今朝、さてこれから外出着に着替えてでようと思ったら11時10分です。
11時14分の中循環が来る。
急いで外出着を着て戸締りをしてマンションの下に下りていく。
エレベーターが6階に行った。待った。
そして乗って下に下りるとマンションの住人がいる。
「おはようございます」と、挨拶もそこそこにバス乗り場に行くと中循環バスがもうそこまで来ていた。
間にあった。
良かった。
近鉄奈良駅に着くと11時20分、急いで行きつけの喫茶店に行った。
資料として読みこまないといけない部厚い本を見ていく。
主要なところは読んだので少しの内容がつかめた。
30分ほど読んだ。
それから急いで新聞を読んでいく。
最後の番組欄を見てびっくりした。
ボクシングのミドル級で金メダルを取った村田諒太さんが「徹子の部屋」に出演するという。時計を見ると12時20分です。途中までしん読んでいない新聞2紙をカバンにそのまま入れて持って帰った。
急いでトイレをして喫茶店を出てスーパーに寄って買い物してバス乗り場に行くと12時30分過ぎです。35分に市内循環バスに乗って自宅に着くと50分です。
シャワーを先に浴びてから荷解きをしていく。
それからテレビの前に座ると1時5分です。
「徹子の部屋」の前の「おしゃべりクッキング」を見て「徹子の部屋」を見た。
笑わないで黙っている顔はやはり銀杏やさんの喫茶店で見た顔です。
嫌われてもいいから声をかければよかった。
30分ぐらい私の隣に座っていたのは6月の半ばかその前だったのか。
白い半袖のカッターシャツにグレイのズボンをはいていた。
顔は男前なのに少し歪んでいるように思えた。
なぜかなと思いまだ大学生と思っていた。
そしてロンドンオリンピックになって村田諒太さんの金メダルをかけた顔に思い出した。喫茶店の隣に座っていたあのハンサムな青年は村田諒太さんだった。
びっくりした。
それから村田諒太さんがテレビにでていると見ている。
NHK奈良放送局でもよく放映された。
母校の奈良市立伏見中学の訪問と県に訪れた時にもよく放映された。
彼の小学校が奈良市立伏見小学校だったら私の息子が通っていた奈良市立都跡小学校とはごく近いところにある。
たぶん彼も自転車で西ノ京あたりを走ったことだろう。
西ノ京に来ると古への文化になぜかほっとする。
仏像もお寺のことを何もしらなくてもほっとする。
唐招提寺や薬師寺の建物に奈良に住んでいてよかったと思う瞬間なのです。
たぶん村田諒太さんもそんな奈良を忘れてはいないと思う。
高校は南京都高校です。
近鉄京都線の狛田駅を降りて10分程度歩きます。
学校が創設された1988年前後、よくこの学校に訪問した、
韓国の高校と交流事業をしていたのでよく取材で訪問した。
何度か取材で訪問している時に関係者から高校の事務員の話はあったがお断りをした。「月刊奈良」編集局から転職して間もないころだった。
転職した職場もいろいろとあったがやはり書くことが好きでこの道をいけるところまで行こうと思っていたので書くということの仕事に専念してきた。
私はこれでよかったと思っている。
もしそこにいれば村田諒太さんにお会いできたかもしれないが----。
南京都高校に取材で訪問している当時の私は家のことをほったらかしで夜も昼も働いた。本当によく働いた。
夫のことはほったらかしだった。
夫は私に嫌味をいった。
「俺の3倍は働いているのになんで給料は3分の1や」
夫がいうのも無理がなかった。
それほど男女格差もあった。そして学歴差別もあった。
記者をしていた人は在日韓国人でも男性のほとんどは大学を出ていた。
韓国の大学に行き韓国語は流暢の同僚、日本の国立大学を卒業した男性はもうプライドが高い。高校卒業、しかも田舎の高校卒業してOLをして結婚して専業主婦15年の後の社会参加、鼻から日本の出版社をバカにしている。そして奈良の出版社にいたことなんて箸にも棒にもかからないと思っている。
私なりに「月刊奈良」にいたことは自負心だったのに------。
泣きたいことはたくさんあったが取材先で会う人たちに励まされてなんとか5年、この会社にいた。
この会社で在日コリアンの事、いろいろ勉強させてもらったが韓国語はできない。田舎の高校卒業した私にはまた違う同僚との摩擦があった。
少しでも韓国語を勉強しようと韓国語の本にしがみついたのはこの頃だった。
50歳過ぎるともう韓国語もどうでもいいようになった。
韓国語の本を開くことはなくなった。
55歳後半になると自分の体調管理を重視するようになった。
60歳になってジャーナリスト・ネットの仲間と出会ってインターネットを通しての楽しさも知って私の原点は何なのかとしきりに考えるようになった。
ふりかえると奈良はある意味で私の原点です。
生まれて育った所も大切なところですが私の書くことの気質を育んだのは奈良です。奈良に住んで45年になろうとしている。
23歳まで過した故郷より長くなった奈良も私自身が生きたところです。
またそんなことを思い出していた「徹子の部屋」に出ていた村田諒太さんでした。また奈良のために何かを寄与してもらいたものだ。
喫茶店で見た時も好青年でした。
テレビでみるとまたハンサムです。
ハンサムな顔に話そびれた喫茶店での村田諒太さんでした。
こんなおばさんが突然に話しかけたら嫌われると思っていた。
しかしこれまでのいろんな人たちに人生とは何かを教えてもらったのでしょう。
こんなに好青年だったらあの時、話しかければよかったと思っている。
後の祭りです。
急いで帰ってきてテレビを見ているおばちゃんでした。
また明日-----。
11時14分の中循環が来る。
急いで外出着を着て戸締りをしてマンションの下に下りていく。
エレベーターが6階に行った。待った。
そして乗って下に下りるとマンションの住人がいる。
「おはようございます」と、挨拶もそこそこにバス乗り場に行くと中循環バスがもうそこまで来ていた。
間にあった。
良かった。
近鉄奈良駅に着くと11時20分、急いで行きつけの喫茶店に行った。
資料として読みこまないといけない部厚い本を見ていく。
主要なところは読んだので少しの内容がつかめた。
30分ほど読んだ。
それから急いで新聞を読んでいく。
最後の番組欄を見てびっくりした。
ボクシングのミドル級で金メダルを取った村田諒太さんが「徹子の部屋」に出演するという。時計を見ると12時20分です。途中までしん読んでいない新聞2紙をカバンにそのまま入れて持って帰った。
急いでトイレをして喫茶店を出てスーパーに寄って買い物してバス乗り場に行くと12時30分過ぎです。35分に市内循環バスに乗って自宅に着くと50分です。
シャワーを先に浴びてから荷解きをしていく。
それからテレビの前に座ると1時5分です。
「徹子の部屋」の前の「おしゃべりクッキング」を見て「徹子の部屋」を見た。
笑わないで黙っている顔はやはり銀杏やさんの喫茶店で見た顔です。
嫌われてもいいから声をかければよかった。
30分ぐらい私の隣に座っていたのは6月の半ばかその前だったのか。
白い半袖のカッターシャツにグレイのズボンをはいていた。
顔は男前なのに少し歪んでいるように思えた。
なぜかなと思いまだ大学生と思っていた。
そしてロンドンオリンピックになって村田諒太さんの金メダルをかけた顔に思い出した。喫茶店の隣に座っていたあのハンサムな青年は村田諒太さんだった。
びっくりした。
それから村田諒太さんがテレビにでていると見ている。
NHK奈良放送局でもよく放映された。
母校の奈良市立伏見中学の訪問と県に訪れた時にもよく放映された。
彼の小学校が奈良市立伏見小学校だったら私の息子が通っていた奈良市立都跡小学校とはごく近いところにある。
たぶん彼も自転車で西ノ京あたりを走ったことだろう。
西ノ京に来ると古への文化になぜかほっとする。
仏像もお寺のことを何もしらなくてもほっとする。
唐招提寺や薬師寺の建物に奈良に住んでいてよかったと思う瞬間なのです。
たぶん村田諒太さんもそんな奈良を忘れてはいないと思う。
高校は南京都高校です。
近鉄京都線の狛田駅を降りて10分程度歩きます。
学校が創設された1988年前後、よくこの学校に訪問した、
韓国の高校と交流事業をしていたのでよく取材で訪問した。
何度か取材で訪問している時に関係者から高校の事務員の話はあったがお断りをした。「月刊奈良」編集局から転職して間もないころだった。
転職した職場もいろいろとあったがやはり書くことが好きでこの道をいけるところまで行こうと思っていたので書くということの仕事に専念してきた。
私はこれでよかったと思っている。
もしそこにいれば村田諒太さんにお会いできたかもしれないが----。
南京都高校に取材で訪問している当時の私は家のことをほったらかしで夜も昼も働いた。本当によく働いた。
夫のことはほったらかしだった。
夫は私に嫌味をいった。
「俺の3倍は働いているのになんで給料は3分の1や」
夫がいうのも無理がなかった。
それほど男女格差もあった。そして学歴差別もあった。
記者をしていた人は在日韓国人でも男性のほとんどは大学を出ていた。
韓国の大学に行き韓国語は流暢の同僚、日本の国立大学を卒業した男性はもうプライドが高い。高校卒業、しかも田舎の高校卒業してOLをして結婚して専業主婦15年の後の社会参加、鼻から日本の出版社をバカにしている。そして奈良の出版社にいたことなんて箸にも棒にもかからないと思っている。
私なりに「月刊奈良」にいたことは自負心だったのに------。
泣きたいことはたくさんあったが取材先で会う人たちに励まされてなんとか5年、この会社にいた。
この会社で在日コリアンの事、いろいろ勉強させてもらったが韓国語はできない。田舎の高校卒業した私にはまた違う同僚との摩擦があった。
少しでも韓国語を勉強しようと韓国語の本にしがみついたのはこの頃だった。
50歳過ぎるともう韓国語もどうでもいいようになった。
韓国語の本を開くことはなくなった。
55歳後半になると自分の体調管理を重視するようになった。
60歳になってジャーナリスト・ネットの仲間と出会ってインターネットを通しての楽しさも知って私の原点は何なのかとしきりに考えるようになった。
ふりかえると奈良はある意味で私の原点です。
生まれて育った所も大切なところですが私の書くことの気質を育んだのは奈良です。奈良に住んで45年になろうとしている。
23歳まで過した故郷より長くなった奈良も私自身が生きたところです。
またそんなことを思い出していた「徹子の部屋」に出ていた村田諒太さんでした。また奈良のために何かを寄与してもらいたものだ。
喫茶店で見た時も好青年でした。
テレビでみるとまたハンサムです。
ハンサムな顔に話そびれた喫茶店での村田諒太さんでした。
こんなおばさんが突然に話しかけたら嫌われると思っていた。
しかしこれまでのいろんな人たちに人生とは何かを教えてもらったのでしょう。
こんなに好青年だったらあの時、話しかければよかったと思っている。
後の祭りです。
急いで帰ってきてテレビを見ているおばちゃんでした。
また明日-----。
社会や法律を 感じるプログです。
クリエイターの仕事は 長時間になるかなぁ?
50歳ぐらいになると 個人差もあるけれど どこか 体の調子が 良くないかなぁ。体力も 落ちて来る頃かナァ?
人生で 何か 残せるかナァ 大それたことかなぁ?
コメントありがとうございます。