鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

今日も暑いな。

2007-08-18 08:50:22 | 直言!
今朝6時半ごろ洗濯を干すためにベランダにでたが太陽の日差しが感じられなかったので今日は涼しいかもしれないと思ったがやはり天気予報通りである。
ほんまに暑いわ。

8月16日、京都の五山送り火がNHKテレビで中継放映されていた。
京都の送り火になると京都を駆けずり回っていた1989年から91年ごろを思い出す。日刊紙の在日韓国人の新聞記者になってまだ2・3年たったころだった。
雑誌記者から在日韓国人の新聞記者になって意気揚々と燃えていたのに大阪の社内の内部はそうではなかった。壮絶な人間関係がそこにあった。
ここでつぶれたらあかん。毎日がそんな葛藤だった。
雑誌記者をやめてきたのに取材現場に入らせてもらえない。
あげくにある男性は私に言う。「会社にこなくてもいいよ。自宅で待機してろ」という。心の中でなんでこの人に言われないとあかんのと心の中は不満で充満していた。今は亡き人になった。死人にくちなしで悪口を言ってはいけないが彼を思うと今も彼のことは良いように思わない。
こんな言葉を3回聞いたときに私はこれではこのままつぶれてしまうと思った。
せめて2・3年は辛抱して元の古巣、地方紙に戻ることにしてもいいが今はまだ戻れない。まだ勤めて半年そこらで戻れなかった。つぶれるのは早すぎると考えて東京本社の編集局の編集局長に電話をして内部の事情を話した。
さすが編集局長だった。
私がどんな仕事をしてきたのか。これまでしてきた仕事と性格を見抜いておられた。
「何も悩むことない。韓国や在日とつくところがあればどんどん現場にはいっていくように」と指示をだしてくれた。これで自信がついた。まわりからどんなことをいわれても編集局長に答えられるように現場を走り回ろうと決心した。
そしてそれからは後ろを振り向かずに与えられた仕事でなくて自分で仕事探した。奈良を中心に活動しはじめた。そして大阪にと伸ばしていった。

そうするとを在日韓国人の新聞社に入れて下さった韓国政府派遣教師が京都に転勤することになった。私はまた追いかけて京都の企画取材を探した。
これに対して内部のいじめは外にまで影響していて在日韓国人の機関の関係者
は2年近く私が現場に行っても行事内容も教えてくれずケンモホロロだった。
しかしめげなかった。
受け入れてくれたのは現在の京都国際学校の当時の校長、婦人会と商工会議所をたよりにせっせっと記事になる現場をまわった。そして東京の編集局が助け舟を出してくれた。
京都市外国人教育研究会の在日韓国・朝鮮人教育の指針が10年前に出されているが10年もたっているのに方針になっていないと言う。今から考えると京都をかけずりまわる私を見てだれか京都の同胞がニュースになるものを提供してくれたのだろうと思っている。編集局は言う。「指針のままだから京都市教育委員会をあたって取材をするように」と詳細に指示して教えてくれたのが現在民団新聞で担当デスクになっているPさんだった。そこを取材することでは京都市立郁文中学校で学ぶ1世の人たちを取材そして外国人教育に取り組む教師からたくさんの情報を教えてもらって現場に入るところが増えていった。
そしてようやく京都の同胞たちに私の信頼がついてきて同胞たちの間で記事が作れるようになった。同胞たちの地場産業シリーズ、学者シリーズや2世から3世シリーズ、もう1人の担当デスクだった編集局長の弟、Kさんの後押しでこんな紙面企画にも参加させてもらった。
猛烈に京都の現場をかけまわった。
当時はデジカメなんてない。
カメラで撮ったフイルムをそのままにして最寄の日通で送達した。午後3時が締め切りだった。これを過ぎると新幹線のレールゴウーサービスまたは伊丹空港の日通に持っていった。日刊紙だったので毎日の業務だった。
また家庭面の1面も担当していたので家庭はもうほったらかしだった。
それでも夕方になると家のことも気になったものだ。
仕事か家庭か。
好きな仕事で家庭がなかったらと思ったことは何度かあった。
しかし42歳のときにこの日刊紙の新聞社を解雇されたときに家庭があってよかった。主婦と言う居場所があってよかったと心底そう思った。この気持ちは今も忘れていない。

五山送り火の日になると大勢の人が鴨川のところに集っている。糺の森に大勢の人が集っている。
夕方、京都に行くと京阪電車の出町柳駅の近くに下りて近くにある民団京都本部の会館にいくとき大勢の人が近くの鴨川に多くの人が訪れていた。
会館に行くと青年会のリーダーたちが言ってくれる。
「8時になったら点火されるから見てかえったらいいよ。会館からよく見えるから会館で見て帰ったら」と声をかけてくれた。
しかし家路に急ぐかまたは大阪の会社に帰って記事を書く作業もあった。
いつも京都でゆっくりした時間が作れなかった。
いつもバタバタしていた。
鴨川に集る人たちを横目にして出町柳から電車にのったものだった。

京都の五山送り火になると40歳前半の私を思い出しかけずりまわっていたことを思い出す。そしてここまで仕事ができたのは当時の東京の編集局のみなさんに支えられて成長させてもらったとまた思い出してしまう。
そのPさんが現在民団新聞編集局で私の担当デスクになっている。人間の縁というものは不思議である。
日本の雑誌記者から在日韓国人の新聞記者になって取材の仕方はわかっていても在日同胞の生き方や活動は皆無だった。
個人個人の活動や団体は様々である。
当時パソコンがない。Faxだった。それと電話だった。
電話で詳細に取材のポイントを教えてくれたのはPさんだった。それでなかったらFaxで詳細のメモを送ってくれた。
これがどれほど役に立ったか分からない。ものすごく役にたった。
こうして1つ1つ編集局のスタッフと積み重ねてきた。積み重ねることにスタッフは協力をして下さった。
このご恩は決して忘れていない。
もし編集局長の後押しがなかったらつぶれていたか、または地方紙の記者にもどっていたかどちらかだが、日本人のふりをして日本の記事をかきたくない気持ちの葛藤で悶々としていただろう。いい記事はかけなかったと思っている。

京都の五山送り火を見ると猛烈に働いていた自分とみんなに支えられてここまできたということに胸が熱くそして内部事情のすさまじさに切なくなる。
当時の民団京都の青年会の人たちはみんないい青年だった。今もいい青年たちだが在日韓国人の儒教のある家庭で育ったので年輩をたてることこ心得ておられた。
ずいぶん、ずいぶんお世話になった。
当時の青年会の人たち、心の温かさを思い出して胸がキュンとしてしまう。
当時の青年会の人たちは年を重ねて各支部で活躍しておられる。
顔をみるとずいぶんお世話になった当時をまた思い出してしまう。
彼らたちになんのお返しもしていないことに胸にキュンとしてしまう。

8月16日、NHKの五山送り火をみていて1989年から91年のころの私と京都を思い出していた。送り火を見ながら京都の同胞たちはどこからこの送り火を見ているのだろうかと1人1人の顔が浮かんでいた。

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