地図で見ると信号3つ越えてそこから左に曲がればすぐのように見られた。
それが歩いていると住宅街で学校らしきが見えない。学校が見えないことは遠く感じる。他の人たちはやはり歩くとそれなりの距離があるのでタクシーに乗ったと言っている。朝学校に電話して距離を聞けばよかった。もう私の不手際としかいえない。人に聞きながらいくが案外近いように言われる。
やっと学校を見つけるとそれはまた違う中学校だった。
人に聞きながら行く。自転車に乗っていた男性はわざわざとまってかごの中から雨にぬれないようにした地図帳をだして調べてくれた。
案外近そうに見える。
歩いても歩いても学校は見えない。この後私はまだ大人1人、子ども1人に聞いていく。やっと学校が見つかった。それがその校門から校内に入れない。ここを曲がるとかなんか説明も地図もない。私はカンで正門に向かって歩いてようやく半周したところに「北の門」とある。
私のカンもそうたいしたものでない。
大体知らない土地での南や北の位置に途方にくれる。カンでまた元に来た道に戻ると子どもたちの下校姿が見えた。やっと安心した。
子どもたちが出てくるところが正門である。
ゆっくりできない。子どもがでてしまうと正門はすぐに施錠されるだろう。
近年、正門もゆっくりと開けることができない。
やっとたどり着いた。学校を大方1周している。
近年、学校に侵入者が入って事件が多発しているので門はみんな施錠されているので校内に入るのに右往左往することが多い。
ようやく教室にたどりついた。
雨がどしゃぶりなのに汗が吹き出ている。
100円均一のセンスで仰ぐがなかなか汗がひかない。
ようやくおさまったのが約10分ぐらいしてからである。
仕事が終わってタクシーで鶴橋駅に戻った。
そっと駅の陰に隠れて鏡をのぞくと眉毛が半分消えている。
昔の時代劇のお姫様になっている。これからまだ人に会うのになんてこと---。
久しぶりに鶴橋の国際市場を歩いた。
雨で人は少ないが韓国の食材があれこれ並んでいる。
ゆっくり時間をかけてみていなかったが韓国の市場の人たちは活気的に動いていた。
エネルギーが満杯である。
そしてある喫茶店でアイスクリームを連れの人と一緒に食べた。
ここにはデレット寝ているような人もいる。
新聞を読んでいる人もいる。
息抜きしている顔が目立った。
雨の鶴橋、うどん屋もすいている。雨で人が少ない。
ここで1世たちが畳2枚ほどから韓国食材の店をキリモリして成功させてきた。ほとんど1世のオモニ(母)たちだった。今は2世がついでさらに商売を繁盛させた。
それが角にある韓国食材の店である。この前は広場になっているがこの広場のところに40年前は歌手の和田アキ子の両親が韓国食材、乾物屋をしていた。
お父さんがいつも玄関前のところで座って韓国の木槌をもって干し明太を叩いていた。こんな光景、和田アキ子はきっと記憶していると思っている。
和田アキ子が住んでいた当時は日本人の差別が酷かったと聞いている。この生野もごたぶんにもれずそうだった。
生野区は現在もまだ残っている。
昔のことを思うと大分よくなっている。
共生と言う言葉をネックにして住みやすい差別のない街づくりをしてきたのは日本に住む「在日」である。
共生を育んできた歴史は今後新渡日の日本居住に生かされていくことだろう。
その差別との戦いを粘り強くしてきた1世がいたから未だに鶴橋に韓国食材と日本の市場が共存した街である。
ブラブラ鶴橋、歩いて猪飼野、疎開道路を歩けば通称コリアタウンにぶつかる。
ここはまた大通りに面して韓国食材店が並ぶ。
韓国食材をどんなふうに調理しているのだろうか。
キムチの嫌いな私はふと思ってしまう。
雨、どしゃぶりの雨は明日も続くという。
帰りはもう疲れて鶴橋までタクシーにのった。
1800円いくらで高かったな---。でも行きしなふうふう言って歩いたのでタクシーに乗ることで疲れが癒さればそれで満足としょう。
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