2023年7月6日(木)晴のち曇。
今日は暑い。蒸し暑い。今日は木曜日、看護師さんの訪問である。11時に来られる。今朝、食べた物はご飯は170カロリー、味噌汁は薄揚げ・わかめ・しめじ・ネギ・キャベツ・白菜入り、キュウリの韓国サラダ、焼鮭、ウインナーソーセージ、明太子、佃煮塩昆布、柚子大根、長芋と厚揚げと高野豆腐を入れて煮付をした。長芋を煮付けると美味しかった。今朝は380カロリー。空の写真は今朝、6時33分に撮影。カメラ撮影、かなり傾けていたのか、写真が斜めになってしまった。
物価上昇で少し家計が厳しい。今月は生活費、早い引き出しになった。今日は夫が銀行にいってくれる。私が行けばいいが、そうはいかない。誰かの車に乗れば心配はない。しかし介護タクシーを使うと病院行の利用と違ってかなりの金額になる。高齢者の年金受給者にはきつい。物事はそう簡単に進まない。書くことが浮かんでこない。さっきまで、パソコンの後ろで夫が話をしていて、パソコンが前に進まない。前に進まないといったらやっと離れた。先日、奈良新聞の前社長さんが、昭和28年8月15日深夜の南山城村の水害をフエイスブックに挙げていた。この記憶は年を重ねても頭の片隅に残っている。まだ戦後、まもないときで、木津川の河川の土手も水がすぐあふれるというものだった。その日の夜、父親は京都の勤務先、会社にいた。列車が不通で家に戻ることができなかった。まだ弟が生まれていなくて妹と私と母親の3人は自宅近くの神社の前に避難した。大勢の人が集まっていた。消防団が「木津川は橋の欄干から手が洗える」と、いって避難をして下さいと。避難したするとき、母親は子供にたくさんの服とズボンをはかせた。妹は3歳下。母親は柳こおりを持っていった。集まった大人たちは、堤防が切れると、人間の足より水が早いといっていた。高台に逃げないといけない。ここだったら高台は木津駅といっていた。そして明方、消防団は「水がひいたので自宅に戻って下さい」という。そして自宅に戻った。木津川は堤防が切れて山崩れになった笠置町、大河原村の上流から壊れた家の瓦礫、牛も人間も山のようになって流れ着いた。隣の綴喜郡の井手町も天井川が氾濫して水害になっていた。笠置・加茂・和束・童仙房や山城町と相楽郡もかなりの被害になった。水害の翌年の相楽郡の小学校の作文文集は水害関係が多かった。これで身近の水害状況が伝わっていた。高校に進学すると、相楽郡から木津高校にほとんど進学をする。冬、ストーブにあたりながら、木津高校では美人で有名だったクラスメイトが、水害の状況を話してくれた。母親は小学生3年の彼女をおんぶ紐でくくってあふれる水の中を逃げた。おんぶ紐を使わないで抱っこしていた子供たちは流された。当時、高校生だった兄、2人、やっと避難したのに、家を見てくるいって、山崩れにあって兄2人ともなくなった。親が頼るのは彼女だけ。美人で毎日、下駄箱に手紙が入っていたほどである。クラスメイトの1人は橋幸夫の相手役募集に応募した。書類審査は通って次は東京にいく。これには親も反対をする。それでこの2次審査は行かなかった。家にも手紙がくる。それを親は全部、隠していた。好きな人もいたが、あきらめて親の決めた人と結婚をした。水害がなくて兄が生きていれば、彼女の人生も変わっただろう。彼女は大河原から出ることはできなかった。親がなくなって夫の転勤で奈良市に住んだこともあったが、また大河原に戻っていった。南山城村水害の言葉に様々なことを思いだす。大雨がふると木津川のことが心配になる。年を重ねても忘れることはできない。また。
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