早いです。もう2009年が7ヶ月も過ぎた。早いです。
暑い日が続くと早く涼しくなって欲しいと思い。やがて夜になると虫の声が聞こえてくるといよいよ秋がきていると実感する。
そうなるともう冬支度をしないといけない。
昨日は何かしら1日、雑用していた。写真の送る縮小作業して送信して取材活動費用の整理していると時間がどんどんすんでいく。
久しぶりに電話を頂いた人、ペングループの仲間からだった。
よくしてもらった。私より年輩なのに考え方も若い。だからというのか声も若い。私よりずっとお姉さんなのに私はついため口をつかうほどお姉さんぶってもいないので話をしていて私よりお姉さんなのにと心の中で反省している。
このペングループも来年は30周年となる。
これも会員の地道な努力もあったがなにより奈良新聞社のデスクたちや関係者たちのご協力があったからこそ続けてこられた。
会社の傘はぜったいに大きい。組織のバックは頼りになり大きかった。
これで昔、侃々諤々の意見交換をしたことがあった。
私はまだ当時は35歳をすぎたころだった。まだまだ深い考えなど思い浮かばなかったが直感だった。会員の中で自分たちが作る女性の会合にこのペングループを取り込む算段があった。自主グループを主張した。しかし私はそんなことになったらこの会合は潰れてしまう。女の争いの中で潰れてしまうという直感があった。
絶対にクッションという組織が必要だった。
そのためには奈良新聞の傘が絶対に必要だった。
創刊号発刊に侃々諤々だった。たとえ、うすぺらいページ建てでも創刊号出すべきと私は強い主張した。そうでないとこのちっぽけなペングループの意味がないと思った。本を出さなかったら結果がない。
ただの井戸端会議のおばちゃんの集まりとしかみてもらえないと私のこれも直感だった。奈良新聞の社名入りの冊子に意見が分かれた。
私は絶対に入れるということを譲らなかった。
そのとき今は宮城県仙台市で暮らしているOさんが言葉を発した。奈良新聞で校閲の裏方をしていたが組織の仕組みというものをよく知っておられた。
「やはり奈良新聞の紙面で投稿している人が集っているのだから奈良新聞の社名を表紙に入れるべきです」と言ってくれた。
これで侃々諤々として騒がしい声が1度に静かになった。
そして反対していた人たちが折れた。
私は自分の意見が通ったことよりもこの会合が長続きするとことでほっとしたものだった。そのある会合はとうにつぶれてなくなっている。そこで活躍していた人たちはそれぞれの得意分野を見つけて各々の場所で活躍すると会員も減少してやがて消滅していく。私は深い理屈的なことはわからなかったが直感だった。
最近、ここに社名をだして書くようになったのは私なりの意味がある。
私はこの会合にある人の暴言や発言に顔を出さなくなってかれこれ20年近くになってきた。話が1人の自慢話で伝えられていることがコラムに載っていたのでこれはいけない。創設した時の当時の歴史、そして冊子発刊にも壮絶な闘いがあったことを書かなければならないと思った。皆燃えていたからこのペングループは創設できた。燃えていた女性記者の発案でできた。まだまだ当時、女性たちは社会の隅っこに追いやられていた。それを熱く燃えた女性の集まりのきっかけになった。1980年代の初め、地に足をつけて歩こうという女性の声が高鳴っていた時代だった。
冊子発刊、創刊号に対して相当な反対にあった。私なりの直感、創刊号を出さないと奈良新聞の傘にいた投稿欄、奈良新聞に見限られてしまう。ただの女のおしゃべりの集まりとして軽く見られてしまう。ただそれが直感だった。
やっと創刊号発行の意見が通り今度はお金がないので印刷屋との交渉だった。
反対した人のなかの1人は「ほんだらあんた、探してきい」と言われた。
活動することに嬉々としていたので私が探すことにした。
若いとき、印刷会社でタイプを打っていたことが1年あった。毎日のタイプ打ちに腱鞘炎になってやめたがそこの会社社長を訪ねた。
そこの印刷会社、行政機関の仕事が入ってとても忙しいという理由で下請けをしてもらっていた印刷会社を紹介して下さった。大和郡山市にあった会社を訪ねて折衝した。お金のない工面は年会費を集めていくのでなんとかできるという話をだして無理やり仕事をしてもらった。
そして奈良新聞の会合に来てもらって本のことを話す時はそんなお金の心配を顔に出さずに快く話を聞いて下さった。
そして冊子印刷のために会員は知り合いに頼んで広告を取ってきた。
これで何とか印刷費を工面できて2号、3号と出し続けて奈良新聞に出版部ができてこちらで印刷をお願いできるようになった。
私がしたということは照れくさいがもう1つ、私が発案したものがある。
本の編集は大変である。私は専業主婦時代のことで素人ながら編集委員長をしていた。この編集は大変だったが好きなことなのでできた。しかし中には編集が好きでない人もいたかもしれない。そんな人のことも考えて冊子発刊後の会員の慰労会を発案した。そしたらまたここで侃々諤々と反対の声がでてくる。
ある人が「お金もかかる。そんな高い所ででけへん」とのたまう。
当時の年会費は3000円、この出資だけでもいろいろあったがこれは会員の強い声でやりとおした。
当時の飲み会の会費5000円が最低。中にはなんとか3000円にしていたところもあった。8000円から1万円が普通だった。
そんな無駄なお金が出せないという。そしてまたある人が「1500円でしてくれるところを探してきて」という。また私は活動に嬉々としていたので奈良市内の町を歩き回って1500円でしてもらうところを探した。
今はその店はなくなっている。
近鉄奈良駅近くにあった「ちづる」という寿司屋さん。経営者は貸しビル業もしておられたので寿司屋さんだけでの経営ではなかったと後から気がついた。
社長は「やりましょう。1500円でしましょう」と言って下さった。
もう私は天にも舞い上がる気持だった。
長いことここで慰労会をさせてもらった。
私は転職したことといろんなことがあって心に傷をついていたのでこの慰労会にも参加しなくなった。
そしてある日、違う店に変わったところでの慰労会の案内が来ていた。
そして会費はたしか5000円になっていた。
あれほど反対して暴言を吐いた人もこの人には反対しなかったのかとますます心がすさんだものだった。
それから行く年も年月を重ねた。
雑誌記者の就職も奈良新聞の上司の誘いで就職している。韓国籍を知っての採用である。専業主婦から記者になったのでいつかやめるだろうとそれを見ていた人たちが何人かはいた。しかし編集局の上司たちが私を育成して下さった。
4年あたりになると私は奈良県でそれなりの知名度が上っていた。
そしたら今度はまた侃々諤々にやりあった中の1人が編集局の上司に電話をしている。
「あの人韓国人ですよ」と。上司は「それがどうした。何か問題があるのか」と。それからペングループに参加することをずっと反対されていた。1度はポケットベルで呼び戻されたこともあった。
そして私は日本人のふりをして日本語の記事を書きたくない葛藤に悩まされて民団奈良県本部に韓国語を習いに行った。またそこの韓国政府派遣教師を訪ねて行く人がいた。昼間、昼ごはんを一緒にしたりコーヒー飲んだりするときに訪ねてきた人の名前を私に言った。
「○○さん知っていますか」と。私は「はい。知っています」と言っていた。こんな会話のやり取りの後、「韓国人差別がありますね」と私に聞いた。
私は日本語がまだ不十分だったこの韓国政府教師に言ってもわからないと考えて「ない」と応えていた。
しかしこの韓国政府派遣教師はみんな知っていた。お見通しだった。
そして私を在日韓国人の新聞社に転職させた。この先生のおかげで今日の私がある。「○○さん知っていますか」と私に聞いた人の名前、近年気がついた。こいうことだったのかと分かるようになった。韓国政府派遣教師は公的な立場でけっして人の悪口を言わない人だった。しかし人の話しは全部聞いておられたのだろう。
このまま日本国籍を取って記者をしていても奈良県のこの口うるさい婦人たちでつぶされてしまうと思ったと考えている。
在日韓国人の新聞社に転職して猛烈に働いた。何度も古巣にもどりたい衝動にかられるほど辛い時もあった。しかし辛抱させたのは日本人のふりをして日本の記事を書きたくないという気持ちが根底にあったこととそれともう1つ。さんざんいろんなことがあった、こうるさい日本婦人の間で仕事をすることがもっと苦痛だった。
転職してまた在日コリアンの社会もいろんなことがあった。
もちろん、こうるさい婦人たちにも大勢いた。金持ちを権力の傘にきている人には何度かのうるさいことに私の堪忍袋が切れてそこで抗議したことがあった。許せない人もいた。世の中の通りから外れて発言する人が大嫌いだった。
日本社会で見る肩書きと金持ちを傘にして権力を行使する人も見てきた。
しかしこの中で辛抱できたのは一般で普通に地道に活動する人たちの笑顔だった。日本の新聞では取りあげられても小さいベタ記事、しかし私の民族機関や在日韓国人の新聞社の記事では数倍にも大きくなってトップ記事にもなった。
そんな時に「載せてもらってありがとうございます。大きい記事にしてもらってありがとうございます」という言葉と笑顔に、同胞たちを1人でもインタビューして記事にしていくことが使命感と思うようになり今も現役で関西を回っている。そして在日韓国人2世でなくて3世たちに近年、ふれあうことになって3世たちの新しい感性、日本人には絶対に出せない新しい感覚、発想に触れてきっと彼らたちが何かを担ってくれると確信している。
日本社会ではなくてはならない存在になると確証している。
そんな新世代までこうして取材できて記事になっていくことに私の近年の1つの一瞬の喜びにつながっている。
若い時代のことは忘れようと思うがまだ心のどこかにひっかかっている。
ペングループの中に入ってこんなことを話す機会はないが冊子の創刊号の発刊と冊子に書かれた奈良新聞社のロゴ、そして慰労会の苦労話を少し披露しました。ペングループで見えない歴史を語った。誰がどうのとは言いたくない。私自身の自慢話を披露するような年齢でもない。ただ間違ったことが一方的に語られていたとしたら私がそのとき生きた時代が抹消されているようで体が凍ってしまう。
ふと書き留めました。
もう10時22分、原稿作成しないといけない。
これから作ろう。
暑い日が続くと早く涼しくなって欲しいと思い。やがて夜になると虫の声が聞こえてくるといよいよ秋がきていると実感する。
そうなるともう冬支度をしないといけない。
昨日は何かしら1日、雑用していた。写真の送る縮小作業して送信して取材活動費用の整理していると時間がどんどんすんでいく。
久しぶりに電話を頂いた人、ペングループの仲間からだった。
よくしてもらった。私より年輩なのに考え方も若い。だからというのか声も若い。私よりずっとお姉さんなのに私はついため口をつかうほどお姉さんぶってもいないので話をしていて私よりお姉さんなのにと心の中で反省している。
このペングループも来年は30周年となる。
これも会員の地道な努力もあったがなにより奈良新聞社のデスクたちや関係者たちのご協力があったからこそ続けてこられた。
会社の傘はぜったいに大きい。組織のバックは頼りになり大きかった。
これで昔、侃々諤々の意見交換をしたことがあった。
私はまだ当時は35歳をすぎたころだった。まだまだ深い考えなど思い浮かばなかったが直感だった。会員の中で自分たちが作る女性の会合にこのペングループを取り込む算段があった。自主グループを主張した。しかし私はそんなことになったらこの会合は潰れてしまう。女の争いの中で潰れてしまうという直感があった。
絶対にクッションという組織が必要だった。
そのためには奈良新聞の傘が絶対に必要だった。
創刊号発刊に侃々諤々だった。たとえ、うすぺらいページ建てでも創刊号出すべきと私は強い主張した。そうでないとこのちっぽけなペングループの意味がないと思った。本を出さなかったら結果がない。
ただの井戸端会議のおばちゃんの集まりとしかみてもらえないと私のこれも直感だった。奈良新聞の社名入りの冊子に意見が分かれた。
私は絶対に入れるということを譲らなかった。
そのとき今は宮城県仙台市で暮らしているOさんが言葉を発した。奈良新聞で校閲の裏方をしていたが組織の仕組みというものをよく知っておられた。
「やはり奈良新聞の紙面で投稿している人が集っているのだから奈良新聞の社名を表紙に入れるべきです」と言ってくれた。
これで侃々諤々として騒がしい声が1度に静かになった。
そして反対していた人たちが折れた。
私は自分の意見が通ったことよりもこの会合が長続きするとことでほっとしたものだった。そのある会合はとうにつぶれてなくなっている。そこで活躍していた人たちはそれぞれの得意分野を見つけて各々の場所で活躍すると会員も減少してやがて消滅していく。私は深い理屈的なことはわからなかったが直感だった。
最近、ここに社名をだして書くようになったのは私なりの意味がある。
私はこの会合にある人の暴言や発言に顔を出さなくなってかれこれ20年近くになってきた。話が1人の自慢話で伝えられていることがコラムに載っていたのでこれはいけない。創設した時の当時の歴史、そして冊子発刊にも壮絶な闘いがあったことを書かなければならないと思った。皆燃えていたからこのペングループは創設できた。燃えていた女性記者の発案でできた。まだまだ当時、女性たちは社会の隅っこに追いやられていた。それを熱く燃えた女性の集まりのきっかけになった。1980年代の初め、地に足をつけて歩こうという女性の声が高鳴っていた時代だった。
冊子発刊、創刊号に対して相当な反対にあった。私なりの直感、創刊号を出さないと奈良新聞の傘にいた投稿欄、奈良新聞に見限られてしまう。ただの女のおしゃべりの集まりとして軽く見られてしまう。ただそれが直感だった。
やっと創刊号発行の意見が通り今度はお金がないので印刷屋との交渉だった。
反対した人のなかの1人は「ほんだらあんた、探してきい」と言われた。
活動することに嬉々としていたので私が探すことにした。
若いとき、印刷会社でタイプを打っていたことが1年あった。毎日のタイプ打ちに腱鞘炎になってやめたがそこの会社社長を訪ねた。
そこの印刷会社、行政機関の仕事が入ってとても忙しいという理由で下請けをしてもらっていた印刷会社を紹介して下さった。大和郡山市にあった会社を訪ねて折衝した。お金のない工面は年会費を集めていくのでなんとかできるという話をだして無理やり仕事をしてもらった。
そして奈良新聞の会合に来てもらって本のことを話す時はそんなお金の心配を顔に出さずに快く話を聞いて下さった。
そして冊子印刷のために会員は知り合いに頼んで広告を取ってきた。
これで何とか印刷費を工面できて2号、3号と出し続けて奈良新聞に出版部ができてこちらで印刷をお願いできるようになった。
私がしたということは照れくさいがもう1つ、私が発案したものがある。
本の編集は大変である。私は専業主婦時代のことで素人ながら編集委員長をしていた。この編集は大変だったが好きなことなのでできた。しかし中には編集が好きでない人もいたかもしれない。そんな人のことも考えて冊子発刊後の会員の慰労会を発案した。そしたらまたここで侃々諤々と反対の声がでてくる。
ある人が「お金もかかる。そんな高い所ででけへん」とのたまう。
当時の年会費は3000円、この出資だけでもいろいろあったがこれは会員の強い声でやりとおした。
当時の飲み会の会費5000円が最低。中にはなんとか3000円にしていたところもあった。8000円から1万円が普通だった。
そんな無駄なお金が出せないという。そしてまたある人が「1500円でしてくれるところを探してきて」という。また私は活動に嬉々としていたので奈良市内の町を歩き回って1500円でしてもらうところを探した。
今はその店はなくなっている。
近鉄奈良駅近くにあった「ちづる」という寿司屋さん。経営者は貸しビル業もしておられたので寿司屋さんだけでの経営ではなかったと後から気がついた。
社長は「やりましょう。1500円でしましょう」と言って下さった。
もう私は天にも舞い上がる気持だった。
長いことここで慰労会をさせてもらった。
私は転職したことといろんなことがあって心に傷をついていたのでこの慰労会にも参加しなくなった。
そしてある日、違う店に変わったところでの慰労会の案内が来ていた。
そして会費はたしか5000円になっていた。
あれほど反対して暴言を吐いた人もこの人には反対しなかったのかとますます心がすさんだものだった。
それから行く年も年月を重ねた。
雑誌記者の就職も奈良新聞の上司の誘いで就職している。韓国籍を知っての採用である。専業主婦から記者になったのでいつかやめるだろうとそれを見ていた人たちが何人かはいた。しかし編集局の上司たちが私を育成して下さった。
4年あたりになると私は奈良県でそれなりの知名度が上っていた。
そしたら今度はまた侃々諤々にやりあった中の1人が編集局の上司に電話をしている。
「あの人韓国人ですよ」と。上司は「それがどうした。何か問題があるのか」と。それからペングループに参加することをずっと反対されていた。1度はポケットベルで呼び戻されたこともあった。
そして私は日本人のふりをして日本語の記事を書きたくない葛藤に悩まされて民団奈良県本部に韓国語を習いに行った。またそこの韓国政府派遣教師を訪ねて行く人がいた。昼間、昼ごはんを一緒にしたりコーヒー飲んだりするときに訪ねてきた人の名前を私に言った。
「○○さん知っていますか」と。私は「はい。知っています」と言っていた。こんな会話のやり取りの後、「韓国人差別がありますね」と私に聞いた。
私は日本語がまだ不十分だったこの韓国政府教師に言ってもわからないと考えて「ない」と応えていた。
しかしこの韓国政府派遣教師はみんな知っていた。お見通しだった。
そして私を在日韓国人の新聞社に転職させた。この先生のおかげで今日の私がある。「○○さん知っていますか」と私に聞いた人の名前、近年気がついた。こいうことだったのかと分かるようになった。韓国政府派遣教師は公的な立場でけっして人の悪口を言わない人だった。しかし人の話しは全部聞いておられたのだろう。
このまま日本国籍を取って記者をしていても奈良県のこの口うるさい婦人たちでつぶされてしまうと思ったと考えている。
在日韓国人の新聞社に転職して猛烈に働いた。何度も古巣にもどりたい衝動にかられるほど辛い時もあった。しかし辛抱させたのは日本人のふりをして日本の記事を書きたくないという気持ちが根底にあったこととそれともう1つ。さんざんいろんなことがあった、こうるさい日本婦人の間で仕事をすることがもっと苦痛だった。
転職してまた在日コリアンの社会もいろんなことがあった。
もちろん、こうるさい婦人たちにも大勢いた。金持ちを権力の傘にきている人には何度かのうるさいことに私の堪忍袋が切れてそこで抗議したことがあった。許せない人もいた。世の中の通りから外れて発言する人が大嫌いだった。
日本社会で見る肩書きと金持ちを傘にして権力を行使する人も見てきた。
しかしこの中で辛抱できたのは一般で普通に地道に活動する人たちの笑顔だった。日本の新聞では取りあげられても小さいベタ記事、しかし私の民族機関や在日韓国人の新聞社の記事では数倍にも大きくなってトップ記事にもなった。
そんな時に「載せてもらってありがとうございます。大きい記事にしてもらってありがとうございます」という言葉と笑顔に、同胞たちを1人でもインタビューして記事にしていくことが使命感と思うようになり今も現役で関西を回っている。そして在日韓国人2世でなくて3世たちに近年、ふれあうことになって3世たちの新しい感性、日本人には絶対に出せない新しい感覚、発想に触れてきっと彼らたちが何かを担ってくれると確信している。
日本社会ではなくてはならない存在になると確証している。
そんな新世代までこうして取材できて記事になっていくことに私の近年の1つの一瞬の喜びにつながっている。
若い時代のことは忘れようと思うがまだ心のどこかにひっかかっている。
ペングループの中に入ってこんなことを話す機会はないが冊子の創刊号の発刊と冊子に書かれた奈良新聞社のロゴ、そして慰労会の苦労話を少し披露しました。ペングループで見えない歴史を語った。誰がどうのとは言いたくない。私自身の自慢話を披露するような年齢でもない。ただ間違ったことが一方的に語られていたとしたら私がそのとき生きた時代が抹消されているようで体が凍ってしまう。
ふと書き留めました。
もう10時22分、原稿作成しないといけない。
これから作ろう。
こうるさい日本婦人がいますね。
またこうるさい日本婦人の話聞かせてください。
>>日本人には絶対に出せない新しい感覚、発想に触れてきっと彼らたちが何かを担ってくれると確信している。
日本人ごときにはだせませんよね。
今までは昔あったことをたまに話をしてもそう全部話すことはありませんでした。けれど8月の尾張に65歳を迎えます。今、言っておかないと1人よがりになってはいけないと考えて記憶を手繰り寄せています。
小うるさい婦人たち、記憶が甦ってきたらまた書き留めていきます。メールありがとうございます。