筆者も勉強不足である。手元に資料として保存しているのがある。
手元にある資料を通して「古代韓日交流の鍵」としての資料があるので紹介をしたい。民団新聞は2006年4月5日付けと4月19日付けの2回にわたってフリー・ジャーナリストの吉成繁幸さんが寄稿している。詳細に紹介されているので資料として大事な文献と考えて紹介をしたい。掲載が2回にわたっての長文なので3・4回に分けて紹介をしていく。(原文のまま民団新聞から転載)
見出しは「高麗茶道―日本に深い影響」として小見出しは「臨済宗の僧・栄西の茶会洋式も類似」としてある。さらにまだ大見出しがついている。「作法広めた高麗遺民―朝鮮朝の拝仏政策で渡日」と記されている。
■ 高麗茶道―日本に深い影響①
前文―草庵茶室の狭小の空間に侘(わび)、寂(さび)の小宇宙を創出する日本の茶道。日本オリジナルと信じられていた千利休に至る日本茶道の確立期に高麗時代の茶道が大きな影響を与えていた。また日本に中国(宋)から茶の儀礼を伝えたとされるのが臨済宗の僧・栄西だが彼の茶会の様式も本家のスタイルより高麗の茶礼により似ている。日本茶道の発祥に高麗茶道が深くかかわっていた事実を検証する。
「茶室王国の高麗時代」(1)
韓半島および日本列島に茶が最初に持ち込まれたのはともに7世紀から8世紀頃と見られている。『三国史記』に「新羅本紀」によると善徳王の治世(632~646年)に入唐廻使が唐から茶種を持って来て、地理(智異)山に植えたという記載がある。日本でも奈良時代(8世紀)に聖武天皇が茶をたしなんだという文書が正倉院にある。これも唐から遣唐使が持ち込んだものだろう。
その後日本で遣唐使の廃止とともに飲茶の習慣は一旦途絶え再び日本に茶を伝えたのは平安時代末期、宋に留学していた臨済宗の僧・栄西である。
新羅では飲茶の習慣はその後も盛んで朝鮮史学者・三品章英氏の『新羅花郎の研究』には「煎茶が一種の宗教的儀礼として花郎の行事に取り入れられ----」とあり「花郎茶道」のような儀礼が存在していたことを指摘している。
高麗時代、韓国の歴史の中でも最も飲茶の風習が盛んになる。禅宗の僧侶たちにより宋で行われていた最新の茶道が伝えられ多様な茶会が行われていた。宮中では茶礼という儀式作法が行われ文人たちは風流を楽しむ茶俗を禅宗たちは求道的な茶風をたしなんでいた。ちなみに高麗の茶は新羅の煎茶に対して抹茶である。次回はこの続きを紹介していく。
この民団新聞と同じ文面がインターネットにも吉成繁幸さんの紹介で出ていた。写真も豊富に掲載されていた。民団新聞の記事の写真は韓国茶道・伝統礼節協会東京支部長の李瑛子さんのお手前が紹介されているがインターネットには申雲鶴さんの妹さんがお手前をしているところが掲載されている。
韓国茶道を日本で紹介して活動する人たちは申雲鶴さんの影響を多少受けられただろう。戦後、日本植民地支配から解放された後、高麗茶道を普及した申雲鶴さんの気持と何ら変らないと見ている。たまたま申雲鶴さんは日本東大阪市にある大阪樟蔭女子大学で日本茶道を学びここで学んだ。韓国に渡って歴史文献を紐解くと高麗時代に遡って韓半島とつながっていることを知った。このことを証明する意味もあって日本で妹さんと一緒に普及活動をされてきた。そこから枝分れをしていったグループが関西で活動している。このことを原点にしてもう1度関西での活動の取り組みを振り返ってもらいたいものである。関西で普及活動された申雲鶴さんを韓日双方から見てきた筆者は節にそう願う。
【写真説明】奈良市内の実妹の自宅に滞在している間、筆者は申雲鶴さんとお会いした。1994年11月9・10・11日と滞在、奈良公園を散策して鹿に声をかける申雲鶴さん。
手元にある資料を通して「古代韓日交流の鍵」としての資料があるので紹介をしたい。民団新聞は2006年4月5日付けと4月19日付けの2回にわたってフリー・ジャーナリストの吉成繁幸さんが寄稿している。詳細に紹介されているので資料として大事な文献と考えて紹介をしたい。掲載が2回にわたっての長文なので3・4回に分けて紹介をしていく。(原文のまま民団新聞から転載)
見出しは「高麗茶道―日本に深い影響」として小見出しは「臨済宗の僧・栄西の茶会洋式も類似」としてある。さらにまだ大見出しがついている。「作法広めた高麗遺民―朝鮮朝の拝仏政策で渡日」と記されている。
■ 高麗茶道―日本に深い影響①
前文―草庵茶室の狭小の空間に侘(わび)、寂(さび)の小宇宙を創出する日本の茶道。日本オリジナルと信じられていた千利休に至る日本茶道の確立期に高麗時代の茶道が大きな影響を与えていた。また日本に中国(宋)から茶の儀礼を伝えたとされるのが臨済宗の僧・栄西だが彼の茶会の様式も本家のスタイルより高麗の茶礼により似ている。日本茶道の発祥に高麗茶道が深くかかわっていた事実を検証する。
「茶室王国の高麗時代」(1)
韓半島および日本列島に茶が最初に持ち込まれたのはともに7世紀から8世紀頃と見られている。『三国史記』に「新羅本紀」によると善徳王の治世(632~646年)に入唐廻使が唐から茶種を持って来て、地理(智異)山に植えたという記載がある。日本でも奈良時代(8世紀)に聖武天皇が茶をたしなんだという文書が正倉院にある。これも唐から遣唐使が持ち込んだものだろう。
その後日本で遣唐使の廃止とともに飲茶の習慣は一旦途絶え再び日本に茶を伝えたのは平安時代末期、宋に留学していた臨済宗の僧・栄西である。
新羅では飲茶の習慣はその後も盛んで朝鮮史学者・三品章英氏の『新羅花郎の研究』には「煎茶が一種の宗教的儀礼として花郎の行事に取り入れられ----」とあり「花郎茶道」のような儀礼が存在していたことを指摘している。
高麗時代、韓国の歴史の中でも最も飲茶の風習が盛んになる。禅宗の僧侶たちにより宋で行われていた最新の茶道が伝えられ多様な茶会が行われていた。宮中では茶礼という儀式作法が行われ文人たちは風流を楽しむ茶俗を禅宗たちは求道的な茶風をたしなんでいた。ちなみに高麗の茶は新羅の煎茶に対して抹茶である。次回はこの続きを紹介していく。
この民団新聞と同じ文面がインターネットにも吉成繁幸さんの紹介で出ていた。写真も豊富に掲載されていた。民団新聞の記事の写真は韓国茶道・伝統礼節協会東京支部長の李瑛子さんのお手前が紹介されているがインターネットには申雲鶴さんの妹さんがお手前をしているところが掲載されている。
韓国茶道を日本で紹介して活動する人たちは申雲鶴さんの影響を多少受けられただろう。戦後、日本植民地支配から解放された後、高麗茶道を普及した申雲鶴さんの気持と何ら変らないと見ている。たまたま申雲鶴さんは日本東大阪市にある大阪樟蔭女子大学で日本茶道を学びここで学んだ。韓国に渡って歴史文献を紐解くと高麗時代に遡って韓半島とつながっていることを知った。このことを証明する意味もあって日本で妹さんと一緒に普及活動をされてきた。そこから枝分れをしていったグループが関西で活動している。このことを原点にしてもう1度関西での活動の取り組みを振り返ってもらいたいものである。関西で普及活動された申雲鶴さんを韓日双方から見てきた筆者は節にそう願う。
【写真説明】奈良市内の実妹の自宅に滞在している間、筆者は申雲鶴さんとお会いした。1994年11月9・10・11日と滞在、奈良公園を散策して鹿に声をかける申雲鶴さん。
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