鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

大文字送り火をこんなに最初から終わりまで見たのは初めてだろう。

2007-08-15 22:35:22 | 直言!
見たことがあっても終わりごろだった。
今日は京都から早く帰ることができたので4時過ぎには奈良の自宅にいた。
おもわず夫に「今日は大文字送り火が見られる」と私は言っていた。
ラジオを聞きながらパソコンの前で座っていた。
そしてベランダのカーテンをあけたままにしていた。時計を見ると午後7時59分、タイミングがよかった。
しばらく高円山を椅子に腰掛けてじっと見ていた。
下から赤い炎の火が見え出した。燃え出した。
そして何分も立たないうちに「大」の文字になった。
床につきながら阪神対中日戦を聞いていた夫も起きて大文字の送り火を見た。
そして私がデジカメで写真を撮っていると前の駐車場から子どもたちの声が聞こえる。
「真っ赤に燃えている」
子どもたちも高円山に浮かびあがる大文字に歓声を上げていた。
カーテンをあけてパソコンをしながらチラチラと見た。おおかた40分ほど燃えていた。最初文字は太い。時間が立つにつれて細くなっていく。そしてまた高円山はもとの暗闇につつまれた。
奈良春日の森、原森林が多いという。1200年前、ここに渡来文化があったところ、いにしえの都に第2次世界第戦で犠牲になった戦没者の送り火の行事ある。
-*-*-*-*-*-*-*-/-/*-*-*-*-*-*-*-*/*/*/*/*/*/*/*/*/*/*/*/---
かつて奈良で雑誌記者をしていたころを思い出した。
著書は奈良新聞社の報道カメラマンのOさんも入っている。Oさんは後輩に報道カメラマンを託してその後は資料室で毎日の写真を整理して保存しておられた。その保存しておられる写真をよく資料室に借りに行ったものだった。
雑誌編集局に写真がないと行事などの写真はたいてい資料室に保存してあったのでよく借りにいった。
そんなこと著書を見ながら思い出していた。もう1人のOさんもよく知る人だった。この人も奈良で活躍するカメラマンだった。
奈良市の文化協会にも顔を出されていてよくお会いしたものだった。
このOさんのことは分からないが奈良新聞におられたOさんはもう他界されて何年もなる。
奈良県で活躍していた報道カメラマン、おおかた故入江泰吉さんを師と仰ぎ奈良県内を在るいて写真におさめていた。
私も故入江泰吉さんの自宅にお邪魔したこともあったがベテランのカメラマンが師と仰ぐその姿に恐れ多くてもう2度と会わないでおこうと思った。
そして奈良県内の写真を日本全国に知らしめた入江泰吉さん。高齢になってくると報道カメラマンたちはその写真の保存にどうするのか考えた。
当時の市長もカメラが好きだった。
多くの人の声で奈良市内に入江泰吉さんの写真を保存すめための記念写真館ができた。この写真館に力を注いでいた奈良新聞のOさんを先輩として慕っていたMさんもあの世にいってしまった。当時の市長もこの世にいない。
写真好きな仲間はあの世でも写真談義をしているだろう。

大文字の送り火を見ながら私の若かった38歳から42歳までの雑誌記者時代のことをまた思い出していた。そして参考にした著書の裏には私の通名が表記してある。これも懐かしいものになった。この著書は大事な参考資料だった。
大和の行事のページも担当していたのでこの著書はよく参考資料にした。
ページとページの間から当時の思い出がこぼれ落ちてくる。
あれから長い月日が流れたものだ。
若くて燃えていた。今、私の息子が私が雑誌記者をしていた年齢になった。私は専業主婦から雑誌記者になった。
若かったなあ。
まだまだときめきの心もあった。
未来に向かっていた。
未来に向かってきたが今未来に向かってきた場所がこの場所である。
可能性に向かってきた。
やる気の意欲がいっぱいあった。
今は静かに平凡に過ごしている。
人生何も無駄なものがなかったと思う。与えられたところで一生懸命に生きてきた私が平凡な人生の中に身を置いている。
ありがたいことである。
健康であることが大切である。

------それなのに、この間、足を挫いて捻挫になった--------
これはちょっと心に隙間がはいったのかな-------

心して健康に気をつけて生かされていることに感謝しなければならない。
それがなかなかできない凡人の私である。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今日も暑かったな。 | トップ | 足の痛みは大分とれて歩ける... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

直言!」カテゴリの最新記事