ちゅーたのたび

人生メロメロ奮闘記!?

聖徳太子を訪ねる旅9

2014-03-17 | 旅行記
 
2013年9月24日
いい天気だった。

まず向かったのは
聖徳太子御遺跡霊場第22番「額安寺」
 

に向かう途中にあった池。
アヒルさんとカモさんが仲よく遊んでいた。
その隣に
  

『推古神社』云われも何も確認してこなかった・・・・・
ここはスルーして、目的地へ。
 
聖徳太子御遺跡霊場第22番「額安寺」
!!!!!!
ここに着いたのは9時。
閉まってる!?
10時開門・・・・・・・って、お寺様が10時だなんて・・・・・・
 

お察しの通り、御朱印もらえず・・・・・・
聡明叡知で仏法を尊んだとされる聖徳太子が
釈尊(ブッダ)の祇園精舎に倣って創建した学びの道場「熊凝精舎」が山号の由来。
「聖徳太子を訪ねる旅8」にある大安寺の前身であると言われている。
額安寺は621年に熊凝精舎を置いた跡地に建立された寺院で、後に東大寺、興福寺と並ぶ大寺となる。
虚空蔵菩薩像は、奈良時代に道慈律師が額安寺に安置礼拝していたもので
我が国における虚空蔵求聞持法の最初の根本本尊。

すべてを拝むことができず退散。


次の目的地へ行くための駅に着くと
なんと!
乗車券販売機が「中止」とな。
駅員さんが何か補修している様子。
聞くと、オレの目的地の駅に連絡を入れておくから
そこの駅員に訪ねてくれればいいとな。
ではお言葉に従いホームへ。
そこで乗った電車がなんと、反対方向だと気付くのに時間はかからなかった。
まぢかよ~~~~。
次の駅で降りるも、反対方向の電車が来るまで15分かかった。
あぁ~~~。
目的地の駅員さんに爆笑される始末。
本当に方向音痴は困る。
っていうか、看板見てないだろう!


まぁ、それでも無事に着いたのは
聖徳太子御遺跡霊場第19番「達磨寺」
新王寺駅から向かう途中にあった。
 



何とも可愛らしい。

 
ちょっと遠かったが、気持ちいい暑さ・・・・暑かったんかい!
風が強くて、ここでもコンタクトに埃が入り
一人わけもなく涙流して・・・・・・・・
この場所はちょっと詳しく覚えていないが
川が氾濫したときに少女が誰かを救ったために溺れてなくなった
その少女を祀る像があった。
あれ、少女だったかな、少年だったかな・・・・・ちら見しかしてないから
本当に覚えてないや。
 
推古天皇21年(613年)の冬、聖徳太子が
片岡山で飢えていた異人に衣食を施したという伝説にからめて語られることがある。
聖徳太子が片岡山を通りかかったところ、飢えて瀕死の異人に出会った。
太子はその異人に当座の寒さと飢えをしのぐため、食物と自分の衣服とを与えた。
翌日、使いをやって異人の様子を見に行かせたところ、すでに息絶えていたので
丁重に葬った。
それからしばらくして墓の様子を見に行かせると、死体は消えており
衣服だけがきちんとたたまれて、棺の上に置かれていた。
これを知った里人は、あの異人は達磨禅師の生まれ変わりに相違ないと言い
聖徳太子が自ら刻んだ達磨像を祀ったのが達磨寺の始まりであるという。

                                        Wikipwdiaより
 

「本堂」

 
御本尊は千手観音菩薩・達磨大師・聖徳太子。

 



聖徳太子が飼っていた雪丸という名の愛犬をかたどったとされる石像で
もとは本堂の鬼門、つまり東北のところにまつられていました。
それは、雪丸自身が臨終のさい
死ねば本堂の東北隅に葬ってほしいと話したからであるといい
雪丸は言葉を話したり、お経を唱えることもできたといわれています。
雪丸が死んだあと、聖徳太子が自ら石工に命じて雪丸像をつくらせたといい
1月1日に雪丸が鳴けば、その年は豊作になるという言い伝えもあります。
現在、雪丸像は本堂の西南に移されています。

                                 達磨寺HPより

とても愛くるしいお顔の石像でした。

 
「問答石」
推古天皇21年(613)に聖徳太子と飢者の姿の達磨大師が出合い
歌を詠み交わした場所と伝えられている。

本堂は3号墳の上に建てられている。
他、1号墳2号墳もある。
小さな塚のようで、まさか墳墓だとは知らず
素通り・・・・・・・・

さらに、御朱印も・・・・・・・・ない。トホホ。

気を取り直して次へ!

聖徳太子御遺跡霊場第21番「平隆寺」
 

のどかな田園の中に。 

 

太子に仕え、この地で勢力を得ていた豪族平群氏の氏寺。
大和での数少ない飛鳥時代創建の寺院として
附近の古代瓦生産地とともに注目され
寺域は県の史跡に指定されている。
本尊は石佛の阿弥陀如来(鎌倉期)で、これは秘佛とされている。



またしても 閉門 
「御朱印など御用の際はインターホンを」と書いてあったが
なんだか疲れてもういいやってな感じ。
 

なんて花かな。
健気に咲いていた。
オレは健気に帰路に立つ。
といっても、この時点でまだお昼。
腹減った・・・・・と思いながら次の目的地へ向かった。

聖徳太子御遺跡霊場第20番「朝護孫子寺」(ちょうごそんしじ)
「王寺駅」からバスで「信貴山門」へ。
山道をくねくねと登るバスが何とも不憫に感じた。
LowかSecondか、エンジンがうなっていた。
まず目に入ったのがこれ。
 


勇ましいんだか可愛いんだか(笑)

 

ここから登り始めた。

 

登ったところで出迎えてくれたのがこの福虎。
 

この奥にある橋が「開運橋」 。

 

たくさんの鳥居があった。
この信貴山にはたくさんの「院」や「堂」がある。
 

さすがにこれだけ全部を回ることはできなかった。

 

 

 

 世界一福寅


最早自分がどこにいて、どこを回ってきているのかわからなかった。

 


これらの写真は撮った順に載せている。
でも、今となってはどこの写真なのか・・・・・・・・
こういう時に限ってメモを取らずに散策している。
アホなオレ。
 

ようやく出会えた。聖徳太子の像。
笛を吹きながら馬に乗っている姿・・・・・・
はて、そんな昔にも笛はあったのか。
推古天皇時代、石舞台とかあったから
笛太鼓の類はあったのか。
 

 
 


何だかいろんなところをうろちょろしていたが
ようやく本堂に到着。
 

良い眺めだった。
晴れてくれたことに感謝。
 

 聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。
太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され
必勝の秘法を授かりました。
その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。
太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建
信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。
以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されています。

                                   朝護孫子寺HPより
 

もちろん、ここでは御朱印を頂きました。
そして、気になるものが。

 

あの塔へ行ってみることにした。
言うまでもない、ずいぶん遠回りをした。 


遠回りのおかげ(?)
1億円を口にした福虎。
今のところ、御利益はなさそうだ。
 



気になったのは「玉蔵院」
 

「銭」の字に反応。

 

またも福虎・・・・・・ということは、無事に元に戻ってこれた(笑)
本当に広くて「堂」や「院」がたくさん!
到底紹介しきれないし、覚えきれない。
朝護孫子寺HP

この日はここまで。
なんだかんだとこの信貴山には2時間ほどいたかな。

宿に着いたのが
17時近かったな。

この日の晩飯はちょっと贅沢してみた。

 

大和料理 萬佳(ばんか)郡山店
「明日香御膳」
良い値段だけあって至極おいしかった。
次に行く時も、ここで食べたいな。

さて、次は待ちに待った「飛鳥」
またサイクリングするぞ。







聖徳太子を訪ねる旅8

2014-03-06 | 旅行記
2013年9月23日出発。
生憎の雨・・・・・・
と思いきや、次第にお天道様が!


初日は前回ゆっくり楽しめなかった
聖徳太子御遺跡霊場第1番「四天王寺」
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!!!! 

ところがどっこい、お彼岸だぁ~~
人や出店が一杯。
でも、なんだか、楽しい雰囲気で良いな。
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法要なのかな。
お坊さんが鳴り物鳴らして登場。

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阿弥陀堂へ入っていかれた。

今回はお彼岸なので内覧が無料開放。
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こういう回廊の画が大好き。
まっすぐ伸びた通路。
ここを古の時代から様々な人が行き来していたんだと思うと
なんだか胸がほっこりする。
これは昭和の時代に作り替えられたものかな。
物は現代の物でも、やっぱり「ここにあった」という事実だけあればいい。
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今回はここから始まる。
にぎわいと、古を感じながら「四天王寺」を後にした。

次はすぐ近くにある
聖徳太子御遺跡霊場第29番「勝鬘院」
方向音痴のオレにはとてつもなく大変だった。
普通に行けば5分とかからない。
四天王寺を出て勝鬘院の入口の到着するまで
10分はかかった・・・・・・・
ナビを酷使するも何故か自分だけとんでもない方向に向いていたりする。
地図の見方も分からないのか!と自分に怒ったりして(笑)
まぁ、無事到着。
西暦593年(推古天皇元年)、聖徳太子は、敬田院、施薬院、療病院、悲田院からなる
四天王寺を建立されました。
その中の
施薬院
は、あらゆる薬草を植え、病に応じてあまねく人々に与えられるようにと現在の愛染堂の場所に建立されたのです。
当時の面積は現在より一層広大であり、また、建立の意味あいからいうと
我が国の社会福祉事業発祥の地。

施薬院が勝鬘院と呼ばれるようになったのは
このお寺で聖徳太子が
勝鬘経
というお経を人々に講ぜられていたため
そして勝鬘経に登場するお姫様・シュリーマーラー夫人(勝鬘夫人)の仏像が
本堂に祀られているため、後にこう呼ばれるようになりました。

                                     勝鬘院HPより
地元では“愛染さま”と呼ばれて親しまれているとか。
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愛が叶う「愛染めの霊水」があるらしいが
これは、飲むと愛が叶うといういわれがあるらしい。
どこにあったか・・・・・
あったとしても、オレは思い浮かぶ相手がいない・・・さみしいかな。


ここで御朱印を書いていただいたおばあさんが
なんとも、大阪人らいしい(?)どぎつい対応(笑)
「御朱印頂きたいんですが」
「はぁ?」
って、ちょっと怖いんでない?
愛染さんの前でその態度はどうかと…。
「書いてる間、裏の多宝堂を見てきたらええ
」といわれ
愛染様にご挨拶をして、裏へ回った。
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開いてないし・・・・・・・
そんなこんな、ここの滞在時間は5分。
なんだか、愛をもらいに来たのか
愛なんて無いと言われに来たのか・・・・・・・

次に向かったのは
聖徳太子御遺跡霊場第2番「大聖勝軍寺」(たいせいしょうぐんじ)
ここへ向かう途中
JR関西本線王寺行の電車の中から「法隆寺」斑鳩一帯を拝んだ。
立ち寄る時間はなく、今回はこれで許してもらいたい。
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どうしてオレはこうも方向音痴なのか。
必ずと言っていいほど、一度は道を間違える。
ここへ来る時も、1本違う道を歩いていた。
屋根は見えているのに・・・・・・なのになぜ到達できないのか。
無駄に歩く距離が増える。
そんなオレをあざ笑っていらっしゃるのか。
Dsc_0078 Dsc_0079
仏教の導入に反対したと伝えられる物部守屋の別宅が、ここにあった。
587年(用明2)4月、瀕死の病床で仏教に帰依することを用明天皇が
群臣たちに諮問したことから、廃仏派の物部守屋は身の危険を感じてこの地に退いた。
7月下旬の暑い盛りに、崇仏軍は渋川の阿刀で守備を固める守屋を攻めた。
その攻防戦の主戦場となったのがこの地。
本堂の太子殿には、太子植髪像を安置し、その脇に弓矢を持つ四天王像を祀っている。
これは4人の関係者をおのおの四天王になぞらえたもので
持国天(蘇我馬子)、多聞天(秦川勝)、広目天(迹見赤檮)、増長天(小野妹子)の四体。
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彼岸花。
どこへ行っても目にすることができる。
自生ではなく、中国から帰化したもの。
花言葉は「情熱」「独立」「再会」「あきらめ」
「悲しい思い出」「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」。
花の形が燃え盛る炎のように見えることから、家に持って帰ると火事になるとか・・・・

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聖徳太子が物部軍に追われたとき、この椋の霊木が二つに割れ
この間に隠れ難を逃れたと言われている。
人が人を殺した場所。哀しいかな。
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ここでも彼岸法要が行われていた。
御朱印はどこでもらったらいいかわからず(小心者)
あきらめてこの場を去った。

さて、次に向かったのは
聖徳太子御遺跡霊場第23番「大安寺」
Dsc_0094 
聖徳太子が建てた熊凝精舎。
病床にあった聖徳太子は、見舞いに来た田村皇子(のちの舒明天皇)に
本格的な寺院にすべきことを告げ
太子の意思を受けた田村皇子が、即位後の舒明天皇11年(639年)
百済川のほとりに建て始めたのが百済大寺であるという。
初めての国家寺院。
熊凝精舎については、大和郡山市額田部(ぬかたべ)に現存する
額安寺(額田寺)がその跡ともいわれる。
平安京に移ってからの大安寺の伽藍整備に
力のあった僧・道慈が額田氏の出身であるところから
額田氏の氏寺である額田寺と関連づけられたのではないかとみられている。
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ここで御朱印を書いていただいている間に
 “だるまみくじ” ひいてみた。
「小吉」
内容はいたって普通だったかな。
あまり覚えていないから、特に良いことも悪いこともなかった気がする。
境内に結んで置いてきた。
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この穴に入っていた。
だるまさんだけは 記念に頂いた。
このだるまさんの顔は2種類あったかな。
「好きな顔のものを持って行って」と言われ
この顔を選んだ。
特にこれといった理由はないが
こっちの方が笑っているように見えたからかな。


と、ここでこの日の旅は終わり。
今回も宿はもちろん「スーパーホテル大和郡山」
1日5個のアメニティーを頂いた。
歩き疲れていたから
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これをもらった。
初日はスーツケースごろごろ転がし疲れたから
晩飯もコンビニ弁当で。
大浴場に入り、ほっこり。
缶ビール飲んでぐっすり。
翌日に備え、早寝。

 
 
 

聖徳太子を訪ねる旅7

2012-04-30 | 旅行記
 
2012年1月18日 最終日
京都へ。
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聖徳太子御遺跡霊場第24番「広隆寺」
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古くは「蜂岡寺」と言われていた。
聖徳太子の舎人だった秦河勝が太子から仏像を賜り
それを御本尊として建立したとある。
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「講堂」
中央に阿弥陀如来坐像(国宝)
左に地蔵菩薩坐像(重要文化財)、右に虚空蔵菩薩坐像(重要文化財)
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「上宮王院太子殿」
本尊に聖徳太子像。
歴代天皇が即位大礼に御着用の黄櫨染御袍(こうろぜんごほう)の
御束帯を御召しになる慣わしがある。
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ここが今回のたびの最終地。
ここへの交通手段が「嵐電電車」
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紫の電車なんて初めて見た。
ほんで、路面電車。
なんかウキウキな感じ。
でも、乗客は皆さん地元の人なので
そんなこと思うわけもなく。
今回の旅はどちらかというと初詣。
四天王寺を除いてはのんびり感満載だった。
まだあと12寺残っている。
御朱印は+4で16・・・・・
まだまだ旅は続く。






聖徳太子を訪ねる旅6

2012-04-30 | 旅行記
2012年1月17日
今回のたびは2泊3日。
ちょっと強行突破的な感じ。
斑鳩と飛鳥の両方を訪ねようとしている。
まずは斑鳩。
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聖徳太子御遺跡霊場第14番「法隆寺」
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さすがに学生たちはいない。
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前回と違い、快晴。
風もなく、心地いい。
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住職さん(?)が前から歩いていたのを
あえて撮ろうとしたら、逆に気を使って避けてくれた。
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「五重塔」
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「金堂」
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人は少ないし、天気はいいしで写真撮りまくってた。
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「聖霊院」
今回ももちろん御朱印はいただきました。
第18番「成福寺」(廃寺)の分もいただきました。
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そして東院へ。
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「夢殿」
ゆっくり回るならこの時期がいいな。
でも、草木がまだ眠っているから、写真写りが寂しい感じになる。
ここでの挨拶も終わり。
さて、次は飛鳥へ。
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聖徳太子御遺跡霊場第8番「橘寺」
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「二面石」
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「本堂」と「黒駒」
本堂内を参拝。
なんだかすごく緊張した。
こんなところにオレが入っていいのかと思うぐらい。
とてもジッとしていられなかった。
住職さんにそのことを言うと、微笑みながら
「そうでしょう、聖徳太子様ですから」
あぁぁぁぁぁぁ・・・・・・何ともいえない、身の引き締まる思い。
もう少し暖かかったら近くを散策して
発掘現場に行ってみたかったが
寒さに負けた。
この日はここで終わり。
・・・・・2ヶ所で終わり!?
いいんです。初詣ですから。






聖徳太子を訪ねる旅5

2012-04-30 | 旅行記
2012年1月16日
初詣をかねて旅の続き。
朝、人身事故あり。運行に影響。
特に問題はなかったが、被害者の様態が気になるな。
さておき、奈良に向かって出発。
今回も近鉄を使用。
でも、普通の指定席。乗客が少なく大和八木に着くまで
隣の席には誰も来なかった。
さて、まずは挨拶がてら御廟のある
Photo
聖徳太子御遺跡霊場第6番「叡福寺」
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この日、叡福寺に僧がいなくて、御朱印はあらかじめ書かれていたものだった。
ご挨拶も終わり、この場を離れた。
隣にある公園には「憲法十七条」が刻まれた石碑があった。
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他にも発掘した時の状況などのレプリカや説明があった。
その辺はよくわからないから流し読み。
さて、次は
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聖徳太子御遺跡霊場第1番「四天王寺」
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用明天皇時代、蘇我氏と物部氏で武力闘争がおきた。
蘇我氏の劣勢を見て、聖徳太子が白膠木(ぬるで)という木を伐って
四天王の形を作り「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する
寺塔(てら)を建てる」と誓願。
その甲斐あって、蘇我氏が勝利。
そしてこの寺を建立。
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これは金剛力士。
叡福寺は大阪太子町、そしてここが大阪難波天王寺区。
移動で1時間近く使ってしまい、残念ながら時間が遅くなって内部参拝はできなかった。
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なので、外側からの撮影。
んんんんんん残念。
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「六時堂」
御朱印はここで無事頂くことができた!
薬師如来坐像と四天王像を安置。
覗き見することができなかった・・・
でも、天井や装飾はすごく荘厳な感じだった。
六時堂の手前にあるのは石舞台。
「日本三舞台」のひとつで重要文化財。
Photo_14
この日はここで終わり。
次のたびの時はここを一番に持ってこよう。
宿は前回と一緒でスーパーホテル大和郡山。
もちろんコンビニ飯。
飛鳥や斑鳩への距離がちょうどいい感じ。
今後もここが拠点となるだろう。



叡福寺へ。