鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

9月28日(金)爽やかな秋の天気です。

2012-09-28 09:26:13 | 直言!
しかし居心地の良い季節は短いです。
あっという間につるべ落としで日没が早くなってくる。
日が暮れるとなんとなく気ぜわしくなってくる。
難波から奈良行き特急、4時35分発に乗る。
鶴橋駅ではまだなんとなく薄暗い。しかし小阪を過ぎてくるとあたりはもう夜の帳です。
生駒トンネルを出るとあたりは真っ暗です。
日が長いときは奈良に着いてもまだ明るいのにといつも思う。
10月、11月は行事が多いのでまた日が短いと心がせいてくる。

「奈良おんな物語」の尾崎恵津子さん。戦中生まれの人です。
日本の世相の語り部です。
戦中生まれの女性たちが戦後、立ち上がって女性たちの声を反映されてこられた。やはり女性問題などに関心が多いのかアクセスが多くて書いた私が驚きと嬉しい悲鳴です。
そして奈良県で尾崎恵津子さんに心を寄せる人が多いことも分かった。
やはり人柄がそのままにでている人です。

現在、80歳前後の人たちが戦後の日本でも何も変わらない男性社会の理不尽に声を上げてこられたので現在の社会で多少、女性は働きやすく活動もできるようになった。問題はあるものの反映はできた。
しかしこれからまた問題を抱えている。
アメリカ的教育の中で日本人のいい気質を落として日本の文化もたくさんたくさん落としてきた。それをどう拾って日本人気質と日本文化の取り戻しをしていくのか。もう1つ忘れてはいけないのは国際的気質と国際社会、日本人が日本人の国際気質を作っていくこともこれからの最もの課題です。
沖縄基地にしても北海道のアイヌ問題にして他に多々抱える問題について日本人が考える問題について日本人自ら考えて日本人を守ることもしなければならない。さてそこで国際的感覚、内なる国際化の認識、意識向上も大切です。

表向きにただただ施設を作って歴史認識の教育、これもまた上滑りです。
日本人が日本人を虐待するのでなく日本人がしたこと外国にしたことはありのままに後世に伝えていく必要がある。
何も従軍慰安婦だけが歴史認識でない。
ただ日本が朝鮮半島を植民地支配するときに世界の動きも入れて日本が1910年の日本植民地支配するまでの1905年前後の歴史、日本人の中にも植民地支配を反対する人もいた。そんな人物も紹介して日本の憲兵が朝鮮半島を歩いて間違った朝鮮人感を日本に伝えたことからも初めてもらいたい。
強制連行の問題をあげるもこともあるがすべて強制連行で日本に来たわけでもない。
日本の戦局が危なくなってきてそして男子労働者がいなくなって朝鮮人の労働者を引っ張ってきた。トラックに無理やり乗せて連れてこられたのは事実です。
そうした歴史史実も必要です。
日本に渡った人、すべてが強制連行ではありません。これも事実です。

私の家の先祖は慶尚南道晋州で大地主で村長をしていた。
大地主の土地を1町だけ残してすべて日本に取られてしまった。
しかも稲穂が満ちて小金色した田んぼを全部です。
この田んぼの前で祖父の母親は「私の代でこんなことをしてしまった」といってショック死をしています。日本に渡ってきた祖父の母親は2回目の人です。
祖父の父親は土地調査法で日本語の申告用紙に記入ができず警察に引っ張られて拷問にあい、土地を渡すとということで留置場から出てきたのです。
この話は祖父が私の父親に話しそして私に父親は話してくれました。
私の家が本家でした。
しかし祖父の弟の分家は関西で財をなして経済格差で父親は往来をしなかったが本家と分家の一族をたえず私の耳にいれていました。
中には不都合な話は女の子の私には耳にいれませんでした。今、弟が父の兄弟、叔父たちが生きている間に少しずつ分家と本家の関係を聞いているようです。
叔父たちが日本植民地支配された先祖の生き証人です。
たぶん分家は日本の土地調査法で土地を取られたことまで知っている人はもう生存していないと思うのでここに少し書いておきます。

繁栄した先祖の家は晋州市の晋州博物館と晋州城の間に復元されています。
韓国政府の許可のもと経済で成功した分家の長男が私財を投資しています。
このことも日本人に帰化した先祖であっても同じ先祖の人たちは覚えておいて下さい。
晋州市に訪れた時は必ず訪問して下さい。
先祖が何かを教えてくれます。
私はたまたま取材旅行で晋州城と晋州博物館を訪ねて我が先祖の家を見つけました。「晋陽鄭氏の宗家」と門のところに大きい表札がかかっています。すぐにわかります。石段を上って中に入ると当時、住んでいた家が復元されています。
歴史の栄華盛衰を実感します。
日本に戻って我が先祖の復元の話を父親にすると即に父親はいった。
「分家がお金出している」と。長い年月を経て分家の長男筋に話しを聞くとやはり父親のいうとおりだった分家の長男筋と会った時は父親は他界していた。
生きていれば分家筋の長男に聞くことはしなかったと思っている。
それほど徹底して往来を禁じていた。
しかし叔父たちは様々な事柄で往来していた。
私と分家の関係、父親か先祖が分家筋の長男筋を引き合わせてくれているのだろう。
祖父の兄弟は一族に多くの思いを残して亡くなっていったことを今少し分かってきた。

こうして土地を没収されて日本に来た在日コリアンも多いのです。
こうした歴史を踏まえて日本で定着していく生き方の良い方法を考えてもらうのが日本人自身の認識で教育です。
日韓併合を教科書には五行程度しか書かれていない。
これでは子どもたちがどんな歴史を認識していくことができますか。
日本に住む外国人も含めた歴史認識の教育が必要です。
そのためには日本人気質の高揚と日本文化の建て直し、そしてそれから歴史教育です。橋下市長は施設を作って歴史教育といいますがそれは張子の虎です。
日本人の意識の変革をまずしなければならないことが重要です。

68歳になった私、日本の学校教育を受けて差別社会が多くあった日本でした。
私は地域の人たちの良さに恵まれてそんな重大な差別も受けずにのほほんと育った。むしろ結婚してから多くの差別事象に合いPTAの役員時代は思い出すだけでも嫌な閉鎖的な町で暮らした。
子どもが遊んだりするのに環境は良かった平城宮跡周辺の集落、しかしそこに住んでいる大人たち、学校で教える教師の中にも偏狭的な人もいた。
それにめげることも何度もあったがなんとか子育ての小学校時代は役員をこなした。しかし中学は校区範囲が広いのと小学校でPTAの役員は懲りて中学ではしないと心に決めていた。
こんな時代を生きた1人です。
だから住みにくい日本で暮らした3世たちは日本国籍に切り替えると暮らしやすいことは身を持って体験していくのです。帰化すればいいとすぐ日本人はいいますが民族気質の持っている度合で人それぞれが違うのです。その人の心との葛藤です。差別を受けたその体感は大人になっても忘れないのか私と同じ世代の人が帰化する前も帰化した後も自分の国籍を徹底して隠していく。在日コリアンがいる前でも平気で隠していく。滑稽な在日コリアンを見て笑っているのは日本人です。
これを見ている在日コリアンは日本人に差別されるよりもっともっと胸が痛いです。泣きたくなるほど辛いです。

こうした在日コリアンを出さない日本社会を作ること。そのまえに日本人の誇りという気質をつくって隣国の文化を認めていくことが大切です。
絵に描いた餅にならないことを願っています。

さてこれから身支度をして外出です。
部厚い著書、読み込まないといけないのでこれからその重い本をもって外出です。さてこれから身支度です。
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