鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

8月24日の日曜日

2008-08-24 15:43:37 | 直言!
今日ゆっくりしたいので昨日は遅くまで月曜日の連載を作った。ある程度のところまで原稿を作って続きは明日にしょうと思ったら時計はもう夜中の12時半になっていた。バソコンを閉じて少しテレビをみているが眠たい。ふとんに入ったのは日付が変わった深夜の1時だった。
外は夕方に大ぶりな雨がふって乾いていた空気を湿らせてくれた。
夜遅くには雨が小降りになっていた。
それでも久しぶりに聞く雨音に心が落ち着いた。
そんなことで今朝は7時になっても目があかない。8時になってもまだ寝ている。
しかしこれではいけないと思って8時半に起きた。
昨日の新聞を片付けたりしていると8時40分過ぎになった。
テレビは北京オリンピックの「星野ジャパン」の批判をしていた。
専門的なところから話をしていた。負けた。とにかく負けた。
星野ジャパンと韓国の対戦の結果を聞いたのは民団大阪本部会館だった。
3時から始まった幹部役員の会合に入っていた。
4時半に終わった。そのとき誰かが携帯電話を見て結果を教えてくれた。
小さな声で「韓国が勝った」と言った。
そこにいた者は複雑な心境で即に返答できなかったのだろう。
けれど私は何気なしに音を立てないで拍手をした。そしたらまわりもつられて拍手をしたが何も言葉に出さなかった。
皆、野球は大好きで阪神大好きである。
星野ジャパンが勝っても気持は複雑、韓国チームが勝っても複雑である。
そして韓国チームは金メダルを取るという快挙を成し遂げた。
皆よくやったと思っている。
これはこれで嬉しい。韓国チームの歓喜の姿がテレビから伝わる。おそらく韓国のテレビはもっと圧巻にニュース番組で伝えているだろう。
私も韓国テレビに切り替えてニュース番組をみればいいがニュース番組は日本語の字幕がない。半分は理解できるが半分はできない。やっぱり日本語が楽である。忙しいこともあってみる時間もなくてみていないが今頃韓国の町には歓喜の喜びで沸いているだろう。

ホームランを打った李承(イスンヨップ)選手、日本に来てロッテに入ったときにサインとサインボールが京都国際学校に届けられた。
ロッテ時代のものだがこれはまた大きい財産になりそうだ。
韓国慶尚北道大邱出身の李承選手、京都の在日韓国人に嫁いできた女性がいる。
李承選手と親戚関係にあることから故郷に帰ったときに貰ってきて京都韓国学校に持ってきた。
私は何気なしに見ていた。韓国チームの後輩たちを引っ張った李承選手のサインをもっと丁寧にみようと考えている。
京都国際学校は1世が韓国の言葉や歴史を在日韓国人の子どもたちに教えていこうと60年前に作られた京都韓国学校の前身である。
1990年代の後半、生徒減少に悩み廃校寸前だった。そして理事たちが立ち上がったのが野球部の創設になった。たまたま社会人野球で活躍した在日韓国人の体育教師が赴任してきた。理事の中には青春時代、野球で活躍した人もいる。その人たちの支援で野球部は立ち上がった。少年野球から生徒を引っ張るにしても一条校認可が必要だった。
長年の悲願、日本文部科学省認可の一条校になったのが2002年12月、各種学校から一条校になった。そして韓国から野球留学する生徒も増えた。
少しずつ強豪校になっていった。
最初の創設時、高校野球連盟に登録するのに人数あわせをした。野球をしたことのない生徒がほとんどだった。
1960年代から1970年代に育った子どもたちは何らかの形で遊びの中に草野球がありたいていの子どもはバットを振っていた。
それが今時の子ども、草野球もしたことのない生徒がほとんどだった。
もちろん最初はコールド負けするほど弱いチームだったが練習に練習を積み重ねて野球少年の入学にすこしずつ強いチームに育った。
今はベスト4に入り決勝戦まで行って甲子園に行くことが夢である。甲子園も夢ではなくなってきた。
仕事の中で在日韓国人生徒の高校野球を見てきたので韓国チームの勝利も嬉しい。しかし心にひっかかっている。
決勝戦は韓国と試合をして互角の試合をして韓国が優勝すればまた違う喜びになったが4位になった星野ジャパンに残念としかいいようがない。

その点、女子のソフトボールの金メダル、男性よりもっともっと練習をして勝ち取ったものであると思っている。女性は女性の体の構造が違う。
女どおしのそこにはびこるグズグスしたものが大いにあっただろう。しかしスポーツマンシップで乗り越えてこられた采配と選手たちの金メダルにかける思いに熱くなってテレビを見ていた。

いよいよ今日は夜の9時から閉会式、開会式で見た違和感、やっぱり共産国特有の機械人間だった。そして花火はあがり過ぎだったとこのブログでもかいたがあれも偽装だったということも分かった。口パクもそうだった。

1988年、ソウルで行われたソウルオリッピックを見た当時の中国の中学生が書いているのを最近新聞記事で見た。隣の国は南朝鮮でなくて大韓民国だった。そして町の中は活気にあふれ高層ビルが建ち並びソウルの町に驚き中国の人々は中国にオリンピックという悲願を立てた。それから20年がたった。
20年後に中国での五輪オリンピック、北京の町は綺麗になっていた。私が見た北京、かろうじて残っていたのが天安広場だった。この前を何度も何度もバスの車窓から見た。
1986年7月に見た北京の町が重なる。
この大通りを自転車が何台も横に並び隊列で走っていく自転車の国だった。夜になるとホテルの屋上から見える北京の町は灯りが見えず暗闇の北京の町だった。
1988年5月、初めて韓国に訪問した私は韓国の発展に驚いていた。
奈良市と姉妹締結をする慶州市の婦人たちはそれまでに何度もお会いしたが韓国の国力の発展と慶州市の婦人たちの装いが一致して納得したものだった。
日本植民地統治時代から長い月日がたつが日本植民地支配から解放されてまだわずか63年しか経っていない。日本植民地時代、日本が何をしたのかという歴史を語れる人々がまだ韓国で生存している。日本植民地時代の歴史史実をきちんと表にだしていくことで韓日交流は前に進展していく。このことを日本の政治家がよく把握しなければならない。

中国の開放政策、しかしまだまだ党員たちの国権があることを見せ付けられた開会式になった。これがいいとか悪いとか論ずる気持はない。ただ偽装することは国の威厳にかけたものだろう。しかし日本に輸出する食材偽装は手厳しく調査してもらいたいものである。
私の世代は食品に及ぼす影響は日本が発展途上国のときに見てきた。その犠牲がある中で今日の日本があるということを知っている。
厳しい制約、食材検査の中で研磨して日本の食材は確固たる世界に誇れるものができた。
そして専門家は日夜、これでも足りないと言って研究に励んでいる。
このことは韓国や中国も見習ってほしい。
韓国料理もこれでいいというものがない。まだまだ研究しなければならない。
個人の沽券だけ考えないで国のためによくなること。国に奉仕する精神で韓国の食材にも研究を重ねてもらいたい。
日本も日本の文化再発見という調査をして日本の国が古来から伝わった物を伝承してもらいたいものである。国をあげて作法を取り上げてマナーや秩序の取り組みをしないといけないだろう。
マナーのコーナーに日本語でない日本語で書き込んでくる人がいる。
こんな人たちが日本を背負っていくのかと思うと末恐ろしい。
日本語の学校教育が早急に迫っている。国際化と言え日本がまじかに迫っている問題としてとらえてもらいたい。

どこの国にも文化がある。
見つめなおす時期にきていると感じている。

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2 コメント

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いや韓国は見事だったよ (Unknown)
2008-08-24 18:45:24
インターコンチネンタルとアジア大会では韓国代表は散々だったが
見事に立て直したのには感服しました
おめでとう韓国


まあしかし
スンヨプの日本のみなさんすみませんには頭にきたね
多分スンヨプを応援することはいっしょうないでしょう

敗者にはなにもやるな
あれほどしゃくにさわる失礼な台詞はない


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Unknown (チョンヨンスン)
2008-08-25 08:08:53
韓国が勝ってよかった。しかし私が頭の中で描いていた戦いの脚本は韓国と日本の決勝戦で互角の戦いで韓国が最後に逆転勝ちするものだった。しかし韓国は戦いに向けて国を挙げてだった。兵役免除というボーナスをつけてもらった若い選手たちきっと生涯忘れることはできないでしよう。
そして韓国は8月からプロ野球球団は試合を中止してそれこそ多くの関係者が北京に乗り込んで作戦を練った。
夫は負けた日本の星野ジャパンのことも庇っていた。オリンピックの期間中、プロ野球を休めばよかったとも言っていたがそれは国によって考え方が違うのでなんともいえない。
今、私がソウルの町を歩くと韓国の人たちは韓国が野球に勝った。日本が負けた。これはキムチパワーというでしょう。今、韓国の町は町あげて盛り上がっていることでしょう。私は1つ気になることがある。帰化した在日コリアンの選手たち、韓国との戦いにどんな思いが去来していたのだろうかと------。
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