3日は昼間、夜と仕事が入っている。
曽爾高原は奈良県宇陀郡にある。三重県よりに近い奈良県境にある。
宇陀市との合併に反対して宇陀郡のままに残った。
曽爾高原はこのほうがいいかもしれない。
名張から曽爾高原の近辺に故郷を持っている奈良市内の婦人が言っていた。タクシー代片道5000円だという。バスの本数が少ないからタクシーに乗るという。まあこの方、裕福だからそれもできるが片道5000円のタクシー代には驚く。
そんな奈良県の田舎の景色、晩秋のすすきの景色が有名である。
私はまだ見たことがないが写真では毎年見ていた。
私が奈良県で雑誌記者と編者者をしていたころ表紙をめくってすぐのページは「巻頭絵」でその次がたいてい季節のグラビア写真だった。町で写真家という人たちの寄贈写真で編集していた。
私の時は高齢の男性から寄贈してもらっていた。そこの写真をページに入れるためのレイアウトして7・8センチの空白の欄にその写真を見て詩をつけた。
要するに編集者言葉で「絵解き」という。白黒写真だったが専門家の写真は迫力があった。
これも楽しかった。しかし今となると何を書いたのかすべて忘れてしまった。
写真は覚えている。
銀杏の葉が敷き詰められた奈良公園、佐紀町にあった水上池の蓮、長谷寺のボタンや長谷寺の構図、石光寺の石楠花、般若寺のコスモス、飛鳥の蓮華草などが思い出させる。
けれど1番印象に残っているのは曽爾高原の晩秋のすすきだった。
草原いっぱいに白く銀色に光ったすすきの草原が画面いっぱいに撮られていた。
曽爾高原、今は少しバスが走っているものの交通アクセスでは便利の悪いところである。その交通不便なところカメラや三脚を担いで撮影をしに行ったという。
取材でもなかなか入りにくいところである。
毎年、曽爾高原のすすきの写真を持ってこられた。
当時、私はまだ30代の後半から40代の初めでまだまだ新陳代謝が激しかった。少しのことでも感動しているころだった。
毎年そのときそのときの感じたことを絵解きしていたがどんなものをつくったのかすっかりと忘れてしまった。
今回は夏の曽爾高原ですすきの景色、夏はどんな光景を見せているのだろうか。
まだ影も形もなく緑の草原なのだろうか。
かれこれ20年と少し前のことなのに曽爾高原と言えばすすきの写真に絵解きをしていた自分を思い出してしまう。
若かった。エネリギッシュだった。
今はエネルーがなくなって平穏に日々を送る私は年をとってしまった。
行く月日の早いこと。
私が雑誌記者をしていたころすでに高齢だったが今はもうどうしておられるのだろうか。
雑誌記者をやめてからあったこともなくこれまできた。
あまりにも忙しく過ごしてきたので雑誌記者時代のことも薄れていったが年を重ねて日々の時間にふと考えることができたときに雑誌記者時代のことを思い出している。
これから外出の支度をして南港の集合場所に行かなければならない。
南港は生駒で乗り換えて中央線でトレードセンターに出るのが早い。
夏の曽爾高原行きである。
晩秋のすすきの曽爾高原にはほど遠いが絵解きをしていたころを思い出すだろう。こうしてみるとやはり人生はコツコツと積み重ねである。
エレベーターのように来ない。私の人生は階段を1段1段上る人生だった。時には2段も3段も下っていることもあった。そしてまた階段を上るという人生だった。つい未だに若い人に人生は積み重ねと言ってしまう。言いながらこんな古い言葉は通用しないのかと思うときもあるが人間生きていくことはやはりエレベーターやエスカレーターのようにはこない。
積み重ねてこそ体験が生きてくる。
そう思うと安倍首相の政権のリーダーは早かった。
安倍さんに託した自民党の先輩達にも責任がある。
自民党の組織の脆弱さをもろに見せ付けられた。
そして人材育成をしてこなかった組織の勝手きまま、わが道を行く人たちばかりだったことも見せ付けられた。その第筆頭が小泉さんだったのかと思っている。
こんなことも考えてしまった。
夏の曽爾高原、写真に撮れたら撮ってこよう。
曽爾高原は奈良県宇陀郡にある。三重県よりに近い奈良県境にある。
宇陀市との合併に反対して宇陀郡のままに残った。
曽爾高原はこのほうがいいかもしれない。
名張から曽爾高原の近辺に故郷を持っている奈良市内の婦人が言っていた。タクシー代片道5000円だという。バスの本数が少ないからタクシーに乗るという。まあこの方、裕福だからそれもできるが片道5000円のタクシー代には驚く。
そんな奈良県の田舎の景色、晩秋のすすきの景色が有名である。
私はまだ見たことがないが写真では毎年見ていた。
私が奈良県で雑誌記者と編者者をしていたころ表紙をめくってすぐのページは「巻頭絵」でその次がたいてい季節のグラビア写真だった。町で写真家という人たちの寄贈写真で編集していた。
私の時は高齢の男性から寄贈してもらっていた。そこの写真をページに入れるためのレイアウトして7・8センチの空白の欄にその写真を見て詩をつけた。
要するに編集者言葉で「絵解き」という。白黒写真だったが専門家の写真は迫力があった。
これも楽しかった。しかし今となると何を書いたのかすべて忘れてしまった。
写真は覚えている。
銀杏の葉が敷き詰められた奈良公園、佐紀町にあった水上池の蓮、長谷寺のボタンや長谷寺の構図、石光寺の石楠花、般若寺のコスモス、飛鳥の蓮華草などが思い出させる。
けれど1番印象に残っているのは曽爾高原の晩秋のすすきだった。
草原いっぱいに白く銀色に光ったすすきの草原が画面いっぱいに撮られていた。
曽爾高原、今は少しバスが走っているものの交通アクセスでは便利の悪いところである。その交通不便なところカメラや三脚を担いで撮影をしに行ったという。
取材でもなかなか入りにくいところである。
毎年、曽爾高原のすすきの写真を持ってこられた。
当時、私はまだ30代の後半から40代の初めでまだまだ新陳代謝が激しかった。少しのことでも感動しているころだった。
毎年そのときそのときの感じたことを絵解きしていたがどんなものをつくったのかすっかりと忘れてしまった。
今回は夏の曽爾高原ですすきの景色、夏はどんな光景を見せているのだろうか。
まだ影も形もなく緑の草原なのだろうか。
かれこれ20年と少し前のことなのに曽爾高原と言えばすすきの写真に絵解きをしていた自分を思い出してしまう。
若かった。エネリギッシュだった。
今はエネルーがなくなって平穏に日々を送る私は年をとってしまった。
行く月日の早いこと。
私が雑誌記者をしていたころすでに高齢だったが今はもうどうしておられるのだろうか。
雑誌記者をやめてからあったこともなくこれまできた。
あまりにも忙しく過ごしてきたので雑誌記者時代のことも薄れていったが年を重ねて日々の時間にふと考えることができたときに雑誌記者時代のことを思い出している。
これから外出の支度をして南港の集合場所に行かなければならない。
南港は生駒で乗り換えて中央線でトレードセンターに出るのが早い。
夏の曽爾高原行きである。
晩秋のすすきの曽爾高原にはほど遠いが絵解きをしていたころを思い出すだろう。こうしてみるとやはり人生はコツコツと積み重ねである。
エレベーターのように来ない。私の人生は階段を1段1段上る人生だった。時には2段も3段も下っていることもあった。そしてまた階段を上るという人生だった。つい未だに若い人に人生は積み重ねと言ってしまう。言いながらこんな古い言葉は通用しないのかと思うときもあるが人間生きていくことはやはりエレベーターやエスカレーターのようにはこない。
積み重ねてこそ体験が生きてくる。
そう思うと安倍首相の政権のリーダーは早かった。
安倍さんに託した自民党の先輩達にも責任がある。
自民党の組織の脆弱さをもろに見せ付けられた。
そして人材育成をしてこなかった組織の勝手きまま、わが道を行く人たちばかりだったことも見せ付けられた。その第筆頭が小泉さんだったのかと思っている。
こんなことも考えてしまった。
夏の曽爾高原、写真に撮れたら撮ってこよう。
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