鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

テレビを20分ほど見た。

2011-07-04 11:54:35 | 直言!
今日は雨がふるらしいが----。
洗濯をとったりする家事をしないといけないが----。
少しテレビを見てからパソコンの前に座った。それが書くことが浮かんでこなくなった。何をかこうと思っているとテレビの中でタレントの円さんがいっていた。
神戸三宮が寂しくなったという。
私は奈良から行くと大勢の人が歩いているように思うが神戸地元からみるとそうでないのかもしれない。
震災前の神戸市三宮駅近くはそごう百貨店があり今はもうなくなった企業だが山一證券もあった。神戸新聞社もあった。高層ビルが林立していた。
震災でほとんどのビルが半壊して使い物にならなくなっていた。
山一證券もそごう百貨店手も---。倒壊した家屋に歪んだ家屋、その間の道を震災後何度も歩いた。
復興まで5年はかかったような記憶がある。
ブルーシートが町の風景から見えなくなったのは5年経ってからだったと思う。
三宮の町は復興している。人々も普通に暮らしているが経済的には私たち外から見えないもので苦労されていると思っている。

あのときの韓国の大統領は金泳三さんだった。
金大中さんの側近がすぐに震災地に飛んでこられた。
金大中さんも神戸にこられるとなった。
それで在日韓国人の新聞記者は神戸に飛んだ。
たぶん大阪から船で神戸にいったと思っている。
民団兵庫県本部会館にこられて記者会見が行われた。
金大中さんはこられなかった。うわさでは後からこられたと聞いているが記者会見の間はこられなかった。
記者会見の内容は「関東大震災のようなことはないのか。震災の実態を調査をするために来た」という内容だった。
私はなんのことか分からないのに----。とにかく現場に入った。
当時、次期大統領候補と言われていた金大中さん。在日韓国人の新聞記者は現場取材に入ったものの記者会見の内容に言葉は出さなかったが躊躇したことを記憶している。
避難場所では日本人と在日外国人が協力して助け合って避難生活をしていたので何のこと----と、言葉に出さないがまともに取材内容を聞かないで立ち去る記者もいた。そんなことをまた思い出していた。

東日本大震災の対応、日本のトップの決断行使力のなさに被災地の人たちは見えない形で苦労されている。政権の思惑はなんなのか---。
なんとも歯切れの悪い日本のトッブである。

話は元に戻すが金大中さんが大統領になった。
この裏は側近たちの苦労と緻密な計算もあった。またアメリカの背景もあった。
よかったのか悪かったのか。
私はけっしてよかったとは思っていない。北朝鮮を擁護したことはすべてマイナスだった。どれほど韓国の国民の税金が北朝鮮に投入されたことか----。
韓流で韓国を好きになった日本人そして在日コリアンを隠し通した同胞も韓国が好きになったが私のように国籍をずっと隠さないで生きてきたものはなんとも物悲しいものである。ただ韓国テレビが日本とつながれ韓国のテレビが見られるようになったことはうれしい。なんとなしに見ていた韓国テレビ。俳優に夢中になることはほとんどなかった。日本でブレイクした冬のソナタに出演したペヨンジュンに一時夢中になったが時代を透視したそのドラマの主人公、そのときは良かったが今のペヨンジュンは嫌いです。
魅力のない人になった。女みたいになったのも嫌いになった一つです。
夫はテレビを故障させた。録画作業操作の手違いで長いこと韓国テレビが見られなかった。
そして地デジのテレビの買い替えで昨年11月に買い換えて韓国テレビがスムーズに見られるようになった。
なんとなしにテレビを見ていた。日本のテレビ番組がいいものがないときに韓国テレビを見ていた。
韓国テレビ「ジャインアント」もよくて最初から見ていたが1970年の韓国、政権と企業と軍隊の犠牲になっていく一般庶民の子どもたちの生き様にドラマが見られなくなってしばらく見なかった。
そしてまたもう1度見ると、犠牲になった子どもたちが成長して大人になって韓国の政治や企業などに正面から戦っているドラマの内容にまた見るようになった。そしてそこに出てくる俳優・チュサンウク、ものすごく男前、ドラマのサンウクに魅了していった。
ハラハラドキドキしながら見ていたが私は思い出した。
この顔、見たことがあると思っていたらソウルの町で見ていた。
ロッテ百貨店のエスカレーターで見た。チュサンウクは現在32歳、もうすぐ33歳になるが私が見たのは20代の半ばだった。もう少し若かった。
エスカレーターですれ違う時チュサンウクの姿はキラキラしていてオーラーがあった。キラキラしているチュサンウクを私は思わずじっと見とれていた。
階段だったら下りて行ってもう1度正面から見ていたと思っている。
エスカレーターは下ることができない。1つ間違うと怪我をしてしまう。
私は振り返って見た。背中を見た。
背中もピシッと決まっていた。
あの光景は今も目に焼きついている。

とりあえず韓国テレビは卒業したと思っていた。拉致被害者が2002年秋に日本に戻ってきた5人のユースから日本のニュースをみるようになった。
今は日本のテレビと韓国テレビ、まぜこぜに見ている。
日本のテレビ番組がつまらくなってしまった。
しかし韓流に夢中になる中高年の日本人や在日コリアンは許せないところがある。在日韓国人として本名で日本社会の中でいきる私に対する視線は侮蔑そのものだった。そんな話をすればキリがないが----。
在日韓国人の1人のクラスメイトは許せない。卒業して結婚しても何人かであうことが何度かあった。私は在日韓国人をありのままに生きているのにこれが彼女は気に入らない。
クラスメイトは他のクラスメイトに「ヒラカワ、在日の話するから嫌い」と言ったらしい。そして日本人のクラスメイトが「ヒラカワ、在日の話しないほうがいい」と電話でいってきた。また在日韓国人のこのクラスメイトも私の家に電話をかけてきた。
1世の母親の介護していていろいろあるのだろう。1世はそれなりに我儘も多いことは私も加齢になる母親を見て知っている。そしてこのとき、彼女は日本国籍をとっていた。私に何を言いたかったのだろうか。自分の母親の悪口をたくさん言って私にいった。
「チョウセン嫌い。チョウセン嫌いや」といった。
私はこの言葉に胸が圧迫されるほどの痛みを感じたが言葉は冷静にして「1世の親はいろいろと言いたいことがいえないからどうしても気ままがでる」といった。その後、また彼女は私を奈良市内の喫茶店に呼び出して「息子も就職するのになんであんたは帰化しないの」と、すごい剣幕でまくし立てた。
私はこのときも冷静にして「うちの息子は大学も本名で行って本名で就職している」といったら彼女は黙ってしまった。
それからこのグループのクラスメイトとは疎遠にした。集ることを誘われたときに「あんたらに会いたくない。私は友達もたくさんいるのでもう会いたくない」と言って断っていた。
10年経ってまた誘いがあった。
10年も経てば帰化した在日韓国人は大人になっていると思ったがそうではなかった。10年ぶりにあっているのにクラスメイト2人の前で私の親の介護を出して非難した。このとき他の2人は話しをさえぎらないで黙っていた。
今から考えると意図的に仕組んだものだったと思うようになった。
高校時代からこの在日韓国人のクラスメイトに苛められていた中身が分かった。
他の2人とも私は仲が良かった。仲がいいと嫉妬して意地悪をした。
底意地の悪い人だということをやっと65歳にして気がついた。そして底意地の悪さをあるクラスメイトに話すと「そうやで」と言ってくれた。
クラスメイトのほとんどが彼女の「いけずの気性」を知っていたのだ。
それを知らない私をどんなふうに見ていたのかと思うと----。心がふさがれるが----。加齢になって人を許せない気持ちに自分自身に躊躇するがもう気をつかいながらの友人関係はしたくないと考えて私なりの生き方をするようにした。
在日韓国人の彼女、帰化したが韓流で韓国ドラマに夢中になっている。
あれほど在日の話題を毛嫌いしたのに----。なんともおぞましい性格、性格不美人とはこんなこというのだろうか。

もう彼女たちに会わないと決めている。
会いたいとはこれっぽっちも思っていない。
ただ、傷心である。3年前4人で1泊旅行した時の私の気持ちが見えない2人にも傷ついている。腹立ちになっているが忘れようと努力している。けれどまだ私の心の傷は癒されていない。土台、あの3人とは合わない人だったと思っている。私は普通に生きてきた人生、高校時代から突出していた性格に私は合わないと気がつきそしてもうついていけなくなっただけのこと。ありのままに生きている私は虚飾の人生を歩く彼女たちについていけないだけのこと。
親が普通に育ててくれたことに感謝している。
父親はなかったらないなりの生活をすること。いつも口やかましく言っていた。
見えを張ることもない。ありのままの生活をする大切さを教えてくれた。
さてこのへんで休憩です。
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