インド映画『ミルカ』の公開日1月30日(金)まで、あと3週間余りとなりました。公式サイトはこちらです。こちらで劇場を確認して、公開に向けた助走体勢に入って下さいね(笑)。
実は『ミルカ』の主人公であるアスリート、ミルカ・シンは、日本とも浅からぬ因縁があり、この映画の中にも日本が登場します。
まず、彼が日本で初めて陸上競技に出場したのが1958年の東京開催アジア大会。映画では、ミルカ(ファルハーン・アクタル)のライバルとなるパキスタン選手、アブドゥル・カーリク(パキスタンでの発音では「ハーリク」)が100m走に出場するシーンから始まり、それを見学していたミルカが、レース後にアブドゥル・カーリク(デーウ・ギル)とそのコーチ、ジャーヴェード(ナワーズ・シャー)に引き会わされるシーンが出てきます。
この100m走で選手の1人に扮して走っているのが武井壮さんで、昭和30年代に合わせたレトロな髪型がよく似合っています。誰の提案か知りませんが、時代考証的にちょっと感心したシーンでした。アジア大会の100mでは、アブドゥル・カーリクに続いて日本人の潮喬平選手が0.1秒差で2位に入っており、この銀メダルを獲った潮選手がモデルとなっているようです。
100m走終了後パキスタンのコーチから皮肉を言われたミルカはそれを胸にたたみ、次の200m走のレースではアブドゥル・カーリクを僅差で破って勝利し、パキスタン側をくやしがらせます。さらにミルカは400m走でも2位のフィリピン人選手に1.5秒の差を付けて1位となり、合計2つの金メダルを獲得するのです。映画の中では400m走の方は登場しませんが、ミルカ・シンにとって、東京開催のアジア大会は忘れられない大会となったはずです。
この時のアジア大会のメダル獲得者一覧はこちらです。なお、アブドゥル・カーリクとミルカは、のちにパキスタンのラーホールで開催されたインド・パキスタン親善陸上競技大会で、またもや対決することになります。下の写真の、トップがミルカ、その次がアブドゥル・カーリクです。
(C)2013 Viacom18 Media Pvt. Ltd & Rakeysh Omprakash Mehra Pictures
さらにもう一度、ミルカ・シンは走るために東京にやって来ます。1964年の東京オリンピック出場なのですが、この時は400m走、4×100mリレー、4×400mリレーにエントリーしたものの、出場は4×100mリレーのみで、しかも予選落ちしてしまいました。残念ながら、アスリートとしてのピークはもう過ぎていたのでしょう。映画では1960年までしか描かれていないので、東京オリンピックの競技シーンは出て来ません。
あと、ミルカと日本との間には、間接的なご縁もあったりします。その一つは、息子ジーヴ・ミルカ・シンを通じてです。「ジーブ・ミルカ・シン」と表記されたりする息子さんは、著名なプロゴルファー。日本ツアーでも優勝しており、ゴルフ・ファンにはお馴染みの人です。こちらに日本版Wikiの紹介サイトがあり、また、日本ゴルフツアーの公式サイトにもこんな記述が載っています。この息子さん、武井壮さんともかすかな因縁があるそうで、こちらで武井さんが語っています。
『ミルカ』の映画化にあたっては、息子さんがラケーシュ・オームプラカーシュ・メーラ監督と実在のミルカ・シンとの橋渡しをしてくれ、ぜひ映画化を承諾するようお父さんを説得してくれたのだとか。いい息子さんですねー。ゴルフ好きの方も、たくさん見に来て下さるといいのに、と思っています。
(C)2013 Viacom18 Media Pvt. Ltd & Rakeysh Omprakash Mehra Pictures
さらにもう一つ、ミルカ・シンと日本との間には隠れた因縁があります。上の写真は、パキスタンから列車で逃れてきた少年ミルカが収容される、難民キャンプでの1シーンです。この難民キャンプはニューデリーの中心街から少し東南に行ったプラーナー・キラー(Purana Qila/”古い城”の意味)にあったのですが、実はここには太平洋戦争当時、日本人の収容キャンプがあったのでした。
1941年に太平洋戦争が始まった時、当時イギリス領マラヤやシンガポールなどにいた日本人は、敵性国民とされてインドまで運ばれ、収容所に入れられました。その上陸後の収容所となったのが、デリーのプラーナー・キラーでした。その後収容者はラージャスターンのデーオーリーに移されますが、その収容所跡が、1947年のインド・パキスタン分離独立時にはパキスタンからの難民のキャンプとなったのです。松本脩作先生のこちらの論文によれば、太平洋戦争開戦当初にプラーナー・キラーに集められた日本人は約3000人だったそうです。
インド・パキスタンの分離独立によって、国境を越えての移動を余儀なくされた人は1000万人以上と言われているので、プラーナー・キラーの難民キャンプには何十万人という人がいたに違いありません。住居は仮設のテントで、食糧配給もままならない様子は、映画の中でも描写されています。日本人収容所の場合は、食べ物はきちんと配給されたものの住居は非常にお粗末だったそうで、『ミルカ』の難民キャンプシーンを見るたびに、私は昔マレーシア在住の日本人の方から聞いた収容所キャンプのお話を思い出してしまうのでした。
上の写真は、39年前(!)、1976年1月に撮ったプラーナー・キラーの一部です(プリントが退色してしまってますねー)。ここには動物園があり、そこにいるホワイトタイガーを見に行ったのですが、こういった遺跡に囲まれた野原の中の動物園でした。現在はこの当時よりもっと整備されて、美しい遺跡公園となっているようですが、私が行った頃はまだ映画の中に出てくるような崩れた遺跡の感じが残っていました。今回の『ミルカ』では、プラーナー・キラーではなく、ニューデリー南部にあるトゥグラカーバード城砦遺跡でロケが行われたようです。
ところで、『ミルカ』の宣伝を担当しているスキップ陸上部の皆さんからも、お年賀状をいただきました。ありがとうございます。スキップ陸上部の皆さん、宣伝さらにがんばって下さいね。
ツイッターには、「駅伝の合間に『ミルカ』のCM入れればいいのに」というご意見もあがっていて、なるほど~~~と思ってしまいましたが、駅伝大好き人間の私にとって、『ミルカ』は走るアスリートの美しさも見せてくれる、まさに「萌え~」的作品です。ファルハーン・アクタル、神野大地君に負けないで3000m超の高地ラダックを走っています! ぜひ、観戦に来て下さいね。