物々交換コレコーレ

物々交換が出来る不思議なお店

いいとも風味になっているラジオ番組に、私が紹介した素敵な女性。

2010-11-11 07:32:36 | インポート

先日、「笑っていいとも」のラジオ版のようになっている芸人ひとみちゃんがパーソナリティーをしている番組で、約50分ほど話しぱなしになる番組に紹介を受けて出た。
その時に私を紹介してくれたのが、大正ロマン・昭和モダンを切り口に注目されている浅草の蛍堂のご主人からだった。

リレーが続くことを要望されていたので誰が良いのか考えてみた。
物々交換を面白がる人にはとてもユニークな人が多い。
特に私が通信業やファション業界での成功の果てに、全てをやめて物々交換を始めた馬鹿さ加減への興味も手伝ってかとんでもない人物達との交流が増え続けている。
結局、ただ有名人を紹介するよりも中身の濃い人物を紹介しようと言うことになり、「実は脱ぐとすごいんです。」ではなく「実は生き様がすごいんで す。」という人物が良いだろうということになり、当店の顧客の中からえり抜きの生き方をしてきている人物、日本を代表できるような怪物2人と、コレコーレ の歴史を作ってくれた恩人お一人であり、とても美形で素敵な生き方を全うしている憧れの女性社長を紹介しようとしていた。

本当は、ロータリークラブ会長などの公職を兼務している私や私の会社の「幕賓」と呼べる貴重な人物や、弁護士会の会長職を担っている歴戦研磨の当社の顧問弁護士も検討したのだがマスコミに出ることは、硬く辞退されてしまっていた。

ひとみちゃんからは、日本で初の完全オーダーメイドの車のメーカーを作り上げた人物や、シルクロード北ルート3000キロを歩いて渡ったり,南極 の温泉に入りに行ったという怪物的な老人を私が番組に紹介しようという申し出に強く興味をもたれたのだが、その怪物達に負けていない女傑にも興味を持って 頂いていた。

誰から紹介しようかと話し合っていたが、

天下の名声を轟かせる盛田さんが化粧品会社の社名の名付け親ということや、次々と判明してくる財界人脈の幅の広さと奥の深さが尋常でなさそうな理由にも興味が強く沸きだし、この際ラジオで明らかにさせてしまおうという目論見もあって先に出演していただくことになった。

番組の前宣伝にHPで写真を掲載しておきたいというひとみちゃんの申し出もあり、最近お気に入りのトルコ料理店に事前紹介のチャンスを作った。話 が盛り上がった後、アンティーク美術館のような自宅に出向き写真撮影を行ったのだが、ひとみちゃんと非常に話が盛り上がり、優先的にその美人経営者を番組 で紹介することが決まった。

ちょうどその美人経営者は、大須演芸場でもひとみちゃんを見ており会話が弾みやすいことも理由になったが、とてもいい感じの会話の進展状態がさらに弾んでようである。

実際、本番での進行状況は、とても滑らかでウイットが聞いていてとても面白かった。
冒頭でその美人経営者の同級生が「送り人」の監督であったことがわかりびっくりの切り口から様々な引き出しから面白い会話が次々と出てくる状態であった。

しかし、その番組の渦中で突然、耳を疑うような内容が、その化粧品会社の美人経営者から言葉が出た。

「片桐さんは、ちっともハンサムじゃないし‥」

てっきりいつものいじり会話がオンエアーされるのかと聞いていた。
すると、めいっぱい私を落としにかけたあとに‥

「だけどね‥、不思議なの、あの人となら一緒に生活が出来ると思えるのよね!」

・ ・・????????・・・・???

生活破綻者の代表格という自信すら持っている私に、あれだけ意味深長な理解の上に

ユーモアをさりげなく組み立てられる機微に富んだ稀有な人物から驚きの言葉であった。

もちろん番組をもち上げる為のジョークの会話である。

しかし、いつものジョークも、 電波の声で聞くと驚くほどにドキドキしてくる。

電波の力が生み出す心の作用は、とても不思議である。

普通なら、何も引っかかる要素のない笑いだけで終わっていくユーモア言葉であるが、

この言葉は、年齢を重ねてきた私には、また異なった意味合いで考えさせられた。


若い頃の「一緒に生活する」という意味は、とても単純な動機で、好きだから少しでも長
く居たいというだけで良かったのかもしれない。
また、好きという内容も、何が好きか、どれほど好きかと言う尺度と、生活を共にすると言う意味の重さとのバランスに対して、欲望だけが先行してあ らゆる思慮を都合の良い物だけに作り変えて、自身から湧き上がるあらゆる疑問を共依存の連帯感の正当性を合理化させるためにだけの理屈付けさせた答えしか 用意できなくなるものである。

たとえば、まだ、未熟で一人ですら生活できない者の目の前に、本当に好きな女性が現われたとしよう。

二つの答えがまず用意される。

1、 充分な力が付くまでは、一人で暮らし、いずれ生活力に自信が持てるようになっ       たら、一緒に暮らす方法へと発展させる。

2、 未熟だからこそ、一緒に暮らすことに意味がある。
次ぎ次ぎと起こるであろう苦労に、共に手を合わせていくプロセスにこそ生活の本質があり、人生を共に生きたと言える。

この二つの考えは昔からの普遍の親と子供の論争である。
親心としては、当然、前者を選ぶ男性にしか大切な娘を任せられないだろうし、

若者からしてみれば、後者の主張を通したいし、その主張に共感できないような娘とは、人生を歩いていけないというだろう。

この歴史的な論争のどちらがよりベストなのかを敢えて言及はしないが、老後に向かうこの年齢における「一緒に暮らす」というテーマなら考える価値がありそうである。

若者も老人も基本的には、「理念の一致」を求められるかどうかだと思うが、若いうちは「理念」すらも不安定であり、理念が持つ力の意味すら分からないでいるものである。

第一、好きということがどういうことかさえ分からないし、
好きといってくれたから、好きになったような気がしたり、
性欲を合理化する言葉としての好きであったり、
性への好奇心をカモフラージュさせる言葉が好きであったりする。

また、意外と勘違いされているのが、尊敬する人物が一目置いているから、その人物からの評価を得る代理行為として、手に入れたいと願っていることが好きという意味だったりする。
大体、友人や知り合いの人物を好きになったり、略奪しようとする動機は、ほとんどが自信を認知させるための道具としての代理満足の行為が好きの本質であったりする。

ただ、親から自立したいと言う動機を合理化させるために、好きという自己暗示の世界にはまる人間も多い状況で、若いときの好きは、実際のところ危ういものである。

たとえ、純粋に好きという思いが募っていたとしても、その人の考えを好きというようにはなかなかなれない。

せいぜい、自信の理想を錯覚化させてくれるに相応しそうな人物であるかどうかという身勝手な憶測から想像の産物に恋をしているだけのものが圧倒的であり、実際の相手を見ている状況での恋愛感情は、非常に少ないものである。

しかし、未熟な失敗の産物とは言えども、若さのエネルギーは、それが心の病気の恋愛であれ、未熟な競争心理や、脅迫観念から呪縛であったとしても、真剣にぶつかり合う動機にはなるし、傷つけあう力も生み出すことが可能になる。

それらの衝突の連続の中で、相手の変化だけを求めてきた自身に気づき、自分自身を知ろうと言う動機を生み出すチャンスも得ることが出来る。

そのような、熾烈な自身への戦いを、「好き」というきっかけから生み出すことが出来るような情熱があるような恋愛であれば、考え方の一致を生み出したり、二人が交際することの目的や一緒に暮らすことの目的や「理念」の持ち方などの共有を生み出すことも可能になってくる。

好きな相手と一緒に暮らす目的における「理念」とは、要するに物事に対する考え方のことで、常に変わらぬ考えとしてもっている選択肢の根拠となる考え方のことである。
どのように考えることが自身を本当に納得させられる考えであり、どのように考えることが、いかなる困難にも自身をあきらめることなく成長させ続け、愛する人間をあきらめずに見守り成長させられるのか?
という命の成長の本質そのものを示すものが「理念」である。
まさしく、人生において進化をさせても変えてはならない考え方のことである。

年を重ねてくると、よほどの事件がおきない限りこの「理念」を改善させていくことは、とても困難である。

なぜならば、「理念」とは、その人の人生を支えてきた土台そのもの示しているのである。

理念を改善するということは、自身を支える土台を改善しなくてはならないことであり、生きることへの情熱が冷めていくような人生の敗北者となって いる人物には到底出来ない、残念ながら高齢になればなるほどに、自信をあきらめるか、傲慢な自己正当が頑強に自身を蝕んでくるようなる。

何らかの成功を手にした老人は、自己のわがままがどこまで通用するのかを試すことだけが生きがいになってくる。

わがままが通るうちは、自身に価値があり、わがままを引っ込めなければならないようでは、自身の価値がなくなってしまったことを認めるようなもので、絶対譲歩は出来ないと信じ込んでいる老害症候群がすでに、老癌にさえなっている人物も多くなってくる。

その原因は、

「人は情熱と共に若く、」

「人は疑惑と共に老いる。」

名台詞が意図するように、全ての心の老いは、疑惑心からなのである。

いくら年を重ねても、いや、年を重ねれば重ねるほどに、「情熱」と言うエネルギーや情熱に火をともす勇気が必要なのである。

勇気の源は、想像力であるが、想像する力は、あきらめない心が支えるものである。
あきらめなくてはならない人生の末路の向かって、決してあきらめずに情熱を持ち続ける考え方を理念としている人物の人生に、生涯心の老いは訪れない。

私の信条に、「許」「諦」「寛容」「情熱」という言葉で作り上げた自身への約束がある。

生涯、諦めず
生涯、許さず

人生に「帝」を作らず
人を「午」にしない生き方を育む為に、

「寛容」を全身全霊の情熱で自身の中に創造し続けて、
よく生きることを全うする。


なぜ、考え方が人生の土台なのか?という質問を知人から受けることがある。

考え方は、

目的を生み出す原動力であり、

動機に意味をもたらす力を持つものであり、

選択肢に根拠を与え続けるものである。

考え方は、

人間に希望を生み出せる原動力である。

人間に勇気を奮い起こさせる原動力である。

人間の運命を変えさせることが出来る唯一のものである。

考え方は、

喜びを生み出すものであり、

恐怖を生み出すものであり、

悲しみを生み出すものであり、

悲しみを克服するものであり、

幸福を創出できる唯一のものである。

考え方で心は変わり、心が映し出す景色も喜びも不安も全てが変わるものだが、それぞれの人生で作り出してきた考え方に、条件反射のようにスイッチが入って同じような行動パターンを繰り返し続けていることがある。

しかし、それぞれの条件反射は、それまでの自身にとっては都合の良い反射であったり、それ以外の反射が怖くて出来ないようなものであったりする。

いずれにしても、その反射が、それぞれの人生で対処してきたある意味の知恵であったのである。
その対処の知恵が自身の人格になるまで侵食しているものが、結果としてその人の宿命に背負う考え方なのである。

そもそも性格とは、変えがたい考え方が支配している言動のスイッチの種類や引き出しの種類を分類しているものを示しているようなものである。

考え方の変更が出来なくて性格を変えられるということはありえないことである。
到底、自身の努力や思考の組み立てだけでは不可能に近いものである。
だからこそ性格分析や、プロファイリングなどのような犯罪捜査に力を発揮するのである。

しかし。若いうちであれば人生に自身の努力を超える圧力で性格に変化を生み出すチャンスがないわけではないないのかもしれない。

考えかたが違うとどのようなことが起きるのであろう。

たとえば山に登るという単純ことでも、

「理念」が違ったら、

上る手段も、
目的も、
ルートも、
見る景色も、
起こる問題への対処の仕方も、
満足を得ることも、
不満足に感じることも、
全てがまったく違ってしまう。

考え方の違いとは、山登りひとつとっても、一緒に居られるのか、居られないのか、という答えまでにつながってしまう、生命線の重さを持っている。

多様な個性と同じ考え方で山に登ると言う意味と、

一様な個性と多種多様な考え方で山に登るでは、

まったく意味が違うことなのである。

ましてや

多様な個性と多種多様な考え方で山に登るでは、
命がいくつあっても足りない危険な登山になってしまうのである。


よく国際結婚には、考え方の根本的な違いでの失敗談がある。

中にはとても怖い話があり、私を自身も身近に知っている。

名古屋の最高級住宅街を背景としたおしゃれなセレブから一世を風靡した超有名な「ザ・ステージ」というファションビルの中に、インポートブティックを私が経営していたことがある。
その店の隣の店の店長が殺されるという大事件が発生したことがある。

それは、一人の国際結婚の女性がアメリカ人のご主人に殺された事件であったが‥
私には衝撃的な忘れ難い事件であった。

その女性は、隣の店ということもあって、その店長さんから、よく国際結婚の困難さを私に相談してきていた。
その相談内容から問題の根本的な深さや危険性を私なりに理解していたこともあり、なんどもその女性に離婚のアドバイスを説得していた店長さんでもあった。

その女性の場合もそうであったが、言語の真意が充分に理解できず大半が想像で、このような意味で言ってくれているのであろうという都合の良い解釈で相手の考えかたが自身の理想と一致しているのではと言うような思い込みの錯覚を持ったままに結婚をしたケースであった。

結婚後に言語の理解が深まり伴侶の考え方の本質がようやく分かり出し、驚愕するケースは意外と多いらしい。
とんでもない考え方の相手と結婚してしまったことが判り、大変な後悔をしているという話は意外と多いものである。

前記の未熟な結婚と、用意万端の結婚のどちらが良いのか言及し難いというのは、

未熟だからこそ性格の変化を生みだす可能性もあるという考えもあり、
未熟さが取り返しのつかないことになってしまうと言う考えもあり、
用意万端という人間には、性格の変化は起きようがないという難問もあり、
用意万端という条件を認めるだけの関係に本当の愛は、成立し難いという問題もある。

などの理由もある。

本来、人間は弱いもので、条件を愛することが出来ても、他人を愛することは困難な動物でもある。その証拠になるのが裏切りという言葉が愛の中に生 まれようがないはずなのに、いとも簡単に裏切られたり、傷つけられたりという心理状態に自身を追い込みやすい弱さを誰しも持ちやすいものである。

期待する条件に適わない事象が起きれば、すなわち、それがその人にとっての愛の裏切りであり、傷付けられることであると信じて疑わない人間が異常に多いのである。

他人どころか、自身の子供でさえ条件を満たすことだけに価値を置くような接し方の自己正当として「愛」という言葉にすり代えようとするそうとする親が増え続ける人間としての弱さが目立ち始めているようである。

さて、本題の高齢者になってからの「一緒に生活したい相手」となると、もう変化をする気力も勇気もない年齢の相手との相性の話になる。

性格の変化や考え方の変化が望めない相手と決め付けて相手を見るとなると、割と簡単な面もある。若い頃と違い、相手の変化に下手な期待をしないで 済むことと、老いて醜くなっていく明らかな現実の中でも、それ以上に愛し続けるものがあるのかどうかという好奇心に対する自身の答えが導き出せればよいだ けというのは、割とシンプルである。

そして、相手の考えや性格がその年齢まで変わらずに居ながらも愛し続ける言う自信がもてるのであれば、あとは、自分自身がどこまで寛容の幅を持つことが出来るのかという自身の最後の人間としての成長という課題だけを見れば済む話になることになる。

成熟した大人の「一緒に生活する」というテーマにおける課題は、相互が「寛容」と言う課題だけをテーマに最後の人生を歩むと言うことなのだと思う。

私の信条への課題は、とても困難だが、諦めることだけはしたくないと思う。

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