外は曇っている。少し気温が低いのだろうか。肌寒い。
今日は確か京都国際学校では体育祭があるが私はそちらにいかない。
金剛学園のイベントにいくことにした。
今日は日曜日で1日、特急が走っている。
この間、平日の金曜日、桃谷で3時前に現場を終えた。鶴橋からは運がよかったら座れるがめったに座れない。
教育院の先生の車に乗っていたので上本町まで送ってもらった。
上本町に行っても先生は谷町線を走って戻れると考えて上本町から奈良行き急行にのった。こんなときは出来るだけ後ろの車両にのる。後ろは数人ぐらいの空席があるので後方に行った。
電車が入ってきたとき私は1番前で待っていたので電車にのっていつも座りたい端っこの座席に座った。携帯はみたいが使えない。となりに年寄り夫婦が座っているので使えない。少しでも居眠りをしたいのになかなか電車の中では寝られない。
よほどの睡眠不足だったら寝られるが1年にそう何回もない。
電車の中で居眠りすることはほとんどない。
話は変わるが------
K氏は今、サハリンにいる。
気温は3度とか5度、まだストーブが入っているだろう。
「ペチカ」というものが入っているのだろうか。
戦後、日本は民主主義が入り軍国主義から解放されてシベリアから帰国する人、中国、朝鮮の引揚者、いろんな考え方が混在し始めたころである。
高校になると学園の中庭が「歌声広場」になって歌を歌った。そして当時京都府の知事は革新系だった。教師の中にはロシアに憧れる人もいた。ソ連というよりロシアの歌というほうがいいだろう。
「ペチカ」「トロイカ」の言葉はロシア民謡や歌で覚えてきた。
さまざまに混在した1950年代から1960年代、そして1970年代に入ると若者たちの音楽は変わっていった。
ビートルズに変遷していった。
私たちが歌ったアメリカのカントリー音楽もジャズの日本語版も全部後ろに追いやられた。
音楽の作曲も電子ピアノがする。
速いテンポも高い音も自由自在に作れるが人間の自然のリズム間ではないので中高年は早いテンポのリズムについていけない。
カラオケも演歌が歌いやすい。
しかし若い人はあの早いリズムの歌を歌うので私は驚きである。
ロシアは寒い日が多いからついアルコールで体を温めるのだろうか。
そんなことで寒い国から発信してくるインターネットのホームページ、サハリンと韓国とのかわりがよく分かる。
先日、韓国の国会議員が日本の韓国系の学校を視察された。
海外同胞の民族教育は今後の取り組みとして重要課題になってきた。
民族素養のない親から生まれて社会に入っていく。
各個々に必ず生きている間に自分という民族と対峙してそのジレンマと葛藤していく。
この中で多くがその国の国籍を収得していくが体の中には韓国人のDNAが入っている。個々によって違うが自分に流れているDNAに気づかされてまたジレンマに必ず陥る。ないという人はいない。必ずある。
それは血がそうさせる。
韓国が嫌いな人でも必ずある。
それにぶつかって出自を明らかにできない苦しみにあう人も必ずいる。
これも心の襞かもしれないが同じ襞をつくるなら歪んだ襞にしないでほしい。歪んだ襞は必ず子どもに伝わる。その反撃は本名で学校に通いだして親はウロウロする。
夫の親戚にこんな家族があった。
私はずいぶん苦労した。私はずっと子どものころから国籍を隠さないできたのでその家族の反撃はすごかった。
韓国のことになると私にすごい剣幕でののしられた。
自分の子どもに入れ知恵をして子どもが韓国に興味を持ち出したという。
そして私の周りの知人。友人には夫の身内なのに私の家とは親戚ではないとまわりにずいぶんいいふらした。
それで何度も多くの人に「親戚と違うのですか」と言われた。
これで私は夫の兄弟や姉妹にまたずいぶん怒られた。
私がその家に行かないと言い出したら姑にも怒られた。
こんな苦労はおそらく張本人はしらないだろう。
しかし知人・友人、周りが私をかばってくれた。だれも知っているのに国籍を隠し国籍を隠さない私を関わりがないと言いふらした。
こんなことは私の家だけではない。どこにでもある話だ。
私の父親は一見、日本人のように見える。立ち振る舞いも話し方も紳士だったので日本人と思われた。この身内の人さえ私に言った。
「ほんまのおとうさん」と。
私は確証が分からない。立ち振る舞いや仕草は祖母がそんな人だった。
朝鮮王朝の時代に生まれた品格がそのままにひきずって日本に来た。
父親も5歳に渡日している。
祖母もそして16歳で渡日してきた叔母も品性がでていた。
そんな名残が父親は受け継いできたと思う。
しかし家では韓国語を話した。在日同胞史も日本植民地時代に土地を奪われた歴史も話した。分断国家になった韓国のことも北朝鮮のこともよく知っていたが子どもの前でほとんど話さなかった。
ただ「政治に関与するな」の一点張りだった。
運動も活動も禁止だった。
何もしないでのほほんと過ごしてきた私にも韓国人の血とぶつかりモンモンと葛藤し始めたのが40歳の終わりからだった。
自分と正面に向き合う。このことで葛藤した。
葛藤したすえに辿りついたところが言葉だった。韓国語だった。
父親が嫌った民族団体、韓国系の団体で韓国語を習った。
こうして自分の出自と闘う子どもたちというのか海外同胞が世界に多くいるという。私が20年前に聞いた時は400万か500万人と言われていた。
今はどんな数字になっているのだろうか。
そんな葛藤する子どもたちのために韓国語や民族文化にふれる場所は必要である。各個々によって違うが自分と言う民族と葛藤する日は誰でも必ずある。
そうしたことの積み重ねでロシアにも韓国語の放送ができ韓国の文化にふれる機会の場所ができている。
こんなことで葛藤する在日韓国人の様子はおそらく日本人からは見えなくて知らないだろう。
ときどき日本人は言う。
「そんな黙っていたら韓国人だと思わない。日本人と同じ顔をしている」という。在日韓国人でも歴史を勉強している人はこの言葉でまた心に傷を作っている。海外同胞の民族教育はずっと必要だろう。そしてその国に住んでいるすべての人に必要だろう。
そんなことを日本人の1人でも多く知ってもらいたい。
「違うことはすばらしい。違うことは個々を尊重することだから」と言える日本人になってもらいたい。
K氏はサハリンでまた在日韓国人の心の傷を1つでも理解して日本に戻って゜くるだろう。しかし私はまたサハリンに出かけるK氏の心の襞に直面していないがおそらくサハリンに通うたびに日本は何をすればいいのか。そんな思いで日本にもどってくるだろう。しかしまだまだサハリンを理解しょうとする日本人はごくわずかである。このごくわずかでK氏の心の襞が深くなっていくような気がする。
さてもうこのへんで、おいて外出の支度である。
今日は確か京都国際学校では体育祭があるが私はそちらにいかない。
金剛学園のイベントにいくことにした。
今日は日曜日で1日、特急が走っている。
この間、平日の金曜日、桃谷で3時前に現場を終えた。鶴橋からは運がよかったら座れるがめったに座れない。
教育院の先生の車に乗っていたので上本町まで送ってもらった。
上本町に行っても先生は谷町線を走って戻れると考えて上本町から奈良行き急行にのった。こんなときは出来るだけ後ろの車両にのる。後ろは数人ぐらいの空席があるので後方に行った。
電車が入ってきたとき私は1番前で待っていたので電車にのっていつも座りたい端っこの座席に座った。携帯はみたいが使えない。となりに年寄り夫婦が座っているので使えない。少しでも居眠りをしたいのになかなか電車の中では寝られない。
よほどの睡眠不足だったら寝られるが1年にそう何回もない。
電車の中で居眠りすることはほとんどない。
話は変わるが------
K氏は今、サハリンにいる。
気温は3度とか5度、まだストーブが入っているだろう。
「ペチカ」というものが入っているのだろうか。
戦後、日本は民主主義が入り軍国主義から解放されてシベリアから帰国する人、中国、朝鮮の引揚者、いろんな考え方が混在し始めたころである。
高校になると学園の中庭が「歌声広場」になって歌を歌った。そして当時京都府の知事は革新系だった。教師の中にはロシアに憧れる人もいた。ソ連というよりロシアの歌というほうがいいだろう。
「ペチカ」「トロイカ」の言葉はロシア民謡や歌で覚えてきた。
さまざまに混在した1950年代から1960年代、そして1970年代に入ると若者たちの音楽は変わっていった。
ビートルズに変遷していった。
私たちが歌ったアメリカのカントリー音楽もジャズの日本語版も全部後ろに追いやられた。
音楽の作曲も電子ピアノがする。
速いテンポも高い音も自由自在に作れるが人間の自然のリズム間ではないので中高年は早いテンポのリズムについていけない。
カラオケも演歌が歌いやすい。
しかし若い人はあの早いリズムの歌を歌うので私は驚きである。
ロシアは寒い日が多いからついアルコールで体を温めるのだろうか。
そんなことで寒い国から発信してくるインターネットのホームページ、サハリンと韓国とのかわりがよく分かる。
先日、韓国の国会議員が日本の韓国系の学校を視察された。
海外同胞の民族教育は今後の取り組みとして重要課題になってきた。
民族素養のない親から生まれて社会に入っていく。
各個々に必ず生きている間に自分という民族と対峙してそのジレンマと葛藤していく。
この中で多くがその国の国籍を収得していくが体の中には韓国人のDNAが入っている。個々によって違うが自分に流れているDNAに気づかされてまたジレンマに必ず陥る。ないという人はいない。必ずある。
それは血がそうさせる。
韓国が嫌いな人でも必ずある。
それにぶつかって出自を明らかにできない苦しみにあう人も必ずいる。
これも心の襞かもしれないが同じ襞をつくるなら歪んだ襞にしないでほしい。歪んだ襞は必ず子どもに伝わる。その反撃は本名で学校に通いだして親はウロウロする。
夫の親戚にこんな家族があった。
私はずいぶん苦労した。私はずっと子どものころから国籍を隠さないできたのでその家族の反撃はすごかった。
韓国のことになると私にすごい剣幕でののしられた。
自分の子どもに入れ知恵をして子どもが韓国に興味を持ち出したという。
そして私の周りの知人。友人には夫の身内なのに私の家とは親戚ではないとまわりにずいぶんいいふらした。
それで何度も多くの人に「親戚と違うのですか」と言われた。
これで私は夫の兄弟や姉妹にまたずいぶん怒られた。
私がその家に行かないと言い出したら姑にも怒られた。
こんな苦労はおそらく張本人はしらないだろう。
しかし知人・友人、周りが私をかばってくれた。だれも知っているのに国籍を隠し国籍を隠さない私を関わりがないと言いふらした。
こんなことは私の家だけではない。どこにでもある話だ。
私の父親は一見、日本人のように見える。立ち振る舞いも話し方も紳士だったので日本人と思われた。この身内の人さえ私に言った。
「ほんまのおとうさん」と。
私は確証が分からない。立ち振る舞いや仕草は祖母がそんな人だった。
朝鮮王朝の時代に生まれた品格がそのままにひきずって日本に来た。
父親も5歳に渡日している。
祖母もそして16歳で渡日してきた叔母も品性がでていた。
そんな名残が父親は受け継いできたと思う。
しかし家では韓国語を話した。在日同胞史も日本植民地時代に土地を奪われた歴史も話した。分断国家になった韓国のことも北朝鮮のこともよく知っていたが子どもの前でほとんど話さなかった。
ただ「政治に関与するな」の一点張りだった。
運動も活動も禁止だった。
何もしないでのほほんと過ごしてきた私にも韓国人の血とぶつかりモンモンと葛藤し始めたのが40歳の終わりからだった。
自分と正面に向き合う。このことで葛藤した。
葛藤したすえに辿りついたところが言葉だった。韓国語だった。
父親が嫌った民族団体、韓国系の団体で韓国語を習った。
こうして自分の出自と闘う子どもたちというのか海外同胞が世界に多くいるという。私が20年前に聞いた時は400万か500万人と言われていた。
今はどんな数字になっているのだろうか。
そんな葛藤する子どもたちのために韓国語や民族文化にふれる場所は必要である。各個々によって違うが自分と言う民族と葛藤する日は誰でも必ずある。
そうしたことの積み重ねでロシアにも韓国語の放送ができ韓国の文化にふれる機会の場所ができている。
こんなことで葛藤する在日韓国人の様子はおそらく日本人からは見えなくて知らないだろう。
ときどき日本人は言う。
「そんな黙っていたら韓国人だと思わない。日本人と同じ顔をしている」という。在日韓国人でも歴史を勉強している人はこの言葉でまた心に傷を作っている。海外同胞の民族教育はずっと必要だろう。そしてその国に住んでいるすべての人に必要だろう。
そんなことを日本人の1人でも多く知ってもらいたい。
「違うことはすばらしい。違うことは個々を尊重することだから」と言える日本人になってもらいたい。
K氏はサハリンでまた在日韓国人の心の傷を1つでも理解して日本に戻って゜くるだろう。しかし私はまたサハリンに出かけるK氏の心の襞に直面していないがおそらくサハリンに通うたびに日本は何をすればいいのか。そんな思いで日本にもどってくるだろう。しかしまだまだサハリンを理解しょうとする日本人はごくわずかである。このごくわずかでK氏の心の襞が深くなっていくような気がする。
さてもうこのへんで、おいて外出の支度である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます