明日は1つの診察の予約が9時になっていてこれはきついと考えて病院の受付で11時の変更を言うと9時に入って下されば受付した順番の診察という。
それで「膝治療の整形外科を先に診察してからそちらにまわります」とした。
今日は何かしら病院が空いている。
9時15分に中待合に入って10時予約通り10時の診察となった。
会計を済ませて薬局に行くと10時20分、薬局で薬を貰って出るときは10時40分、歩いて市内循環バス乗場に向かった。
近鉄奈良駅に出ると11時前、日替わりランチの出る食事処はまだランチタイムではない。この近くの喫茶店に入って焼き飯を頼んだ。店を出て宅急便を出すのにコンビニによって宅急便を送って行きつけの喫茶店に行くと11時半になっていた。
今日は新聞が休刊、昨日の新聞1紙読んで今度は1冊の本を読むことにした。
もう読破、この本を読んで買えることにした。
今日は喫茶店で読むためにいつも読んでいる文庫本とそしてもう1冊の単子本を入れると鞄が重たい。これは今日読みきって家においておかなければならない。読みきった、2時前に読み終わった。斜め読みのところもあったが読破した。
いつもはコーヒーのお代わりですますが長い時間の居座りに申し訳ない。
レモンテイーをまた頼んで本を読破した。
2時前に喫茶店を出て今度は100円均一の店に行った。
洋裁道具を今までお菓子の空き缶などに入れていたがあれこれ入れていくと空き缶に入らなくまってきた。大きいプラスチックの容器を買ってまた中で小分けして入れられるようにと小さいプラスチック容器も買った。
ついでにゴミ袋なども100円均一にあることを分かったのでそんなものなどの雑貨を買い込んだ。この大きな袋を持って今度はスーパーで買い物した。
市内循環バス乗場に行くと中循環バスが出た後、2時半頃の市内循環バスはまだ高校生などが乗って来ないので比較的まだ空いていて座るところがあるのですぐ来た市内循環バスに乗った。
家に帰ると3時前、風呂に湯を入れて荷解きをして湯が入ったので風呂に入った。風呂に入った後、家事をしていく。パソコンの前に座った時はもう4時前になっている。
またこれから夕食の支度をしないといけないが----。
今日は焼き飯をしないといけない。
ご飯が少しあったが昨日の夕方、炊飯器にご飯を仕掛けた。残りご飯は焼き飯にしょうと思っていたら夫は素麺を食べたいという。それで昨日の日曜日は素麺にしたのでご飯が残ったままである。
焼き飯にして今日は片付けないといけない。
他に味噌汁を作って----。
夫のビールの肴は刺身を買ってきたので何とか今日はあわてて夕食の支度をしなくてすむ。
明日もまた病院行き、病院行きが何かと多くなってくる。
老化とはこんなことなのだろうか。
今日はバスに乗っていてふとソウルの町を思い出していた。
懐かしい。久しぶりにソウルの町を歩いて見たい。
そう言えば、昨日の韓国ドラマ「ジャインアント」の中で待ち合わせの場所にソウル市庁前にある「徳寿宮」が言葉で出されていた。
本当にそこで撮影されたのか定かではないが徳寿宮の中を歩くと庭などがきれい。その季節、季節の風情がある。
私がいつも宿泊しているニュー国際ホテルから徳寿宮の塀が見えている。
上の階に宿泊していると徳寿宮の建物まで見えている。
ソウルの町にこんなに素晴らしい文化を持ったかつてここにいにしえの文化があったと思うと日本植民地支配下で当時の日本はどんな手酷いことをして朝鮮王朝政権を揺るがしたのか-----。そんなことを考えてしまう。
当時は帝国主義で侵略することで政権を握り領土を増やしていくというものだった。しかしそれにしても日本の侵略は酷かった。
言葉を奪い文化も文字も奪った。
日本人の多数は日本植民地支配で朝鮮を近代化したというがこれは日本の言い訳で弁解しているに過ぎない。
精神構造を壊滅させられた痛手はずっと後世まで語り注がれていく。日本に渡った1世の傷は語りつくせないほど酷い日本植民地統治だった。
こんなことは日本の学校教育で教えない。
ほとんどの在日コリアン子弟は日本の公立学校の教育を受けていく。
未だに日本植民地支配の残像の中で生きている在日コリアンの現実である。
テレビの中での会話に「徳寿宮」が出てきた。
ソウルの町を懐かしく思いそして朝鮮王朝時代の末期政権の翻弄を思わずにいられなかった。
きめ細かな建物などに当時の朝鮮人の美意識を考えさせられる。
またソウルの町を歩きたいと思う。
もう今はすっかり有名になった俳優、チュサンウク(朱相)に会うことはないだろう。もうマネジャーがついて1人で行動されることもなく明洞の町を歩くことはないだろう。見ることはないだろう。
私が2005年だったのか。2006年だったのか。
韓国で使うドライヤーをロッテ百貨店の電化製品売り場に購入に行った。
ホテル備え付けのドライヤーは私は不器用で使えない。
私の使いやすいドライヤーがあるが日本からは持っていけない。電圧が違うので使えないので韓国で販売されているものと購入に行った。
エスカレーターで電化製売り場に行く時に下に下りていくエスカレーターとすれ違った。すれ違う時に見た若い男性に私ははっとなって息をのんだ。
ものすごい男前の男性、韓国はこんな男前によく出会うがまたすこぶる男前だった。私はじっと見とれていたので若い青年も私を一瞬見た。
たぶん「日本から来たダサイ、アジュマ(おばさん)」と思っていただろう。
私がもう少し若かったら「ヒャー男前」と日本語で言ったかもしれないがもう60歳になった私はやはり周りを気にして心の中で「わあ。ものすごく男前や」とつぶやいていた。思わず振り返って背中をみたほどだった。
そしてテレビで見ていると「この顔、この顔をロッテ百貨店のエスカレーターですれ違った顔」と、心の中で叫んでいる。夫には何回も言っている。
将来はスターになるべくオーラーがあった。あのオーラーが今日のチュサンウクと思ってテレビを見ている。エスカレーターですれ違った若い男性は「チュサンウク」だったと今、私は思っている。間違いがないと思っている。
「ジャンアイント」のドラマは終盤になっている。後3回で終了してしまう。
しばらく気が抜けてしまう日になってしまう。
韓国ドラマはいろいろと放映されているが恋愛ドラマはもう卒業してみようとは思わない。歴史物は続けて見ないと分からないので続けて見るほど時間の余裕がない。
「ジャインアント」は1970年代、1980年代の当時の国家そしてそこに群がる国会議員に企業家さらにつきまとう国家機関の安全企画部、当時の政権は何もなくても捕まえてデッチあげしていくそのドラマは韓国の建国に向かうすさまじさを見るようだ。現在の韓国で暮らす60代から80代が生きたそのままの生き様を見るようだ。
新しい番組、当時の韓国の世相と国家のあり方のドラマだったらまた見る気がするが---。
そんなドラマにそうそう何度も放映されるものではない。
また次の放映を楽しみに待つしかない。
夫も「ジャイアント」はかかさず見るようになった。
ドラマは盧泰愚大統領が政権を取る前でドラマは終わっていく。
当時の選挙の様子が目に浮かんでくる。
金大中と金泳三、金鍾泌そして盧泰愚の選挙戦だったと記憶しているが間違っていたらすみません。
1987年12月の夜、取材先で見たテレビ、投票結果に周りが拍手で沸いていたことを今も思い出す。その拍手の意味が私は何もまだ理解できなかった。
在日韓国人の中で新聞記者になってまだ4ヶ月足らずだった。
当時はまだ韓国テレビ放送もなく日本のテレビニュースで知るだけだった。
ドラマを見ていてこんなことも思い出していた。
それからずいぶんの年月が過ぎた。
42歳のあの12月からずいぶんと年月が経ち何人かの大統領が5年任期で交代していった。変わらないのは偏狭な北朝鮮の実態である。
北朝鮮を思うとせつなくもの悲しくなってしまう。
現実にまだ閉鎖的な国家があるのか。それも私と同じ民族の血が流れている人たちの偏狭な政治の舵取りに今も苦しんでいる人たちがいるということに悲しくなってしまう。
さて今日はこのへんで。
それで「膝治療の整形外科を先に診察してからそちらにまわります」とした。
今日は何かしら病院が空いている。
9時15分に中待合に入って10時予約通り10時の診察となった。
会計を済ませて薬局に行くと10時20分、薬局で薬を貰って出るときは10時40分、歩いて市内循環バス乗場に向かった。
近鉄奈良駅に出ると11時前、日替わりランチの出る食事処はまだランチタイムではない。この近くの喫茶店に入って焼き飯を頼んだ。店を出て宅急便を出すのにコンビニによって宅急便を送って行きつけの喫茶店に行くと11時半になっていた。
今日は新聞が休刊、昨日の新聞1紙読んで今度は1冊の本を読むことにした。
もう読破、この本を読んで買えることにした。
今日は喫茶店で読むためにいつも読んでいる文庫本とそしてもう1冊の単子本を入れると鞄が重たい。これは今日読みきって家においておかなければならない。読みきった、2時前に読み終わった。斜め読みのところもあったが読破した。
いつもはコーヒーのお代わりですますが長い時間の居座りに申し訳ない。
レモンテイーをまた頼んで本を読破した。
2時前に喫茶店を出て今度は100円均一の店に行った。
洋裁道具を今までお菓子の空き缶などに入れていたがあれこれ入れていくと空き缶に入らなくまってきた。大きいプラスチックの容器を買ってまた中で小分けして入れられるようにと小さいプラスチック容器も買った。
ついでにゴミ袋なども100円均一にあることを分かったのでそんなものなどの雑貨を買い込んだ。この大きな袋を持って今度はスーパーで買い物した。
市内循環バス乗場に行くと中循環バスが出た後、2時半頃の市内循環バスはまだ高校生などが乗って来ないので比較的まだ空いていて座るところがあるのですぐ来た市内循環バスに乗った。
家に帰ると3時前、風呂に湯を入れて荷解きをして湯が入ったので風呂に入った。風呂に入った後、家事をしていく。パソコンの前に座った時はもう4時前になっている。
またこれから夕食の支度をしないといけないが----。
今日は焼き飯をしないといけない。
ご飯が少しあったが昨日の夕方、炊飯器にご飯を仕掛けた。残りご飯は焼き飯にしょうと思っていたら夫は素麺を食べたいという。それで昨日の日曜日は素麺にしたのでご飯が残ったままである。
焼き飯にして今日は片付けないといけない。
他に味噌汁を作って----。
夫のビールの肴は刺身を買ってきたので何とか今日はあわてて夕食の支度をしなくてすむ。
明日もまた病院行き、病院行きが何かと多くなってくる。
老化とはこんなことなのだろうか。
今日はバスに乗っていてふとソウルの町を思い出していた。
懐かしい。久しぶりにソウルの町を歩いて見たい。
そう言えば、昨日の韓国ドラマ「ジャインアント」の中で待ち合わせの場所にソウル市庁前にある「徳寿宮」が言葉で出されていた。
本当にそこで撮影されたのか定かではないが徳寿宮の中を歩くと庭などがきれい。その季節、季節の風情がある。
私がいつも宿泊しているニュー国際ホテルから徳寿宮の塀が見えている。
上の階に宿泊していると徳寿宮の建物まで見えている。
ソウルの町にこんなに素晴らしい文化を持ったかつてここにいにしえの文化があったと思うと日本植民地支配下で当時の日本はどんな手酷いことをして朝鮮王朝政権を揺るがしたのか-----。そんなことを考えてしまう。
当時は帝国主義で侵略することで政権を握り領土を増やしていくというものだった。しかしそれにしても日本の侵略は酷かった。
言葉を奪い文化も文字も奪った。
日本人の多数は日本植民地支配で朝鮮を近代化したというがこれは日本の言い訳で弁解しているに過ぎない。
精神構造を壊滅させられた痛手はずっと後世まで語り注がれていく。日本に渡った1世の傷は語りつくせないほど酷い日本植民地統治だった。
こんなことは日本の学校教育で教えない。
ほとんどの在日コリアン子弟は日本の公立学校の教育を受けていく。
未だに日本植民地支配の残像の中で生きている在日コリアンの現実である。
テレビの中での会話に「徳寿宮」が出てきた。
ソウルの町を懐かしく思いそして朝鮮王朝時代の末期政権の翻弄を思わずにいられなかった。
きめ細かな建物などに当時の朝鮮人の美意識を考えさせられる。
またソウルの町を歩きたいと思う。
もう今はすっかり有名になった俳優、チュサンウク(朱相)に会うことはないだろう。もうマネジャーがついて1人で行動されることもなく明洞の町を歩くことはないだろう。見ることはないだろう。
私が2005年だったのか。2006年だったのか。
韓国で使うドライヤーをロッテ百貨店の電化製品売り場に購入に行った。
ホテル備え付けのドライヤーは私は不器用で使えない。
私の使いやすいドライヤーがあるが日本からは持っていけない。電圧が違うので使えないので韓国で販売されているものと購入に行った。
エスカレーターで電化製売り場に行く時に下に下りていくエスカレーターとすれ違った。すれ違う時に見た若い男性に私ははっとなって息をのんだ。
ものすごい男前の男性、韓国はこんな男前によく出会うがまたすこぶる男前だった。私はじっと見とれていたので若い青年も私を一瞬見た。
たぶん「日本から来たダサイ、アジュマ(おばさん)」と思っていただろう。
私がもう少し若かったら「ヒャー男前」と日本語で言ったかもしれないがもう60歳になった私はやはり周りを気にして心の中で「わあ。ものすごく男前や」とつぶやいていた。思わず振り返って背中をみたほどだった。
そしてテレビで見ていると「この顔、この顔をロッテ百貨店のエスカレーターですれ違った顔」と、心の中で叫んでいる。夫には何回も言っている。
将来はスターになるべくオーラーがあった。あのオーラーが今日のチュサンウクと思ってテレビを見ている。エスカレーターですれ違った若い男性は「チュサンウク」だったと今、私は思っている。間違いがないと思っている。
「ジャンアイント」のドラマは終盤になっている。後3回で終了してしまう。
しばらく気が抜けてしまう日になってしまう。
韓国ドラマはいろいろと放映されているが恋愛ドラマはもう卒業してみようとは思わない。歴史物は続けて見ないと分からないので続けて見るほど時間の余裕がない。
「ジャインアント」は1970年代、1980年代の当時の国家そしてそこに群がる国会議員に企業家さらにつきまとう国家機関の安全企画部、当時の政権は何もなくても捕まえてデッチあげしていくそのドラマは韓国の建国に向かうすさまじさを見るようだ。現在の韓国で暮らす60代から80代が生きたそのままの生き様を見るようだ。
新しい番組、当時の韓国の世相と国家のあり方のドラマだったらまた見る気がするが---。
そんなドラマにそうそう何度も放映されるものではない。
また次の放映を楽しみに待つしかない。
夫も「ジャイアント」はかかさず見るようになった。
ドラマは盧泰愚大統領が政権を取る前でドラマは終わっていく。
当時の選挙の様子が目に浮かんでくる。
金大中と金泳三、金鍾泌そして盧泰愚の選挙戦だったと記憶しているが間違っていたらすみません。
1987年12月の夜、取材先で見たテレビ、投票結果に周りが拍手で沸いていたことを今も思い出す。その拍手の意味が私は何もまだ理解できなかった。
在日韓国人の中で新聞記者になってまだ4ヶ月足らずだった。
当時はまだ韓国テレビ放送もなく日本のテレビニュースで知るだけだった。
ドラマを見ていてこんなことも思い出していた。
それからずいぶんの年月が過ぎた。
42歳のあの12月からずいぶんと年月が経ち何人かの大統領が5年任期で交代していった。変わらないのは偏狭な北朝鮮の実態である。
北朝鮮を思うとせつなくもの悲しくなってしまう。
現実にまだ閉鎖的な国家があるのか。それも私と同じ民族の血が流れている人たちの偏狭な政治の舵取りに今も苦しんでいる人たちがいるということに悲しくなってしまう。
さて今日はこのへんで。
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