今度の日曜日はあまりパソコンの前に座らないで体を休養しなければならない。
20日現場取材があったが休養のために主催者から電話があったが断った。
健康管理をしないと体調を崩しそうだ。
韓国で「サムゲタン」を食べて風邪は治った。すごいな。あの「サムゲタン」の効果、あとチゲ鍋を食べればよかったがたまたま知人が夕方、食事に行こうとホテルに来てくれたのに私は取材先の張都子さんの店、在日韓国人出身で取材に行った。京都出身である。京都市右京区の出身で光華中・高校を卒業している。厳しい父から逃げるために韓国に留学した。デザインを勉強したかったが日本では親が許してくれず他の学問というので韓国に留学した張都子さんの店で美味しい韓定食を食べておなかがいっぱいだった。
そんなことで夕食に行こうとホテルまできてくれたのに「何も食べたくない。うどんでいい」と言った。ほんとにすげない私である。
チゲは張都子さんの店で食べた。
韓国料理を食べたのか日本に戻ってくると風邪が治っていた。すごいな。先人たちの考えた医食同源の料理、韓国料理あまり好きでない私が今度は感心している。
けれど油断をしてはいけない。今度の日曜日は休息のためにしょうとかんがえている。
今日の雲は暗雲と思ったら晴れ間がでる。
なんか女性の感情みたいに喜怒哀楽の激しい雲になった。
そういえば今思い出した。
奈良は4月の始め、馬酔木の花がたくさん咲いていた。韓国に行くと白い花を咲かせた木々がたくさんあった。
私は知人に「あの木はなんですか」と聞くと「ライラックだ」と言う。
ライラックの言葉に思わず「懐かしいなあ」と言ったが何が懐かしいとも言わないで黙って見ていた。
私の高校時代、まだ自然がいっぱいあったころだった。
そして花言葉にも感動があった。
そのころ「ライラック」の花は「初恋」とよく言われた。
文集などにもよくこの花がでていた。
人の心、また高校生の青春が澄んだ透明感のある時代だから「ライラック」の花に感動した。
今、インターネットで花言葉を検索すると紫の花は「初恋の感動」、白い花は「青春の喜び」になっている。
「ライラックの咲く頃」という小説やエッセイもよく何かの書物でみた。
そこには憧れの青春があるような気がした。
しかし知人にそんなことをいうのが面倒になって黙っていた。知人は私より5歳年上、動乱の時は小学校3年だったという。
故郷の忠清南道から釜山まで歩いて歩いて避難をしたという。あの時は辛かったと話したことがあった。みんなそんな辛い体験を乗り越えて今の韓国を作った。そして子どもの頃見た北の兵士が住民を銃殺するところを障子の穴から見ていたという記憶も話してくれた。
こんな体験は大人になっても心のどこかにあるだろうがあまりそんな時代の話を進んでしない。聞くとしてくれるだけである。
「ライラック」の花は6・25の動乱をどんなふうに見ていたのだろうか。そして分断されて統一国家をめざした初期の国家建設の混沌としていた国の姿をどんなふうに見てきたのだろうか。
知人に先日聞いた。
「昔は通行禁止令があったのでしょう。そんなときはどうしたのですか」と聞いた。「そんなときはホテルに泊まりました」と話す。
もうそれ以上聞かなかった。これまでの人生、私の分からないことがいっぱいあるだろう。私は韓国人でありながら日本で暮した。日本の法律、学校教育を受けて日本の歴史と歩んできた。しかし知人は韓国の法律そして文化、歴史の中で人生を構築してきた。明らかに違う。
通行禁止令は私の世代では理解できない。
しかし1世たちはまだ通行禁止令のあるころから何度も訪韓しているのでその社会の暮らし方を体験しているだろう。そういえば通行禁止令が出ているときに韓国に暮らしての連載をしている人たちは留学している。こんなことも聞かないといけないが-----。いつもバタバタの取材である。こんど張都子さんなあったときは聞いてみよう。
そういえば不愉快なことがあった。
ホテルのラウンジで日本人なのか。社員旅行できているのだろうか。男性たちの一行がバイキングで料理を取りながら女性たちに「ここから北に近いから北朝鮮に行ってきたら。すぐそこだ。行ってみたら」と言ったら女性の団体は「そんな話ししたくもないわ。北は不愉快や」と言っていた。それも周りに聞こえる大きい声で言っていた。大きい声でこんなこと韓国で平気に話す人は日本人である。
ほとんどの在日同胞は思想に関与しないで暮らしている。そして韓国で思想の発言するということはご法度と思っているので大声で絶対にそんな話しをしない。思想に関与しないことが在日同胞は日本で暮らしていく暮らしやすさを知っている。
私は大声で話す男性たちにちょっと不愉快な顔をしながらバイキングの料理を取った。そしたら男性たちは気がついたのだろうか。もうそれから話題を変えていた。50代から60代の人たちである。韓国に来ると旅の解放感なのだろうか。平気で大声で政治の話しをしていることに驚いた。
まだ今も「ライラック」の白い花が目に浮かぶ。寒冷地にたくさん咲く花である。日本では東北や北海道では咲いているのだろうか。
1960年代の私の青春とライラックの花が重なった韓国の旅だった。
20日現場取材があったが休養のために主催者から電話があったが断った。
健康管理をしないと体調を崩しそうだ。
韓国で「サムゲタン」を食べて風邪は治った。すごいな。あの「サムゲタン」の効果、あとチゲ鍋を食べればよかったがたまたま知人が夕方、食事に行こうとホテルに来てくれたのに私は取材先の張都子さんの店、在日韓国人出身で取材に行った。京都出身である。京都市右京区の出身で光華中・高校を卒業している。厳しい父から逃げるために韓国に留学した。デザインを勉強したかったが日本では親が許してくれず他の学問というので韓国に留学した張都子さんの店で美味しい韓定食を食べておなかがいっぱいだった。
そんなことで夕食に行こうとホテルまできてくれたのに「何も食べたくない。うどんでいい」と言った。ほんとにすげない私である。
チゲは張都子さんの店で食べた。
韓国料理を食べたのか日本に戻ってくると風邪が治っていた。すごいな。先人たちの考えた医食同源の料理、韓国料理あまり好きでない私が今度は感心している。
けれど油断をしてはいけない。今度の日曜日は休息のためにしょうとかんがえている。
今日の雲は暗雲と思ったら晴れ間がでる。
なんか女性の感情みたいに喜怒哀楽の激しい雲になった。
そういえば今思い出した。
奈良は4月の始め、馬酔木の花がたくさん咲いていた。韓国に行くと白い花を咲かせた木々がたくさんあった。
私は知人に「あの木はなんですか」と聞くと「ライラックだ」と言う。
ライラックの言葉に思わず「懐かしいなあ」と言ったが何が懐かしいとも言わないで黙って見ていた。
私の高校時代、まだ自然がいっぱいあったころだった。
そして花言葉にも感動があった。
そのころ「ライラック」の花は「初恋」とよく言われた。
文集などにもよくこの花がでていた。
人の心、また高校生の青春が澄んだ透明感のある時代だから「ライラック」の花に感動した。
今、インターネットで花言葉を検索すると紫の花は「初恋の感動」、白い花は「青春の喜び」になっている。
「ライラックの咲く頃」という小説やエッセイもよく何かの書物でみた。
そこには憧れの青春があるような気がした。
しかし知人にそんなことをいうのが面倒になって黙っていた。知人は私より5歳年上、動乱の時は小学校3年だったという。
故郷の忠清南道から釜山まで歩いて歩いて避難をしたという。あの時は辛かったと話したことがあった。みんなそんな辛い体験を乗り越えて今の韓国を作った。そして子どもの頃見た北の兵士が住民を銃殺するところを障子の穴から見ていたという記憶も話してくれた。
こんな体験は大人になっても心のどこかにあるだろうがあまりそんな時代の話を進んでしない。聞くとしてくれるだけである。
「ライラック」の花は6・25の動乱をどんなふうに見ていたのだろうか。そして分断されて統一国家をめざした初期の国家建設の混沌としていた国の姿をどんなふうに見てきたのだろうか。
知人に先日聞いた。
「昔は通行禁止令があったのでしょう。そんなときはどうしたのですか」と聞いた。「そんなときはホテルに泊まりました」と話す。
もうそれ以上聞かなかった。これまでの人生、私の分からないことがいっぱいあるだろう。私は韓国人でありながら日本で暮した。日本の法律、学校教育を受けて日本の歴史と歩んできた。しかし知人は韓国の法律そして文化、歴史の中で人生を構築してきた。明らかに違う。
通行禁止令は私の世代では理解できない。
しかし1世たちはまだ通行禁止令のあるころから何度も訪韓しているのでその社会の暮らし方を体験しているだろう。そういえば通行禁止令が出ているときに韓国に暮らしての連載をしている人たちは留学している。こんなことも聞かないといけないが-----。いつもバタバタの取材である。こんど張都子さんなあったときは聞いてみよう。
そういえば不愉快なことがあった。
ホテルのラウンジで日本人なのか。社員旅行できているのだろうか。男性たちの一行がバイキングで料理を取りながら女性たちに「ここから北に近いから北朝鮮に行ってきたら。すぐそこだ。行ってみたら」と言ったら女性の団体は「そんな話ししたくもないわ。北は不愉快や」と言っていた。それも周りに聞こえる大きい声で言っていた。大きい声でこんなこと韓国で平気に話す人は日本人である。
ほとんどの在日同胞は思想に関与しないで暮らしている。そして韓国で思想の発言するということはご法度と思っているので大声で絶対にそんな話しをしない。思想に関与しないことが在日同胞は日本で暮らしていく暮らしやすさを知っている。
私は大声で話す男性たちにちょっと不愉快な顔をしながらバイキングの料理を取った。そしたら男性たちは気がついたのだろうか。もうそれから話題を変えていた。50代から60代の人たちである。韓国に来ると旅の解放感なのだろうか。平気で大声で政治の話しをしていることに驚いた。
まだ今も「ライラック」の白い花が目に浮かぶ。寒冷地にたくさん咲く花である。日本では東北や北海道では咲いているのだろうか。
1960年代の私の青春とライラックの花が重なった韓国の旅だった。
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