鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

7月17日(日)暑いが今日は京都の祇園祭です。

2011-07-17 11:03:55 | 直言!
テレビで祇園祭を中継しています。
夫は京都市内で生まれて育っているのか毎年7月17日前後になると「祇園祭」という。今年は宵々宵々山が金曜日、宵山は昨日の土曜日、本祭は今日、日曜日で多くの人が京都に訪れているだろう。
京都市内だけでなく他府県からも大勢の人が来ているだろう。
夫は休みが多い。日曜日が17日とあって今年「祇園祭を見にいこうか」と言っていたが私は「こんなに暑いのに何しに行くの」と言ったら「テレビ中継で祇園祭を見るわ」と言っていた。
本当に祇園祭をテレビで見ている。
夫は京都で育っているので何も遊びがなかった時代、歩いて祇園祭を見に行っていたのだろう。
私は京都府の南の端に生まれて育ったので祇園祭と耳で聞くことがあっても遠い所の祭と思っていた。父親が勤務していた会社は京都市内だったので宵山ぐらいは見ていたのだろうか。20代の初めまで京都に住んでいたので父親は1度ぐらい祇園祭を見ていたのだろうか。
会社に言っているとときは家族に祇園祭の話は1度もしたことがなかった。

祇園祭の記憶は小学5年か6年の時だと思う。
夏休み前の17日だった。当時、私は体育館の掃除の担当だった。
他の学年やクラスの人と一緒にする掃除当番だった。
その時、近所に住んでいた在日同胞、もうすでに日本国籍に切り替えていた。
すでに財を成していてお金持ちだった。
そこの双子の1人と一緒に掃除当番だった。
その子が私の前にやってきて「私、今日はお父さんと一緒に京都に祇園祭を見にいく」という。
私は言葉少ない子どもだったのでそれに会話を交わしたのか記憶がない。
たぶん何も話さないで黙って聞いていたと思っている。
しかし私に話しにきたことはしっかりと記憶している。
彼女は日本国籍をとっても私にはいつも話しかけていた。
会話のできない子どもだったに話しかけていた。
私が中学に行くとやっと挨拶ぐらいはできるようになった。
それで双子の子どもは私に会うと「おはよう」「こんにちは」と挨拶をすると私も挨拶をした。双子の1人は京都の私立高校に行き1人は地元の高校、私と同じ府立高校に通った。登下校や学校でもあったので挨拶はよく交わした。
1年下だったのでよくあった。私に挨拶をしてくれていたのは自分の出自をきちんと把握していたのだろう。日本国籍に切り替えても把握しておられた。
1人は大阪の同胞、1人は京都の同胞に嫁いだ。京都に嫁いだ子は私の叔父夫婦の近くに住んでいて叔父夫婦はよく知っていた。どちらも日本国籍に切り替えた同胞と結婚したと聞いている。
私が結婚して木津を出てから1度もお会いしていない。
京都に嫁いだ子は今日の祇園祭にどんな思いを感じているのだろうか。
小学生の時に父親に連れられて見た祇園祭を思い出しているだろうか。
この後、4・5年後に父親は亡くなった。木津の町に訃報が走った。
祖国が南北分断国家になって木津町で1番先に日本国籍切り替えた人が双子のいる子どもの家だった。

時代は1950年前に遡る。
1945年8月15日、韓半島(朝鮮半島)は日本植民地支配から解放された。
祖国は米ソの話し合いで軍事境界線38度戦のところ、北と南に分かれて南北分断国家になった。分断国家はすぐに統一すると思っていたと父親たちは思った。
やがて祖国が戦争になり休戦になった。南北分断国家ができた。
父親の話を回顧してここに書いておきます。
父親が私に話してくれたことです。
―南北分断国家になって木津の在日朝鮮人(当時は日韓国交正常化していないので在日朝鮮人といっていました)は、事業で成功していた前記に記述した双子のいる家に集った。当時、すでに在日同胞の中で韓国を支持する在日本大韓民国民団と北朝鮮を支持する在日本朝鮮総連合会の2つの組織ができた。
同胞たちは熾烈な戦いをした。木津の朝鮮人も民団にするか、総連にするかと悩んだ。それで集って話し合いをした。決まったことは木津の朝鮮人は一緒の組織に入って活動をしようと決まってその夜、皆と分かれた。そして翌日の朝になる1人の同胞が家の前に民団分団の看板が掛けた。話し合いをしたのに裏切られた気持ちになった。そして双子のいる子どもの家はこれを境にして日本国籍に切り替える準備をした。父親もたぶん日本国籍にしたかったと思っているが本家直系の長男、まだ祖父が生きていたのでそれはできなかった。そして父親はこのとき民団も総連も関係なく、生きていくと決めて木津の同胞が集るところで『私は日本社会で生きていきます』と宣言して民族活動から一切の身を引いた。そして日本の会社に勤務する就職活動をした―
私は就職活動している父親の姿は覚えている。そして母親はリヤカーを引いて食べるために廃品回収業をするようになった。無学な母親はリヤカー1台の商いを私の弟に後を継がせるほどの事業にした。
技術者だった父親は国籍差別でなかなか就職が決まらなかったが母親が商いでまわっていたある地域の人の世話で縁故就職ができた。
華やかな工場長も体験し部下も何人かいた。しかし1960年の終り、労働争議に巻きこまれて退職したがすぐにまた違う会社に勤務。定年退職までつとめた。父親が長い間、日本の会社に勤務して厚生年金をかけていたので晩年は厚生年金受給でゆったりと暮らしていた。父親が他界して母親が遺族年金受給者になって初めて会社勤務をした父親に感謝していた。
1世たちが走りぬけた人生は様々である。

日本の会社に勤務していたが韓国籍に切り替えないでほど頑固に朝鮮籍にしていた。父親は「日本政府が外国とみなす機構を作って朝鮮人にしてしまった。日本人にしておいてまた排除して朝鮮人にした。俺は死ぬまで日本政府のすることを見てやる」と言って頑固に韓国籍にしなかった。
父親が他界してから弟は韓国籍に切り替えた。
日本社会で生きた父親は日本国籍に切り替えることは絶対に反対だった。
私はある日、父親に「息子の就職のために帰化する」と言ったら娘に声を荒げて怒ることはなかったのにこのときは声を大きくして言った。
「帰化してこの日本で生きていけると思っているのか。お前はそんな根性なしだったのか。子どももそんな根性なしに育てのか」と言った。この言葉を聞いて私は目からウロコ。帰化しても所詮、法律上の日本人、出自の血は変えることができないと悟った。
それから周りが帰化していく同胞をみていて日本人になれないのに必死で隠そうとしている人を見ると滑稽でしょうがない。私はここで心のかたわを背負った在日同胞がこの日本社会に多くいることに気づき始めた。帰化してもありのままに生きている同胞もいる。それでいいのではないか。外国籍は日本社会では住みにくい。帰化もいたしかたがないがありのままに生きることが大事であると思っている。
私はこの頃「心のかたわ」という言葉を使うようになったがこれは差別用語になるかもしれない。「心の奇形」とも言っておきましょうか。

祇園祭の話からここまで発展してしまった。
夫は車の点検で今、出かけたところです。
「そにしても暑い」と言いながら出かけた。
暑い。真夏の太陽が頭上を照らしている。
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