ちょっと本題に入る前に恐縮ですが
昭和は遠くなりにけり
そういった時代の事はバッグに詰め込んだまま
忘れて行くと言うのがセオリーとも申せますが
改めて思い出しながら書いていると
知らず知らずあの頃の気持ちが甦ってまいりまして
その頃は一番元気で多感な時代でもありましたので
心なしかパワーが湧いてくるような
そんな気持ちも致します
という事で私の中学時代
64年65年66年位の頃の事を話している訳ですけど
成る程ビートルズやリバプールサウンド
はたまた外国の音楽に夢中になっていた事はよく解りました
しかし同時に国内の音楽は聞かなかったのかという疑問もあると思いますわ
当然テレビやラジオから日本の音楽も耳に入って来るでしょうし
頻度から言えばそういう外国のサウンドに触れるより
国内の音楽に惹かれるのが当然な成り行きでしょうし
正に昭和歌謡というジャンルもあるくらいだろうから
そういった物に興味がなく何故外国の曲だったのかという
そんな至極まっとうな意見もあると思いますわ
そうですよね、普通に耳に入ってくるだろう流行歌を聴かずに
中学生活を普通に送れる訳もないだろうし
それでもあえて外国の曲に惹かれて行ったのには何か理由があったのか?
そこら辺をば
で、自分にとって歌謡曲や日本の音楽はまるで無縁だったかと言うと
そんな事は無く、むしろ小さい頃からかなり身近なものであったんです
それには、以後も自分の音楽生活に
大きな影響を与えてくれた人の話をしなくてはなりません
それは母の弟 私には叔父にあたる訳なんですけど
名前を名和治良(なわはるよし)
又制作時には、三田恭二(みたきょうじ)
三佳令二(みよしれいじ)の名も持っておりました
もともとは大橋節夫&ハニーアイランダースでギターを弾いておりまして
その後当時の東京芝浦電気 つまり東芝のデイレクターになりました
そんな叔父の当時の伝説的な話も以前UPしましたので
叔父の会社は溜池にあって
私の自宅が赤坂にあったから仕事帰りにちょくちょく寄ってくれまして
発売したレコードやチケット、使わなくなったドラムを持ってきてくれたり
或いは時には担当の歌手やバンドマンと一緒に訪れる事も有って
つまり当時の芸能界の一端を叔父の周辺から
いつも身近に感じて接していた訳です
で、このときに受けた印象というのもあるんでしょうね
それはいわゆるスターと言うか歌謡曲や流行歌の人気歌手よりも
叔父の方が遥かに偉くて格好よくて
それにバンドマンや制作側の人の方がお洒落でスマートで
自分に優しく接してくれるし
子供心にも面白く愉快な印象が残ったんですね
確かに小学生の頃から流行歌や演歌は聞こえて来まして
前述の叔父の影響で当時の音には慣れ親しんで
テレビからもよくそういう音楽は耳に届いておりましたが
ただ小学生の頃にはあっても中学生になってからは
ある種の失くなってしまった世界があったんですわ
それはいわゆるロカビリーであるとか外国のポップスを翻訳して
日本の歌手が歌うというそういった和製ロックンロール
何よりも好きだった 元気の良い、身体の動くような
小学生にでも人気があった曲がまるでこの頃消えて行ってしまったんですね
そうなんですわ
小学校高学年 音楽に興味を持つ頃
まず耳に入ってきたのは欧米のポップス
62年のあたりは今でもTHIS IS MY BAG
教室でこれらの歌を大声で歌って楽しんでおりました
勿論当時の御三家も歌っておりましたけれど
中尾ミエさん、森山加代子さん、
弘田三枝子さん等の大ファンでもありました
で、63年になりますと中学受験に向かう訳ですが
其の頃の東京は激変の時期
翌年には日本は一大イベントに向かって行く訳です
つまり東京オリンピックに向かって行く訳なんですが
63年、若干前年までのような
ポップス曲もかろうじて1、2曲入っておりますが
状況は少し変わって行く訳なんです
何というんでしょうかね、これは今でも不思議な事の一つなんですが
普通「世界の国からこんにちわ」なら
海外の曲が増えていってもおかしくないんですが
あにはからんやナショナリズムによる反動って奴ですかね
それとも今でいう「日本らしさのおもてなし」って奴ですかね
日本の魅力を世界にという感じで力が入ったんですかね
ムード歌謡、演歌、音頭ってスタイルが大半になって行きました
つまりオーソドックスな所謂マイナーキーの歌謡曲
ここら辺は世相や経済状況の影響もあるんでしょうけど
そこら辺はよく解りませんが
あの好きだった感じが残念な事に少しずつ消えて行ってしまったんですわ
そして中学に上がる頃64年65年ってところは
まさにTVから聞こえてくる流行歌は暗黒の時代でしたわ
小学生の頃好きだったリズムのあるビートも消え果ててしまい
夜の街とウイスキーグラス
そして演歌、民謡、幼稚園の子供が喜ぶお遊戯曲
正に「七色の虹が消えてしまったの~」って感じでしょうか
そんなところが中心となって行った訳です
従いまして嫌でも気持ちは「欧米か!」に向かっていくのは
当然の流れでありました
そういった物以外の音楽を聴くとなれば我が国では
かろうじてテケテケなんて言われてたヴェンチャーズ位で
エレキギターの基礎は確かにこの時期作られていましたが
あの楽しかった歌やドラムにコーラスといったサウンドは
66年のビートルズの来日や初期のGSまで待たなくてはならず
洋楽を流してくれるのはラジオ位で
この国に於いてはテレビから流れる退屈な音楽に
致し方なく身を委ねるしかありませんでした
まあ、そんな中学時代の最終時期
ようやく66年になってビートルズの来日を機に
あの激しいビートに感化された
当時のバンドマン達にも大きな転機が訪れ
それまでの歌+バックバンドの形態からコンボスタイルの
いわゆるGSブームがやって来る訳です
日本中が長髪!失神!ジャズ喫茶ですわ
同時に「バラが咲いた」とか「若者たち」といった
カレッジフォークと呼ばれるスタイルを源流として
日本のフォークというのもこの年あたりから始まって
四畳半とか左派運動そして反戦歌といったムーブメントを取り入れつつ
70年代に引き継がれて行きました
ようやく自分たちで演奏して歌ってコーラスして
カッコいいコスチュームを着てといったような若い世代の為の
そんな動きが顕著になってまいった訳です
私も中学卒業前に同時にドラムを買って貰い
アマチュアながらクラスメートとバンドを組んで行きました
そうこうしている内に68年はGSの最盛期
中心は我々より2,3年上の団塊の世代の方々
相当のムーブメントを引き起こしたのですが
実質2年ほどだったでしょうか
やがてその時代もあっけく69年のGSの衰退を経て
今で言う 職業作家の方々による
昭和歌謡の代表作が目白押しになっていくというそんな推移でしたね
黛ジュン 「乙女の祈り」
まあしかしこうやって年毎に思い出してみても
色々な音楽的な体験が出来たのはラッキーな時代だったと思いますわ
今のように情報が豊富でないだけに
その変化のエネルギーが直接感じられるようなそんな時代
受ける刺激も急激に変化したのは
国内だけでなく海外の音楽シーンも相当なスピードで変わってまいりました
古い価値観から新しい生活様式へ
社会も含めて激動の60年代
モンタレー、そしてウッドストックへの足音は
もうすぐそこまで近ずいておりました 乙