんなことをあの日、あの時を書いていて思い出した。
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