完全ネタバレ*注意
利休にたずねよ
って言う邦画、tapiさんに頼まれて借りてきたのを一緒に見た。
邦画全然見ない。暗いし、独特な情緒って言うんかな、重いねん。
冒頭のシーン、ラトゥールの絵みたい。
奥さんがろうそく持って廊下を歩いてくるところ。
ストーリーって言うと、ただただ利休の人生不幸が続く。
昔は遊び人で、その時惚れた女を自殺で失い、……って言っても、心中するつもりだったわけだけど。秀吉に疎まれて苛め抜かれるわ、弟子殺されるわ、娘自殺するわ、最後には利休切腹させられると言う、もうこの上ない不幸者って感じになってます。
でもジメジメした感じではなく、どっちかというと、淡々としてる。
一方的に悪い秀吉だが、利休がそもそも政治に首を突っ込みすぎなのでは?とも思わざるを得ない。
茶のルーツは禅宗らしい。
が、現在宗教とは独立した文化の一つとなっている。禅ってあるけど、それも宗教とはかけ離れて一種のスポーツのようなものになっている。ヨガとかもそうか。だからこそ、これだけ一般的なものになってるんだろう。寺で茶を沸かすとかだったら、お気軽に抹茶飲めんし。
ルーツが宗教と関係あるものは結構ある。当然といえば当然かも。
映画の中で、利休は美を追い求める。
侘び寂びというのは、色んな解釈がされていて本当はどういう意味かも最早不明だが、思うに、茶ってアートでもある気がする。職人の世界であり芸術の世界でもあるような。
器一つ、お茶を頂く時の場、作法とかに芸術的な一面があるなと感じる。
もちろん究極は、人が癒される事を目的にしてるのだろう。一服するのだから。
アートの一面がある物は、美的感覚を磨く必要もあるだろう。
利休が生ける花の見せ方には哲学的な意味があろうと、芸術の一種でもある。
だからこそ、アート性を持っているものが、政治などと関わっては台無しになるのでは。
昔は独裁だから、殿様に従って何でもやって世の中が回る。
利休は政治と関わりたくないのに無理矢理そうさせられていたなら、仕方がない。でも、自ら政治の真似事をしてたなら、自分で自分の作るものの価値を壊してる。そんなお茶には価値などない。
映画の中ででてくるお茶は、全然美味しそうじゃない。飲みたくもならない。抹茶好きだけど、あれ何飲んでるの?って感じだった。
ご飯はすんごく美味しそうで、きれいで、食べたくなった。
利休の妻役の女優は、前にかんべえの大河ドラマでも見たけど、いつも同じ演技で、利休の妻なのか、かんべえの妻なのか?わからない。ちょっと話し方微妙に変えるとかして変化をもたせてくれないと飽きてしまう。
秀吉役の人、うまいわ。イライラするもん(笑) 秀吉と利休のいるシーンは、ただの酒飲み親父と芸術家に見えた。
秀吉は利休の見せる美を理解できなかったらしいのだが、出来ないと思うな。根本的に美的感覚が違いすぎると思う。そもそも秀吉は悪い意味の成り上がりだから、金とかゴージャスなものとか、色の使い方を理解できないのではと思う。もっと秀吉が子供の頃から色々な芸術に触れてたら別だろう。こう言うのは磨かねば、悪い意味の成り上がりとなる。それについては後述する。育ちが出るのはいい事だ。秀吉なら秀吉にしか作れない美があるだろうし、金の茶室なんかより、もっと人が親しみを覚えるような匂いを持ったものを職人に作らせることも可能だったはず。
秀吉は農家の生まれだが育ちがどんな家だろうと、その人が育って得てきたものはその人だけにしか無いものだ。そう言うものより、もっと高級なものがいいと言うのであれば、高級と名のつくものは全て良しとなってしまい、裸の王様になりかねない。そもそも扱ったことのない色なら、それもいきなり、金なんて難しい色を、品を持って使いこなせるわけがない。
金色は苦手だけど、日本の昔の金の使い方は本当にうっとりするほど美しいし、ロココなどで見られる他の色と金を上手く融合させるあの使い方は天才的でビックリさせる。でもキラキラ光ってるあの色は、扱う側に品が無いと、とてつもなく格好悪い。持論だけどさ!
だから育った家が、病院だろうと農家だろうとゴッドファーザーだろうとアトリエだろうとテントだろうとだ。
その人が持つ美しさを磨いていかねば、その人から美など作られないし、元より磨かねばならない。センスは才能では決してない。自ら作り上げ磨くものだ。
悪い意味での成り上がりと、あたしが言う意味は要は価値や質、奥深さを全く理解しない高級志向の事を言ってるわけ。だから悪趣味で、高くて不味い飯を「高いから」美味しいと思ってる感覚。高くてもダメな物はいくらだってある。価値観とか言う問題の前の話。
映画で利休は、自分の美を追求していたが、その中で、織田信長に、水に浮かんだ月を献上するシーンがある。ああいうの、芸術とかじゃなくてお洒落っていう気がする。普通にあれやって許されるのは職人だけだろうな。水に浮かぶ月は盆の柄とあっててきれい。
あの月のどっしりとした頼もしい美しさは、同時に優しくもあって、決して儚くない。
茶の器に桜の花弁が舞って入るシーンもあるけど、ああいうサービス精神は侘び寂びの一面なのかも。
桜の花の美しさは、次にまた咲くというところにある。その年の桜はその時だけにしか見られない。が、とても力強い美を持っている。散っていく儚さ?そんなものに美はない。
あたしはそう思う。
その一瞬は美しい。
けれど憂いのあるものは何であれ、美しいのではなく、希望も力も何もない。
命のあるものを美しいと感じる時に、そんな偽物の悟りなどが入り込む余地はない。
諸行無常と言うのも平家物語の冒頭ででてくるように、既にそういう言葉は、本来の意味から離れて流行りの言葉の扱いを受けていたのではないのかなと思ったりする。
本来の意味から、侘び寂びと言うのも離れていくと面白い。よく使われる日本語は意味も時代によって変わる。侘び寂びが現代の意味の侘び寂びになるような新しい世界観があれば、あたしはもっともっと和が好きになる気がする。
格子の入った窓は利休のアイデアだと映画で言ってた。あれ大好きだなあ。
思うに利休が今いたらインテリアデザイナーとかやってそう(笑)
お茶も利休もよく知らない。
でも、こうと決まった形など、どんな芸術やお茶などにも無くて、こうでないといけない物って無いのかもしれない。
形を作ることで、新しい物がうまれなくなるだろう。色んな茶の形や芸術の形があることで発展があるのだろう。その方が面白い。
ただ、畳の意味や、それがなんであるのかを意味を大切にしてたら良いのではと思ったりする。
今回の映画では利休のアイデアは全体的に派手で、豪華な派手って言う感じだった。大胆な派手さか。そして家という物自体をアートにする。扉の外の世界も。無駄をなくして、全体を使って。こう言う、景色を一部に取り込んでしまうとか、好き。もっと渋いアイデアだったらもっと好き。好みの問題。
今度は、もっと利休のアイデアばっかな映画があればみたいな。