そして普通の長い傘、雨がやむとどんないい傘でも忘れている。
雨が降っていると忘れないが-----。
そしてこの普通の長い傘をもって歩くと周りに気をつかい電車の中でも置き場に気をつかう。それでいろんな理由から折りたたみ傘を持つようにした。
仕事にでて途中で雨に降られてタンシーのないところは近くのコンビニで傘を買ったりして何本も自宅の傘立てに入っている。こうしてまだ傘は捨てないでいる。壊れていないので捨てることができない。
今は物にあふれ傘も次々からデザインを変えて品数が豊富で適当に安く適当に手ごろな値段で買える。
私が育った1951年から52年の小学校1・2年のころである。
当時はまだまだ日本は物資不足で今のように布地のこうもり傘を持っている人はごくごく少なかった。
油紙の番傘はあったがどこか破れていた。破れた番傘は恥ずかしくて恥ずかしくてしかたがなかった。それでもその傘をさして学校に行った。
だから雨降りが嫌だった。歌の雨降りお月さん----、そしてあめ、あめ、ふれふれ母さんが------ピチピチチャップチャップランランの歌も長い間心の中で歌っても大きい声で歌えなかった。傘、番傘のことを思い出して私には楽しい雨ではなかった。
ようやく日本も物資が出だして私の家庭も少しは雨具買えるようになったのかゆとりがでたのだろうか。1年の終わりにやっとこうもり傘を買ってもらった。
そして当時はまだまだ道は舗装されていないぬかるみだった。
雨靴をはかなければ足が泥だらけになった。
ゆとりのある子どもは雨靴をはいていた。そして1年の終わりごろになると雨靴をはいている人も多くなった。
私も雨靴がほしくてほしくてたまらなかった。
でもなかなか買ってもらえなかった。
妹が小学校の入学をまじかに控えた機会に妹とようやく2人の雨靴を買ってもらったのが3年の半ばだったのか2年の終わりだったのか、とにかくそのころ雨靴をやっと勝ってもらった。買ってもらったころに父親はようやく京都の会社に就職できたころだと思う。
何日も何日も雨が降らなかった。寝るときには枕元に飾り起きると縁側に飾った。それほど大事な雨靴だった。
今でこそ道路は舗装されて雨靴をはく人は少なくなった。
そして車の泥はねもなくなった。
車はまだまだ少なかったが傘を横にして泥はねを避けた。
そんな生活もはるか遠くになってしまった。
今は道路舗装で長い年月の間にくぼんだところがでてくる。そこを避けて通る人もいるのにわざとくぼみにタイヤを滑らせて行く人もいる。案の定、ピシャッと雨水が飛んでくる。
私の子どものころの泥はねと違ってハンカチでふきとれば取れるがふと泥道を歩いた子どものころを思いだす。
国道24号線も舗装されていなかったが時の首相、吉田茂が奈良から京都を往復したときに車のクッションが悪くて飛び上がってばかりする乗り心地の悪さに激怒した。それからすぐに国道24号線は舗装された。何年のことか分からないが父親がこの話をよくしていた。
国道24号線と交差している木津駅から西木津に抜けていく京都や枚方市に抜ける国道163号線は町の中に通っていた。この道を通って小・中学校を通学した。
泥道の国道だった。私が中学3年か高校に入ったころに舗装された。
長い間泥道を通学していた。
私の家がある細い道を50メートルほど出ると国道163号線だった。
この道沿いに子どもが遊ぶ神社があり、道路を挟んで八百屋がある。神社の道路向こうには酒屋さん、駄菓子屋さんそして夏になるとかぎ氷を売っていた。
道路挟んで化粧品屋があり自転車その隣はてんぷら屋兼の貸し本屋、その隣は散髪屋、そしてお菓子屋、向かい側の道路には竹篭屋、米屋、お菓屋、履物屋だったが私は子どものころは下駄屋さんといっていた。ある日、行政機関に勤務する人が私のことを知っているという。ぜんぜん記憶にない。
そしたら1年先輩の下駄屋の息子とという。それでやっとわかった。
それほど木津ではこの履物屋さんを多く利用していた。
ぬかるんだ道を破れた番傘で歩いた子どものころをこんなに傘が増えて不自由しなくなっているのに子どものころの記憶がよみがえってくる。
雨靴もあんなにほしかったのに今は舗装された道になり泥だらけになることもなくなった。雨靴の愛しさから遠のいている。
雨の自然の雨音は好きなのにふと切なくなるのは子どものころ傘がなかった。自分の傘がなかった小学校1年のころを思いだす。
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