気持ちのいい清々しい。秋晴れというのだろう。
秋晴れの言葉はいつも小学校の運動会を思い出す。
どこにいるのか分からないのが私だった。
会話もほとんどできない子どもだった。
本当にずっと1日中黙っている子だった。
今の私を見ると信じられないと言う。
しかしこのブログを読んでいる小学生の同級生は「そうだった」と頷いていると思っている。中学生になってもまだまだ友だちとの会話の仕方が知らない子どもだった。これも本当である。
そんな私に1人の同級生が話しかけてくれて仲良くなった人がいた。今、もう1度お会いしてゆっくり話したい人の1人である。
映画・花笠道中のストリーを話してくれた。
何の意味かわからなかったが映画の話だというのはわかった。
ずっと聞役をしていた無口な私の子ども時代だった。
美空ひばりの「花笠道中」の歌を聞くと中学時代、自宅から歩いて通学した道中を思い出す。バスもでていたがバスに乗る人はごくわずかだった。
自転車通学の校区は決められていた。
当時の市坂・梅谷・鹿背山地区だった。通学に30分前後かけて歩いた。小学校は町の中心にあったが中学校は木津町の西の端にあり今のJR西木津駅に近い所にあった。
バスは学校の前に停留所があったが皆たいてい歩いた。
在日コリアンで帰化した双子姉妹は毎日バス通学していた。
その家は瓦工場をしていたので財をなしていたので裕福な暮らしをしておられた。私より2級下だった。うらやましいとは思わなかった。
お金持ちの人はバスを乗られるということだと思っていた。
双子姉妹は停留所の前にいて私が登校していくのを見ると必ず「おはようございます」と声をかけてくれた。
当時はそれが家庭の中で行われていた普通の躾だった。
彼女たちももう還暦を過ぎている。
当時、すでに日本国籍を収得していたので帰化された在日コリアンに嫁いでいかれた。1人は大阪に嫁ぎ1人は京都に嫁がれたと聞いている。
京都に嫁いだ人は叔父の嫁さんが京都市生まれでたいていの人をよく知っている。この京都に嫁いだ彼女もよくあっていたので家業に一生懸命しておられるという話を何度も聞いた。
今頃はどうしておられるのだろうか。
中学の話をすると双子姉妹を思い出してしまう。
1人は地元の公立高校に通学、1人は京都の私学に行かれた。
大人になってくるとそれぞれの自己主張がでてくるのだろう。
そして祖国が南北分断国家になって木津町の在日コリアンが韓国を支持するか。北朝鮮を支持するかということに木津町の在日コリアンはある日の夜、集って話し合った。
そのとき木津の在日コリアンは一緒に行動をしょうと約束してその晩に分かれた。そしてその翌日にそれぞれの生き方を変えることになった。
この話も父親の生前に聞いた話である。
「皆一緒に行動しょう」と約束したのにその翌日の朝、ある所の家の玄関に「民団の班」の名前が書かれた看板がかけられていた。
これで憤りをもったのが私の父親であり双子姉妹の父親だった。
これを機会に双子姉妹の家は帰化申請を出された。いずれ経済も豊かで仕事の関係で帰化することを考えておられただろう。それが早くなった。
私の父親もずっと日本の会社で働き戦時中は軍儒工場の第一線で働いていたので1世なのに日本文化と和食を好んでいた。
もし韓国の故郷、本貫にある先祖の直系家族の本家でなかったら帰化していたかもしれないと思っている。祖父が長男でその長男だった父親は苦悩したにちがいないと思っている。日本国籍を取っていれば技術を持っていたので大企業に就職できるという自分のプライドもあったに違いない。
しかし父は帰化しなかったが民団にも総連にも行かない人生を選択して日本の会社で働く決心をして生涯、会社員で通した。
私の記憶に6・7歳の頃、桜井からやってきた祖父が怒り家の中の物がひっくり返されて大騒動になったことがあった。この時の大騒動はなんだったのかずっと大人になっても考えていた。
体が弱り寝たままになった父にこの時の祖父の怒りの理由を聞いたが「何もない」と言ってとぼけた。これはたぶん父親が祖父に帰化をしたいと言ってすごい怒りの剣幕になったのではないかと思っている。
娘に帰化するなと言っている手前、こんなことが言えなかったと思っている。
もう1つ中学時代の思い出がある。
桜井から来ていた祖父がトイレからでてきて祖父は私に言った。
「ハングルは昔の王様たちが毎日毎日、寝ないで考えた文字だ」と韓国語で話した。当時はまだまだ在日コリアンの差別が強かった。祖父の話を真剣に聞いていなかった。そんな私の姿にそれ以上祖父は何も話さなかった。
今考えるとこんなことをもっと聞いて話しておけばよかったと思っている。
話すことができない私は高校生になってからよく話すようになった。
けれど周りの高校生のようにそんなに闊達に話せる子どもではなかった。
思っていることを大学ノートに書くようになってからだろうか。
それとも高校の同級生がよく私の家に来るようになってからだろうか。
会話のできなかった私はいろいろと話せるようになった。
けれど大勢いる前で話すことは今も苦手です。
だから2度の講演依頼で仕方なく引き受けたが3度目からは絶対に引き受けなくなった。緊張して話せない自分がそこにいることがわかって引き受けなくなった。「話せない」というと「信じられない」と言われる。
小学校の同級生なら、たぶんわかってくれると思っている。
今は数人のグループの談話程度ならもうおしゃべりもよくする。
たぶん周りからうるさがられていると思っている。
ごめん。そう思っておられる人には本当にすみません。
さてこれから夫と外出です。このへんで。
秋晴れの言葉はいつも小学校の運動会を思い出す。
どこにいるのか分からないのが私だった。
会話もほとんどできない子どもだった。
本当にずっと1日中黙っている子だった。
今の私を見ると信じられないと言う。
しかしこのブログを読んでいる小学生の同級生は「そうだった」と頷いていると思っている。中学生になってもまだまだ友だちとの会話の仕方が知らない子どもだった。これも本当である。
そんな私に1人の同級生が話しかけてくれて仲良くなった人がいた。今、もう1度お会いしてゆっくり話したい人の1人である。
映画・花笠道中のストリーを話してくれた。
何の意味かわからなかったが映画の話だというのはわかった。
ずっと聞役をしていた無口な私の子ども時代だった。
美空ひばりの「花笠道中」の歌を聞くと中学時代、自宅から歩いて通学した道中を思い出す。バスもでていたがバスに乗る人はごくわずかだった。
自転車通学の校区は決められていた。
当時の市坂・梅谷・鹿背山地区だった。通学に30分前後かけて歩いた。小学校は町の中心にあったが中学校は木津町の西の端にあり今のJR西木津駅に近い所にあった。
バスは学校の前に停留所があったが皆たいてい歩いた。
在日コリアンで帰化した双子姉妹は毎日バス通学していた。
その家は瓦工場をしていたので財をなしていたので裕福な暮らしをしておられた。私より2級下だった。うらやましいとは思わなかった。
お金持ちの人はバスを乗られるということだと思っていた。
双子姉妹は停留所の前にいて私が登校していくのを見ると必ず「おはようございます」と声をかけてくれた。
当時はそれが家庭の中で行われていた普通の躾だった。
彼女たちももう還暦を過ぎている。
当時、すでに日本国籍を収得していたので帰化された在日コリアンに嫁いでいかれた。1人は大阪に嫁ぎ1人は京都に嫁がれたと聞いている。
京都に嫁いだ人は叔父の嫁さんが京都市生まれでたいていの人をよく知っている。この京都に嫁いだ彼女もよくあっていたので家業に一生懸命しておられるという話を何度も聞いた。
今頃はどうしておられるのだろうか。
中学の話をすると双子姉妹を思い出してしまう。
1人は地元の公立高校に通学、1人は京都の私学に行かれた。
大人になってくるとそれぞれの自己主張がでてくるのだろう。
そして祖国が南北分断国家になって木津町の在日コリアンが韓国を支持するか。北朝鮮を支持するかということに木津町の在日コリアンはある日の夜、集って話し合った。
そのとき木津の在日コリアンは一緒に行動をしょうと約束してその晩に分かれた。そしてその翌日にそれぞれの生き方を変えることになった。
この話も父親の生前に聞いた話である。
「皆一緒に行動しょう」と約束したのにその翌日の朝、ある所の家の玄関に「民団の班」の名前が書かれた看板がかけられていた。
これで憤りをもったのが私の父親であり双子姉妹の父親だった。
これを機会に双子姉妹の家は帰化申請を出された。いずれ経済も豊かで仕事の関係で帰化することを考えておられただろう。それが早くなった。
私の父親もずっと日本の会社で働き戦時中は軍儒工場の第一線で働いていたので1世なのに日本文化と和食を好んでいた。
もし韓国の故郷、本貫にある先祖の直系家族の本家でなかったら帰化していたかもしれないと思っている。祖父が長男でその長男だった父親は苦悩したにちがいないと思っている。日本国籍を取っていれば技術を持っていたので大企業に就職できるという自分のプライドもあったに違いない。
しかし父は帰化しなかったが民団にも総連にも行かない人生を選択して日本の会社で働く決心をして生涯、会社員で通した。
私の記憶に6・7歳の頃、桜井からやってきた祖父が怒り家の中の物がひっくり返されて大騒動になったことがあった。この時の大騒動はなんだったのかずっと大人になっても考えていた。
体が弱り寝たままになった父にこの時の祖父の怒りの理由を聞いたが「何もない」と言ってとぼけた。これはたぶん父親が祖父に帰化をしたいと言ってすごい怒りの剣幕になったのではないかと思っている。
娘に帰化するなと言っている手前、こんなことが言えなかったと思っている。
もう1つ中学時代の思い出がある。
桜井から来ていた祖父がトイレからでてきて祖父は私に言った。
「ハングルは昔の王様たちが毎日毎日、寝ないで考えた文字だ」と韓国語で話した。当時はまだまだ在日コリアンの差別が強かった。祖父の話を真剣に聞いていなかった。そんな私の姿にそれ以上祖父は何も話さなかった。
今考えるとこんなことをもっと聞いて話しておけばよかったと思っている。
話すことができない私は高校生になってからよく話すようになった。
けれど周りの高校生のようにそんなに闊達に話せる子どもではなかった。
思っていることを大学ノートに書くようになってからだろうか。
それとも高校の同級生がよく私の家に来るようになってからだろうか。
会話のできなかった私はいろいろと話せるようになった。
けれど大勢いる前で話すことは今も苦手です。
だから2度の講演依頼で仕方なく引き受けたが3度目からは絶対に引き受けなくなった。緊張して話せない自分がそこにいることがわかって引き受けなくなった。「話せない」というと「信じられない」と言われる。
小学校の同級生なら、たぶんわかってくれると思っている。
今は数人のグループの談話程度ならもうおしゃべりもよくする。
たぶん周りからうるさがられていると思っている。
ごめん。そう思っておられる人には本当にすみません。
さてこれから夫と外出です。このへんで。
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