北(北朝鮮)から脱北者がきた。
日本を目指したので帰還事業で帰国した同胞かとも思った。
詳しい報道は伝わってこないのでわからない。
「苦しくて生きていけない」
という理由が新聞にかかれていた。
たぶんこれも理由の1つだろう。
6月2日、土曜日おだやかに過ごしているときのニュースだった。
衝撃だった。
日本から韓国に行きたいとかは報道では知らされているが詳細はわからない。
ここまできてしまったのか。
正直思ってしまう。
普通の人たちが暮らしていけないから北から逃げてきたという。
そしたら帰還事業で帰国した同胞はもっと苦しいのではないだろうか。
今も日本に住んでいる同胞たちは北の家族に送金している人は多いだろう。
そして「こちらが生活できないから送金はやめた」「もう何も消息がわからないから韓国籍に切り替えた」「もう皆死んだとおもっているから韓国籍にきりかえた」という声を町の中で聞く。
そしてある日、私の家に北を支持していた元幹部の人が訪ねてこられた。
びっくりした。しかし子息を知っているのでそんなに対したことはないと思った。
それからである。しばらくしてから-----ある人がお会いしたいと電話が入った。
けっきょく上に相談した。
それも仕事の1つだからということでお会いした。
世の中にはいろんな仕事をしている人がいることが分かった。
やはり日本と言う国はスパイ天国だということもわかった。
どこから入ってくるのだろうか。私の知らない世界が日本の中でウヨウヨしている。私は普通の暮らしをしている。そんなややこしいことは何もわからない。
そしてまたある日、北の元支持者の元幹部が私のマンションのドアを叩いた。
そのときそれから身支度をして仕事の現場に行かなければならなかった。
丁寧に「これから仕事です」と言うとそのまま帰って行かれた。
身近にいろんな人がいるということもわかった。
私は記者と言う仕事をしているが残念ながら自分の立場を考えて政治的なことにはいっさい関わらないできた。これは今後も私の生き方でもある。
韓国は私の祖父母そして父母の生まれ故郷であり私の本貫がある。
そしてまだ韓国には母親の妹が健在である。
母親の弟の子どもたちが仁川市に住んでいる。
在日韓国人の新聞記者になってこれまで知らなかった友人、知人ができて韓国は私が訪問しても違和感のない町である。ただ年をとってきて辛いものが食べられなくなってきたので韓国に行く時は日本の食材、レトロ食品を持っていくことを真剣に今は考えている。
新聞報道で見る小船、よくこんな船で北の清津(チョンジン)をでて青森についたものだ。この人たちの今後の人生に幸せ多くなることを願っている。
こんなニュースにいよいよこんなことになってきたのか。
今後この国はどうなっていくのだろうか。そして日本を目指す帰国同胞もいるのだろうか。半世紀以上に親子で独裁政治をして1番苦しめたのは国民である。帰国した同胞たちであり日本から家族に送金をしていた家族である。
この問題は対岸の問題ではない。
帰還事業を推進した日本そしてそれを推進した同胞たちにも責任の一端がある。
生前の父親は目の前で北を支持する本人に怒った。
北の話を自慢し帰国すればいいと人に勧めているのをみて父親は激怒した。
「そんなにいい国、いい国というならお前がまず先に帰ったらええやろ。お前が向こうの事情知っているから帰らへんのやろ」と言って激怒した。
この人は今確か80歳はこしているだろう。そして私のうちにこなくなった。
父親は何か知っているだろうと恐れられてけっして私の家にこなくなった。
もう私の父親も母親もいなくなったので我が家にこないだろう。
しかしまだ私の叔父2人がいるのでどこかでまたあうこともあるだろう。
こんなことで我が家の親戚はいつも右往左往して北の話でトラブルがたえなかった。父は娘が結婚適齢期が近づいてくると政治の話はご法度だった。特に北に関する話はご法度だった。それから私の家はあれほど多くの人が出入りしていたが限られた親戚だけが来るようになった。それでも父親の兄弟は9人、1960年代から1970年代は大変な時代だった。
父親は分断国家に対する恨みもあれば悲しみもあったのだろう。
双方の民族団体の出入りさえ結婚した娘にも禁じた。そして帰化も反対した。
しかし韓国の国力がついてソウルオリンピックを契機に私が在日韓国人の新聞記者になって民団の出入りには暗黙の了解となった。
今もし父親が生きていれば北から逃げてきたこの現実になんという言葉を発しただろう。やはりまた父の言葉を思い出す。死ぬ間際に発した言葉「社会主義では飯食われへんのや」
たぶんこころの中で分断国家の統一を願っていたのだろう。そして分断に関与した日本を恨んで死んでいっただろう。
北から逃げてきた人の船、よくこんな船できたもんだ。
日本を目指したので帰還事業で帰国した同胞かとも思った。
詳しい報道は伝わってこないのでわからない。
「苦しくて生きていけない」
という理由が新聞にかかれていた。
たぶんこれも理由の1つだろう。
6月2日、土曜日おだやかに過ごしているときのニュースだった。
衝撃だった。
日本から韓国に行きたいとかは報道では知らされているが詳細はわからない。
ここまできてしまったのか。
正直思ってしまう。
普通の人たちが暮らしていけないから北から逃げてきたという。
そしたら帰還事業で帰国した同胞はもっと苦しいのではないだろうか。
今も日本に住んでいる同胞たちは北の家族に送金している人は多いだろう。
そして「こちらが生活できないから送金はやめた」「もう何も消息がわからないから韓国籍に切り替えた」「もう皆死んだとおもっているから韓国籍にきりかえた」という声を町の中で聞く。
そしてある日、私の家に北を支持していた元幹部の人が訪ねてこられた。
びっくりした。しかし子息を知っているのでそんなに対したことはないと思った。
それからである。しばらくしてから-----ある人がお会いしたいと電話が入った。
けっきょく上に相談した。
それも仕事の1つだからということでお会いした。
世の中にはいろんな仕事をしている人がいることが分かった。
やはり日本と言う国はスパイ天国だということもわかった。
どこから入ってくるのだろうか。私の知らない世界が日本の中でウヨウヨしている。私は普通の暮らしをしている。そんなややこしいことは何もわからない。
そしてまたある日、北の元支持者の元幹部が私のマンションのドアを叩いた。
そのときそれから身支度をして仕事の現場に行かなければならなかった。
丁寧に「これから仕事です」と言うとそのまま帰って行かれた。
身近にいろんな人がいるということもわかった。
私は記者と言う仕事をしているが残念ながら自分の立場を考えて政治的なことにはいっさい関わらないできた。これは今後も私の生き方でもある。
韓国は私の祖父母そして父母の生まれ故郷であり私の本貫がある。
そしてまだ韓国には母親の妹が健在である。
母親の弟の子どもたちが仁川市に住んでいる。
在日韓国人の新聞記者になってこれまで知らなかった友人、知人ができて韓国は私が訪問しても違和感のない町である。ただ年をとってきて辛いものが食べられなくなってきたので韓国に行く時は日本の食材、レトロ食品を持っていくことを真剣に今は考えている。
新聞報道で見る小船、よくこんな船で北の清津(チョンジン)をでて青森についたものだ。この人たちの今後の人生に幸せ多くなることを願っている。
こんなニュースにいよいよこんなことになってきたのか。
今後この国はどうなっていくのだろうか。そして日本を目指す帰国同胞もいるのだろうか。半世紀以上に親子で独裁政治をして1番苦しめたのは国民である。帰国した同胞たちであり日本から家族に送金をしていた家族である。
この問題は対岸の問題ではない。
帰還事業を推進した日本そしてそれを推進した同胞たちにも責任の一端がある。
生前の父親は目の前で北を支持する本人に怒った。
北の話を自慢し帰国すればいいと人に勧めているのをみて父親は激怒した。
「そんなにいい国、いい国というならお前がまず先に帰ったらええやろ。お前が向こうの事情知っているから帰らへんのやろ」と言って激怒した。
この人は今確か80歳はこしているだろう。そして私のうちにこなくなった。
父親は何か知っているだろうと恐れられてけっして私の家にこなくなった。
もう私の父親も母親もいなくなったので我が家にこないだろう。
しかしまだ私の叔父2人がいるのでどこかでまたあうこともあるだろう。
こんなことで我が家の親戚はいつも右往左往して北の話でトラブルがたえなかった。父は娘が結婚適齢期が近づいてくると政治の話はご法度だった。特に北に関する話はご法度だった。それから私の家はあれほど多くの人が出入りしていたが限られた親戚だけが来るようになった。それでも父親の兄弟は9人、1960年代から1970年代は大変な時代だった。
父親は分断国家に対する恨みもあれば悲しみもあったのだろう。
双方の民族団体の出入りさえ結婚した娘にも禁じた。そして帰化も反対した。
しかし韓国の国力がついてソウルオリンピックを契機に私が在日韓国人の新聞記者になって民団の出入りには暗黙の了解となった。
今もし父親が生きていれば北から逃げてきたこの現実になんという言葉を発しただろう。やはりまた父の言葉を思い出す。死ぬ間際に発した言葉「社会主義では飯食われへんのや」
たぶんこころの中で分断国家の統一を願っていたのだろう。そして分断に関与した日本を恨んで死んでいっただろう。
北から逃げてきた人の船、よくこんな船できたもんだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます