その中には企画記事も入るのでまた追われていく。
動き出したらバタバタ動いているのに家でのんびり過ごすとまたこののんびりはここちよくてふと専業主婦をしていたころを思い出す。
けれど専業主婦のころは社会参加をしたいとあせっていたのに忙しくなるとゆっくりした時間がほしいと思う。
子育てしながらも主婦の生活は近所にすむ主婦たちが社会だった。
これでは物足りなくて何か社会参加を探していた。
2・3歳の子どもを育てながら自分に出来ることを探した。
そのとき雑誌で見た詩集、同人誌を見つけてここの会員になった。
1年に何回か掲載してもらった。これで少し社会の窓が見えてきたような気がした。そして2・3年に一度の会合に参加していた。
子どもが幼稚園に行くようになってPTAの役員をしてやっとやっと自分が表現できる社会参加になった。
子どもが小学校に上がりPTAの大役もこなした。
しかしそこには韓国籍の私に、はだかる差別の感触を何度も味わうことになった。
そして村的志向の強い集落の中での役員活動は人間的に未熟な私は何度も何度も押しつぶされそうになった。
けれど神経的な病気になって世間知らずの私に夫は気がついてできるだけ人の輪の中に入って行くように言って役員活動を進めた。夫はPTA役員になることに後押ししてくれた。
人間関係で何度も何度も押しつぶされそうになった。
PTAの役員はしないと黙って心に決めたのは息子が小学校6年の冬だった。
ペングループを創設したときも私の人間性よりも在日韓国人のDNAが会合の邪魔になった。そのときはそれが「感性」と気がつかないでここでも何度も心の中は悶々としていた。
救ってくれたのは地方紙の上司たちだった。
「やる気があって感性が違う」
を見抜いておられたのか雑誌記者の抜擢になったと思う。
やる気は在日韓国人の2世だったからエネルギッシュに生きないと日本社会では認めてもらえない。本能的なものだった。
エネルギシュに動いた。
「在日韓国人の感性」、「DNA」に自分で気がつくのは在日韓国人の新聞記者になってからだった。「DNA」がペングループでは日本人とは違う企画、アイデアに侃々諤々の意見の討論になった。いじめられる材料にもなった。
この「DNA」にペングループの人たちの1部から「性格が悪い」と何度も言われた。この「性格が悪い」という言葉は「やっぱり朝鮮人やから違う」という遠まわしの言葉だったことを在日韓国人の新聞記者になってやっと気がついた。
「性格が悪い」でなくて異文化の違いは私の成りを作っていた。
このことに気がつくのに長い時間がかかった。
こんなことを思うと私の人生つれづれを振り返ってしまう。
奈良新聞60周年、日本の敗戦後すぐに生まれた新聞社である。
「大和タイムス」が社名だった。
改名されて「奈良新聞」になった。
55周年の記念式典のときはMさんがいた。カメラを持ってウロウロしていた。写真を撮ってサービスしていた。
残念なことに私には1枚も撮ってもらえなかった。
そんなこと思い出してしまった。
ペングループのメンバーは皆とってもらっていたが私はそこに入ろうとせず黙って見ていた。
そしてこの後1ヵ月後に私が勤務した「月刊奈良」編集局の45周年記念式典があった。このときMさんも参加していた。
そして代議士の亀井静香衆議院議員がかけつけた。
今年1月に亡くなった編集局長との身内筋になることから記念式典に駆けつけた。
そのときMさんの歯の色が真っ黒になっていた。
私はきれい好きの人がおかしい。体のどこかが悪いのではと一瞬思った。
思わず「体のどこか具合が悪いのでは、病院に行ったら」と言おうとしたがぐっと言葉をのみこんだ。
あまのじゃくでけっして素直ではない人だったので「鄭さんに言われたくない」と言われるかもしれない。
言われて嫌な思いをするならやめておこうと考えて言葉をのみこんだ。
そしてその年の12月に入院して翌年の5月に亡くなった。
あのとき勇気を出して病院に行ったら言えばよかったとも思ったりする。そしたら1ヶ月でも早く早期発見できたかもしれないとふと悔やむときもある。
Mさんが亡くなって4年半が過ぎようとしている。
もうそんな月日になったのか。
編集局長も今年1月のはじめに亡くなった。
人から間接的に聞いた話だが、昨夏、衆議院議員の総選挙、郵政民営化に対する刺客を送る選挙になった。
亀井代議士は世間がよく知るように郵政民営化の反対派だった。広島に刺客が送り込まれた。そのとき今は亡き編集局長も熱い炎天下の中、応援にかけつけていたという。間接的に聞いた話。「選挙運動が命を縮めたのかもしれない」
亀井代議士の言葉だと------。人からの間接に聞いた言葉である。
編集局長もMさんもこの世にいない。
月日は過ぎていく。日本社会も5年前と比べていろんなことが変わった。
大体、電車の中での化粧や飲食は想像もできなかった。
それが今は何でもあり。なんでも通ってしまう変な社会になっている。
久しぶりにゆっくりしていていろんなことを思い出してしまった。
動き出したらバタバタ動いているのに家でのんびり過ごすとまたこののんびりはここちよくてふと専業主婦をしていたころを思い出す。
けれど専業主婦のころは社会参加をしたいとあせっていたのに忙しくなるとゆっくりした時間がほしいと思う。
子育てしながらも主婦の生活は近所にすむ主婦たちが社会だった。
これでは物足りなくて何か社会参加を探していた。
2・3歳の子どもを育てながら自分に出来ることを探した。
そのとき雑誌で見た詩集、同人誌を見つけてここの会員になった。
1年に何回か掲載してもらった。これで少し社会の窓が見えてきたような気がした。そして2・3年に一度の会合に参加していた。
子どもが幼稚園に行くようになってPTAの役員をしてやっとやっと自分が表現できる社会参加になった。
子どもが小学校に上がりPTAの大役もこなした。
しかしそこには韓国籍の私に、はだかる差別の感触を何度も味わうことになった。
そして村的志向の強い集落の中での役員活動は人間的に未熟な私は何度も何度も押しつぶされそうになった。
けれど神経的な病気になって世間知らずの私に夫は気がついてできるだけ人の輪の中に入って行くように言って役員活動を進めた。夫はPTA役員になることに後押ししてくれた。
人間関係で何度も何度も押しつぶされそうになった。
PTAの役員はしないと黙って心に決めたのは息子が小学校6年の冬だった。
ペングループを創設したときも私の人間性よりも在日韓国人のDNAが会合の邪魔になった。そのときはそれが「感性」と気がつかないでここでも何度も心の中は悶々としていた。
救ってくれたのは地方紙の上司たちだった。
「やる気があって感性が違う」
を見抜いておられたのか雑誌記者の抜擢になったと思う。
やる気は在日韓国人の2世だったからエネルギッシュに生きないと日本社会では認めてもらえない。本能的なものだった。
エネルギシュに動いた。
「在日韓国人の感性」、「DNA」に自分で気がつくのは在日韓国人の新聞記者になってからだった。「DNA」がペングループでは日本人とは違う企画、アイデアに侃々諤々の意見の討論になった。いじめられる材料にもなった。
この「DNA」にペングループの人たちの1部から「性格が悪い」と何度も言われた。この「性格が悪い」という言葉は「やっぱり朝鮮人やから違う」という遠まわしの言葉だったことを在日韓国人の新聞記者になってやっと気がついた。
「性格が悪い」でなくて異文化の違いは私の成りを作っていた。
このことに気がつくのに長い時間がかかった。
こんなことを思うと私の人生つれづれを振り返ってしまう。
奈良新聞60周年、日本の敗戦後すぐに生まれた新聞社である。
「大和タイムス」が社名だった。
改名されて「奈良新聞」になった。
55周年の記念式典のときはMさんがいた。カメラを持ってウロウロしていた。写真を撮ってサービスしていた。
残念なことに私には1枚も撮ってもらえなかった。
そんなこと思い出してしまった。
ペングループのメンバーは皆とってもらっていたが私はそこに入ろうとせず黙って見ていた。
そしてこの後1ヵ月後に私が勤務した「月刊奈良」編集局の45周年記念式典があった。このときMさんも参加していた。
そして代議士の亀井静香衆議院議員がかけつけた。
今年1月に亡くなった編集局長との身内筋になることから記念式典に駆けつけた。
そのときMさんの歯の色が真っ黒になっていた。
私はきれい好きの人がおかしい。体のどこかが悪いのではと一瞬思った。
思わず「体のどこか具合が悪いのでは、病院に行ったら」と言おうとしたがぐっと言葉をのみこんだ。
あまのじゃくでけっして素直ではない人だったので「鄭さんに言われたくない」と言われるかもしれない。
言われて嫌な思いをするならやめておこうと考えて言葉をのみこんだ。
そしてその年の12月に入院して翌年の5月に亡くなった。
あのとき勇気を出して病院に行ったら言えばよかったとも思ったりする。そしたら1ヶ月でも早く早期発見できたかもしれないとふと悔やむときもある。
Mさんが亡くなって4年半が過ぎようとしている。
もうそんな月日になったのか。
編集局長も今年1月のはじめに亡くなった。
人から間接的に聞いた話だが、昨夏、衆議院議員の総選挙、郵政民営化に対する刺客を送る選挙になった。
亀井代議士は世間がよく知るように郵政民営化の反対派だった。広島に刺客が送り込まれた。そのとき今は亡き編集局長も熱い炎天下の中、応援にかけつけていたという。間接的に聞いた話。「選挙運動が命を縮めたのかもしれない」
亀井代議士の言葉だと------。人からの間接に聞いた言葉である。
編集局長もMさんもこの世にいない。
月日は過ぎていく。日本社会も5年前と比べていろんなことが変わった。
大体、電車の中での化粧や飲食は想像もできなかった。
それが今は何でもあり。なんでも通ってしまう変な社会になっている。
久しぶりにゆっくりしていていろんなことを思い出してしまった。
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