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J・M・W・ターナーの肖像(チャールズ・ターナー画)
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー 1775年-1855年
Joseph Mallord William Turner 1775-1855
アカデミックな絵画の成功者であるターナーさんの事を私ごときが語るのは
おこがましい限りですが、そこは芸術を愛するひとりとしてお許し頂ければ幸いです。
ターナーさんが好んで使用した色は黄色だそうです。
現存している彼の絵具箱で色の大半が黄色系統の色で占められているのは有名なお話。
逆に嫌いな色は緑色らしく、緑を極力使わないよう苦心したらしいです。
ターナーさんは知人の1人に対して「木を描かずに済めばありがたい」と語っていたらしいのです。
また別の知人からヤシの木を黄色で描いているところを注意された時には激しく動揺していたそうです。
( ウィキペディアにより詳しいですが抜粋して以下にお示ししました。)
1775年、ロンドンのコヴェント・ガーデンのメイドン・レーン21番地に
理髪師ウィリアムの子として生まれます。母親のメアリ・マーシャルは精神疾患をもち、
息子の世話を十分にすることができませんでした。
ターナーさんは学校教育もほとんど受けず、特異な環境で少年時代を過ごしたようです。
1789年、風景画家トーマス・マートン氏に弟子入りし絵画の基礎を学びます。
当時の「風景画家」の仕事は、特定の場所の風景を念入りに再現した「名所絵」のような
作品を制作することでした。マートン氏の元で1年ほど修業したのち
ロイヤル・アカデミー附属美術学校に入学します。
1797年にはロイヤル・アカデミーに油彩画を初出品し、1799年には24歳の若さで
ロイヤル・アカデミー準会員となり、1802年に26歳の時には正会員となっています。
初期のターナーさんはアカデミー受けのする、写実的な風景を描いていました。
アカデミー準会員となって以降、約20年間は有力なパトロンに恵まれ画家として順調な歩みを続けます。
『カレーの桟橋』(1803年)、『アルプスを越えるハンニバルとその軍勢』(1812年)などは
この時期の作品でロマン主義的な大気、光、雲の劇的な表現が特色です。そして、
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「 現代ローマ 」制作年は1839年。海の作品が圧倒的に多い画家ですが、この絵はイタリア旅行で得た
インスピレーションを光の表現に変えた傑作の一つです。J・ポール・ゲティー美術館に所蔵されています。
この様なアカデミックなテーマの絵から少しずつ変わって行きます。
ターナーさんにとって転機となったのは1819年、44歳の時のイタリア旅行でした。
ルネサンス期以来、長らく西洋美術の中心地であったイタリアへ行くことは
イギリスのような北方の国の画家たちにとってのあこがれであり、
彼もまたその例外ではありませんでした。
イタリアの明るい陽光と色彩に魅せられ特にヴェネツィアの街をこよなく愛し、
その後も何度もこの街を訪れ多くのスケッチを残しています。
イタリア旅行後の作品は画面における大気と光の効果を追求することに主眼がおかれ、
そのため、しばしば描かれている事物の形態はあいまいになり、ほとんど抽象に近づいている作品もあります。
このように油彩画の大作を発表するかたわら、フランス、スイス、イタリアなど
ヨーロッパ各地を旅行して多数の風景写生のスケッチも残しましたが、
1842年に制作された『吹雪-港の沖合の蒸気船』では蒸気船はぼんやりとした塊に描き
巨大な波、水しぶき、吹雪といった自然の巨大なエネルギーを表現しています。
印象派を30年も先取りした先駆的な作品でした。
発表当時は石鹸水と水漆喰で描かれたなどと酷評されましたが、
この作品を制作するためにターナーさんはマストに4時間も縛りつけられ、
嵐を観察したという逸話が残っています。
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「 雨、蒸気、速度-グレート・ウェスタン鉄道 」 1844年
(Rain, Steam and Speed - The Great Western Railway)
90.8×121.9cm | 油彩・画布 | ロンドン・ナショナル・ギャラリー
その後もターナーさんは研鑽を続け、現代に通じる傑作
(と私は信じていますが如何でしょうか?)を生み出します。
上の作品をご覧になった方も多いでしょう。
生涯を通じて5回から7回の画風の転換があったと言われています。
5回であるとすれば、第1期は、主題が中心に描かれた風景画の時代、
第2期は風景の中心に広い空間が開けてくる時代、
第3期は開けた空間に光が現れた時代、
第4期はその光の中に何らかの姿が描かれた時代、
そして最後は風景全体が光で満たされた画風です。
ターナーさんは手元にあった主要作品をすべて国家に遺贈したため、
彼の作品の多くはロンドンのナショナルギャラリーやテート・ギャラリーで見られます。
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー 1775年-1855年
Joseph Mallord William Turner 1775-1855
アカデミックな絵画の成功者であるターナーさんの事を私ごときが語るのは
おこがましい限りですが、そこは芸術を愛するひとりとしてお許し頂ければ幸いです。
ターナーさんが好んで使用した色は黄色だそうです。
現存している彼の絵具箱で色の大半が黄色系統の色で占められているのは有名なお話。
逆に嫌いな色は緑色らしく、緑を極力使わないよう苦心したらしいです。
ターナーさんは知人の1人に対して「木を描かずに済めばありがたい」と語っていたらしいのです。
また別の知人からヤシの木を黄色で描いているところを注意された時には激しく動揺していたそうです。
( ウィキペディアにより詳しいですが抜粋して以下にお示ししました。)
1775年、ロンドンのコヴェント・ガーデンのメイドン・レーン21番地に
理髪師ウィリアムの子として生まれます。母親のメアリ・マーシャルは精神疾患をもち、
息子の世話を十分にすることができませんでした。
ターナーさんは学校教育もほとんど受けず、特異な環境で少年時代を過ごしたようです。
1789年、風景画家トーマス・マートン氏に弟子入りし絵画の基礎を学びます。
当時の「風景画家」の仕事は、特定の場所の風景を念入りに再現した「名所絵」のような
作品を制作することでした。マートン氏の元で1年ほど修業したのち
ロイヤル・アカデミー附属美術学校に入学します。
1797年にはロイヤル・アカデミーに油彩画を初出品し、1799年には24歳の若さで
ロイヤル・アカデミー準会員となり、1802年に26歳の時には正会員となっています。
初期のターナーさんはアカデミー受けのする、写実的な風景を描いていました。
アカデミー準会員となって以降、約20年間は有力なパトロンに恵まれ画家として順調な歩みを続けます。
『カレーの桟橋』(1803年)、『アルプスを越えるハンニバルとその軍勢』(1812年)などは
この時期の作品でロマン主義的な大気、光、雲の劇的な表現が特色です。そして、
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「 現代ローマ 」制作年は1839年。海の作品が圧倒的に多い画家ですが、この絵はイタリア旅行で得た
インスピレーションを光の表現に変えた傑作の一つです。J・ポール・ゲティー美術館に所蔵されています。
この様なアカデミックなテーマの絵から少しずつ変わって行きます。
ターナーさんにとって転機となったのは1819年、44歳の時のイタリア旅行でした。
ルネサンス期以来、長らく西洋美術の中心地であったイタリアへ行くことは
イギリスのような北方の国の画家たちにとってのあこがれであり、
彼もまたその例外ではありませんでした。
イタリアの明るい陽光と色彩に魅せられ特にヴェネツィアの街をこよなく愛し、
その後も何度もこの街を訪れ多くのスケッチを残しています。
イタリア旅行後の作品は画面における大気と光の効果を追求することに主眼がおかれ、
そのため、しばしば描かれている事物の形態はあいまいになり、ほとんど抽象に近づいている作品もあります。
このように油彩画の大作を発表するかたわら、フランス、スイス、イタリアなど
ヨーロッパ各地を旅行して多数の風景写生のスケッチも残しましたが、
1842年に制作された『吹雪-港の沖合の蒸気船』では蒸気船はぼんやりとした塊に描き
巨大な波、水しぶき、吹雪といった自然の巨大なエネルギーを表現しています。
印象派を30年も先取りした先駆的な作品でした。
発表当時は石鹸水と水漆喰で描かれたなどと酷評されましたが、
この作品を制作するためにターナーさんはマストに4時間も縛りつけられ、
嵐を観察したという逸話が残っています。
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「 雨、蒸気、速度-グレート・ウェスタン鉄道 」 1844年
(Rain, Steam and Speed - The Great Western Railway)
90.8×121.9cm | 油彩・画布 | ロンドン・ナショナル・ギャラリー
その後もターナーさんは研鑽を続け、現代に通じる傑作
(と私は信じていますが如何でしょうか?)を生み出します。
上の作品をご覧になった方も多いでしょう。
生涯を通じて5回から7回の画風の転換があったと言われています。
5回であるとすれば、第1期は、主題が中心に描かれた風景画の時代、
第2期は風景の中心に広い空間が開けてくる時代、
第3期は開けた空間に光が現れた時代、
第4期はその光の中に何らかの姿が描かれた時代、
そして最後は風景全体が光で満たされた画風です。
ターナーさんは手元にあった主要作品をすべて国家に遺贈したため、
彼の作品の多くはロンドンのナショナルギャラリーやテート・ギャラリーで見られます。