朝自宅を出たのが9時25分ごろ。
すぐにバスがきたのでバスに乗って近鉄奈良駅に向かう。銀杏やについたのが9時35分、急いで新聞を読むが見たいところがあるのでちょっと時間がかかる。近鉄奈良駅から難波行きにのったのが10時24分、上本町から地下鉄谷町9丁目から中崎町にでる。民団大阪本部会館の4階に駐大阪大韓民国総領事館大阪韓国文化院が入っている。初めてのハングル書道展。受講者の書道展、奥の方の部屋から韓国の歌曲が聞こえる。気になって覗いてみるとまたこれも韓国歌曲受講者の1人ずつの発表会、10数人が発表している。韓国で皆に親しまれている歌である。民謡もあれば童謡もある。
「兄を思う」「先駆者」など私の好きな歌もある。
しばらく見ていて一通り受講者の発表が終わった。
そして文化院の関係者らが歌う。
そして最後に講師は私に「韓国の好きな歌を歌って下さい」という。そんな私が歌えるわけがない。子どもたちが歌う「故郷の春」そして韓国のミリオンセラーになった「愛の迷路」それに昔、日本でもよく歌われた「離別(イビョル)」しか歌われへん。
私は思わず韓国語で「韓国語がそんなにできないのですみません」と言って拒否した。韓国語で話したので講師は首を傾げている。あれ。韓国語が話せるのにおかしいと思われたみたい。こんな言葉は何度も使っているうちに発音もそれなりに出来てくる。また私は韓国語で「日本で生まれたので韓国語はできません」と言ったらやっと納得された。
日本で生まれたというとやっと講師は納得された。
そして在日韓国人の間で取材しているとたいてい私のこと民族学校を卒業したと思っている。
聞くのは大体聞く。親もそうだったが祖母が日本語を一切使わなかったのですべて孫にも韓国語で話していたので耳で聞いて育っているのでたいていのことは聞き取れるので、韓国語で話されたことを頭の中で日本語に訳して日本語でメモしている。民族学校を出た人はハングルでメモしている。私はそんなことができない。すべて日本語でメモしている。
それでも民族学校を卒業したと思われるが残念ながら田舎で育ったので地元の日本の公立学校、高校まで一貫して地元の学校を卒業している。
高校を卒業してからもOL生活も日本の会社で韓国語とはまったく縁遠い和文タイピストだった。
父親は民族ということにこだわって子どもたちには自分の出自は教えたが日本社会に適応するように生活様式は教えていたし民族団体には所属しないで自分の考えを貫き通した。
私の顔を見ても韓国ができない顔をしているのに----。側にいた日本人女性に「私は2世だからできないのです」と言ったら「嘘」という。「韓国語がすごいうまいやんか」という。ところが日本人から見ると上手く聞こえるが韓国人が聞くと本当に下手な韓国語なのである。
今日は思わぬハプニングを体験した。書道の展示会の現場だったがまた1つ取材ネタができた。これをまたどんなふうに企画しょうかとまたデスクと話し合っていくことにしよう。
時計は1時半になっていた。近所で親子丼を急いでかきこんで地下鉄で難波に向かった。難波から南海線に乗り換えて堺東に行く。少し早く着すぎたがコーヒーを飲んでゆっくりしている時間はない。堺市庁の待合室でまって4時になったら会議室に行った。4時からの会合は5時10分までかかった。終わるやいちもくさんにエレベーターで下におりて南海線の堺東駅に行く。
ホームに行くと電車がきた。難波に着くと5時40分、近鉄難波駅5時54分の奈良行き快速急行に乗った。5時35分の特急はいったばかり。次は6時35分である。待っていられない。快速急行に乗った。始発なのでなんとか座れる。
奈良に着くと6時半、コピーをとりにも行けない。明日にすることにした。
スーパーで買物をする。すぐに食卓に並ぶものばかり。
刺身、高野豆腐の惣菜、家に帰ってぜんまいを炒めた。夕べの残りえんどう豆の煮た物が残っている。
スピードで夕食の用意してお風呂に入ってシャワーを浴びた。
それからパソコンの前にすわると所用が入っている。
とりあえずプリントにした。
そしたら夫が帰ってきた。
「もう今日は忙しかったわ」と言ったら「俺は何も知らんで」とまた馬鹿にされた。テレビは歌番組をつけながらしているので昔の古い歌に夫は何もいわずチャンネルをまわさない。そして呟いている。「昔の歌は情があった」と。
うん。なるほど。こんな表現の仕方があったのかと。
歌曲を教えている講師、私は日本の歌なら歌えるけれど韓国の歌は歌えません。
日本の歌番組、昭和の名曲の番組を気に入って見ている。知っている歌があると口ずさんでいる。神田川とか青春時代です。当時は韓国でどんな歌が流行っていたのだろうか。歌えないけれど聞くのは好き。「故郷の無情」に「愛慕」そして「マンナム(出会い)」とか。歌えないけれど人が歌っていると聞き入っています。
父親がこの歌はいい歌と子どものころ聞いたのが「木浦の涙」「豆満江---」この歌は日本植民地時代に親しまれた歌である。在日韓国人の中で記者になってこの歌もよく聞くようになった。なるほど父親たちが親しんで歌がこれだったのか。叔父の結婚式でもよく歌われたよく聞いた。今題名がでてこない。
いつか北も南もわだかまりもなく「ウリエソウン(我らの願い)」統一の願いが心置きなく歌える日は来るのだろうか。ふとそんなことを考えていた。歌曲の発表会だった。
すぐにバスがきたのでバスに乗って近鉄奈良駅に向かう。銀杏やについたのが9時35分、急いで新聞を読むが見たいところがあるのでちょっと時間がかかる。近鉄奈良駅から難波行きにのったのが10時24分、上本町から地下鉄谷町9丁目から中崎町にでる。民団大阪本部会館の4階に駐大阪大韓民国総領事館大阪韓国文化院が入っている。初めてのハングル書道展。受講者の書道展、奥の方の部屋から韓国の歌曲が聞こえる。気になって覗いてみるとまたこれも韓国歌曲受講者の1人ずつの発表会、10数人が発表している。韓国で皆に親しまれている歌である。民謡もあれば童謡もある。
「兄を思う」「先駆者」など私の好きな歌もある。
しばらく見ていて一通り受講者の発表が終わった。
そして文化院の関係者らが歌う。
そして最後に講師は私に「韓国の好きな歌を歌って下さい」という。そんな私が歌えるわけがない。子どもたちが歌う「故郷の春」そして韓国のミリオンセラーになった「愛の迷路」それに昔、日本でもよく歌われた「離別(イビョル)」しか歌われへん。
私は思わず韓国語で「韓国語がそんなにできないのですみません」と言って拒否した。韓国語で話したので講師は首を傾げている。あれ。韓国語が話せるのにおかしいと思われたみたい。こんな言葉は何度も使っているうちに発音もそれなりに出来てくる。また私は韓国語で「日本で生まれたので韓国語はできません」と言ったらやっと納得された。
日本で生まれたというとやっと講師は納得された。
そして在日韓国人の間で取材しているとたいてい私のこと民族学校を卒業したと思っている。
聞くのは大体聞く。親もそうだったが祖母が日本語を一切使わなかったのですべて孫にも韓国語で話していたので耳で聞いて育っているのでたいていのことは聞き取れるので、韓国語で話されたことを頭の中で日本語に訳して日本語でメモしている。民族学校を出た人はハングルでメモしている。私はそんなことができない。すべて日本語でメモしている。
それでも民族学校を卒業したと思われるが残念ながら田舎で育ったので地元の日本の公立学校、高校まで一貫して地元の学校を卒業している。
高校を卒業してからもOL生活も日本の会社で韓国語とはまったく縁遠い和文タイピストだった。
父親は民族ということにこだわって子どもたちには自分の出自は教えたが日本社会に適応するように生活様式は教えていたし民族団体には所属しないで自分の考えを貫き通した。
私の顔を見ても韓国ができない顔をしているのに----。側にいた日本人女性に「私は2世だからできないのです」と言ったら「嘘」という。「韓国語がすごいうまいやんか」という。ところが日本人から見ると上手く聞こえるが韓国人が聞くと本当に下手な韓国語なのである。
今日は思わぬハプニングを体験した。書道の展示会の現場だったがまた1つ取材ネタができた。これをまたどんなふうに企画しょうかとまたデスクと話し合っていくことにしよう。
時計は1時半になっていた。近所で親子丼を急いでかきこんで地下鉄で難波に向かった。難波から南海線に乗り換えて堺東に行く。少し早く着すぎたがコーヒーを飲んでゆっくりしている時間はない。堺市庁の待合室でまって4時になったら会議室に行った。4時からの会合は5時10分までかかった。終わるやいちもくさんにエレベーターで下におりて南海線の堺東駅に行く。
ホームに行くと電車がきた。難波に着くと5時40分、近鉄難波駅5時54分の奈良行き快速急行に乗った。5時35分の特急はいったばかり。次は6時35分である。待っていられない。快速急行に乗った。始発なのでなんとか座れる。
奈良に着くと6時半、コピーをとりにも行けない。明日にすることにした。
スーパーで買物をする。すぐに食卓に並ぶものばかり。
刺身、高野豆腐の惣菜、家に帰ってぜんまいを炒めた。夕べの残りえんどう豆の煮た物が残っている。
スピードで夕食の用意してお風呂に入ってシャワーを浴びた。
それからパソコンの前にすわると所用が入っている。
とりあえずプリントにした。
そしたら夫が帰ってきた。
「もう今日は忙しかったわ」と言ったら「俺は何も知らんで」とまた馬鹿にされた。テレビは歌番組をつけながらしているので昔の古い歌に夫は何もいわずチャンネルをまわさない。そして呟いている。「昔の歌は情があった」と。
うん。なるほど。こんな表現の仕方があったのかと。
歌曲を教えている講師、私は日本の歌なら歌えるけれど韓国の歌は歌えません。
日本の歌番組、昭和の名曲の番組を気に入って見ている。知っている歌があると口ずさんでいる。神田川とか青春時代です。当時は韓国でどんな歌が流行っていたのだろうか。歌えないけれど聞くのは好き。「故郷の無情」に「愛慕」そして「マンナム(出会い)」とか。歌えないけれど人が歌っていると聞き入っています。
父親がこの歌はいい歌と子どものころ聞いたのが「木浦の涙」「豆満江---」この歌は日本植民地時代に親しまれた歌である。在日韓国人の中で記者になってこの歌もよく聞くようになった。なるほど父親たちが親しんで歌がこれだったのか。叔父の結婚式でもよく歌われたよく聞いた。今題名がでてこない。
いつか北も南もわだかまりもなく「ウリエソウン(我らの願い)」統一の願いが心置きなく歌える日は来るのだろうか。ふとそんなことを考えていた。歌曲の発表会だった。
一番前の席にいましたので、ご挨拶もしませんでしたが、ハングル書芸の当番の人で、鄭さんから名刺をいただいたと、喜んで見せてくれた人がいました。
ところで、ハングル書芸の先生が帰国され講座はなくなりました。京阪神でハングル書芸を教えている人がありましたら紹介していただけませんか。もう少し続けてみたいと思っているのです。