昨日、午前中のテレビで見た、「なる友」の番組にでていた。
びっくりした。
約2ヶ月ほど前に奈良市内で幼稚園の先生をしていた人と話しをする機会があった。そしたら私の息子が通っていた奈良市立都跡幼稚園の年長組みの先生と大の仲良しだという。それにはびっくりした。その先生のご主人とは高校時代の同級生である。かわいい顔をしていたので女子学生に人気があった。
高校の中ではみんな「八木君」「八木君」と言っていた。
そして私のクラスの女の子、M子と付き合っていた。当時も男女が付き合うといってもせいぜい校内の片隅で1メートルほど離れて話をするのがせきの山だった。しかし八木君はこころ変わりをしたのかそれとも私と同じクラスのT子から誘ったのかT子と交際し始めていた。そしてクラスには必ず1人や2人、おせかっい焼きをする人がいた。E子がそうだった。
みんな放課後の何時にガード横の○○の建物に行くからみんないっしょに行こうという。そしてその八木君に時間と待ち合わせの場所を言いにいくのはE子だった。
ただ私は八木君と会うのはほ分かっていたが何をするのか知らなかった。
私はただ金魚の糞みたいにみんなと一緒についていた。7・8人だっただろか。10人ぐらいいただろうか。その八木君と木津駅に近いガード横のある建物のところであった。
E子は一方的になんでT子と付き合っているのか。どうしてM子をふるのかとかまくしたてていた。私は金魚の糞なので後ろでじっと見ていた。
30分ぐらいE子は八木君を責め続けた。
そして八木君は時計を見た。もう電車に乗る時間だからと言った。
電車は今のように何本も本数がなかった。奈良線にしても関西線にしても1時間に1本だった。
そんなところはE子も心得ていて「そう」と言って素直に八木君を解放した。八木君は目頭をふきながら一目散にガード下を駆けていった。
たぶん涙ぐんでいたのだろう。
この思い出は高校を卒業しても強烈に覚えている。
高校2年の晩秋だったと記憶している。1961年の秋だったのだろうか。
そして卒業してから八木君とはあうことはなかった。
そして息子が幼稚園に通いだして年長組みの担任が八木君の奥さんだった。
そして何年も過ぎて最近、奈良市内で幼稚園の先生をしていたある女性とあるところで話す機会があった。
「八木先生の息子さんが今テレビで活躍している。ぜひ応援してあげて下さい。サバンナ八木でている」と話された。そういえば10年ほど前だっただろうか。奈良県で行なわれた外国人教育の会場で何年ぶりかに八木先生にあった。八木先生は「息子は吉本に行っている。漫才が好きだからそこに所属している」と言った。
普通の主婦が吉本に行くというとびっくりするが八木先生はおおらかな人だった。息子を信頼していた。
そしたら昨日見た。「サバンナ八木ともう1人のコンビと一緒にでていた」びっくりした。そしてそのルポが京田辺町だった。そこから実家の井出町に近い。
コンビのもう1人が井手の実家のことを話すが「実家は関係ない」と言っている。見ると顔は母親似だった。こんな面白い子どもが八木君にいたのかとびっくりしていた。
八木君は昔の国鉄に入社してそして新幹線の運転手になって東京・新大阪を往復する勤務についていた。父親は大方留守がちの家庭だっただろう。
みんな一生懸命に生きてきた。1960年代そして80年、90年代と駆け抜けてきた。
高校時代の同級生の奥さんは奈良市立幼稚園の先生、そして息子の担任になった。息子が担任になったときに子どもさんが生まれた。このときお祝いをもって自宅を訪問している。
そのお子さんなのだろうか。サバンナ八木の名前で活躍する芸人、人生って長いこと生きていると不思議なことに出会う。
昨日テレビを見ていて八木君も八木先生もすでに定年退職をして職場を離れておられるだろう。
どこで繋がっている。出会った人の縁がどこかでつながっている。
とにかくテレビに出ています。
「サバンナ八木・前田」を応援してあげて下さい。
びっくりした。
約2ヶ月ほど前に奈良市内で幼稚園の先生をしていた人と話しをする機会があった。そしたら私の息子が通っていた奈良市立都跡幼稚園の年長組みの先生と大の仲良しだという。それにはびっくりした。その先生のご主人とは高校時代の同級生である。かわいい顔をしていたので女子学生に人気があった。
高校の中ではみんな「八木君」「八木君」と言っていた。
そして私のクラスの女の子、M子と付き合っていた。当時も男女が付き合うといってもせいぜい校内の片隅で1メートルほど離れて話をするのがせきの山だった。しかし八木君はこころ変わりをしたのかそれとも私と同じクラスのT子から誘ったのかT子と交際し始めていた。そしてクラスには必ず1人や2人、おせかっい焼きをする人がいた。E子がそうだった。
みんな放課後の何時にガード横の○○の建物に行くからみんないっしょに行こうという。そしてその八木君に時間と待ち合わせの場所を言いにいくのはE子だった。
ただ私は八木君と会うのはほ分かっていたが何をするのか知らなかった。
私はただ金魚の糞みたいにみんなと一緒についていた。7・8人だっただろか。10人ぐらいいただろうか。その八木君と木津駅に近いガード横のある建物のところであった。
E子は一方的になんでT子と付き合っているのか。どうしてM子をふるのかとかまくしたてていた。私は金魚の糞なので後ろでじっと見ていた。
30分ぐらいE子は八木君を責め続けた。
そして八木君は時計を見た。もう電車に乗る時間だからと言った。
電車は今のように何本も本数がなかった。奈良線にしても関西線にしても1時間に1本だった。
そんなところはE子も心得ていて「そう」と言って素直に八木君を解放した。八木君は目頭をふきながら一目散にガード下を駆けていった。
たぶん涙ぐんでいたのだろう。
この思い出は高校を卒業しても強烈に覚えている。
高校2年の晩秋だったと記憶している。1961年の秋だったのだろうか。
そして卒業してから八木君とはあうことはなかった。
そして息子が幼稚園に通いだして年長組みの担任が八木君の奥さんだった。
そして何年も過ぎて最近、奈良市内で幼稚園の先生をしていたある女性とあるところで話す機会があった。
「八木先生の息子さんが今テレビで活躍している。ぜひ応援してあげて下さい。サバンナ八木でている」と話された。そういえば10年ほど前だっただろうか。奈良県で行なわれた外国人教育の会場で何年ぶりかに八木先生にあった。八木先生は「息子は吉本に行っている。漫才が好きだからそこに所属している」と言った。
普通の主婦が吉本に行くというとびっくりするが八木先生はおおらかな人だった。息子を信頼していた。
そしたら昨日見た。「サバンナ八木ともう1人のコンビと一緒にでていた」びっくりした。そしてそのルポが京田辺町だった。そこから実家の井出町に近い。
コンビのもう1人が井手の実家のことを話すが「実家は関係ない」と言っている。見ると顔は母親似だった。こんな面白い子どもが八木君にいたのかとびっくりしていた。
八木君は昔の国鉄に入社してそして新幹線の運転手になって東京・新大阪を往復する勤務についていた。父親は大方留守がちの家庭だっただろう。
みんな一生懸命に生きてきた。1960年代そして80年、90年代と駆け抜けてきた。
高校時代の同級生の奥さんは奈良市立幼稚園の先生、そして息子の担任になった。息子が担任になったときに子どもさんが生まれた。このときお祝いをもって自宅を訪問している。
そのお子さんなのだろうか。サバンナ八木の名前で活躍する芸人、人生って長いこと生きていると不思議なことに出会う。
昨日テレビを見ていて八木君も八木先生もすでに定年退職をして職場を離れておられるだろう。
どこで繋がっている。出会った人の縁がどこかでつながっている。
とにかくテレビに出ています。
「サバンナ八木・前田」を応援してあげて下さい。
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