8月6日は広島の平和記念日。
67年前の今日、広島に午前8時15分に原子爆弾が投下された。
奥に建つ原爆ドームはほぼ爆心地にあたる場所とのこと。
毎年、この日にはこの元安川で、水を求めて川に入り流され亡くなられた方々を悼み
灯篭流しが行われている。
私が子どもだったころ、この時期になるといつも母から原爆の話を聞かされ、なにも知らなかった私は
灯篭のおまつりと、この日の広島のゆううつな重い雰囲気がいやだったものだ。
母は小学生だったので、幸い学童疎開で市内にはおらず、直接の被爆はなかったが、
母の家は幟町(のぼりちょう)といってほとんど爆心から半径2キロ以内の場所。
家は原爆の爆風で一瞬のうちに跡形もなく吹き飛ばされてしまったそうだ。
当時、家にいたのは母の母、つまりわたしの祖母と、母の弟、公三、そしてまだ赤ん坊だった弟がもうひとり。
母の父は戦地に出ていたし、母の兄は予科練習生で、もうすこし戦争が長引いていたらゼロ戦で敵艦に
突っ込んでいたところだったとのこと。
原爆投下のとき、祖母は家の外の井戸端でしゃがんで洗濯をしていたのだそうだ。
当時も暑い、天気のよい日だったので、幸いなことに祖母が洗濯をしていたのは日陰。
弟の公三は祖母のそばにいて、この二人は日陰にいたために中性子の熱線を直接浴びることなく
爆風で吹き飛ばされはしたが、なんとか一命はとりとめた。
小さな赤ん坊だった末の弟は、家の中に寝かされていたために、家とともに吹き飛んで、跡形もなかったそうだ。
祖母は一命はとりとめたものの背中に大きな火傷を負ってしまい、やはり多くの人たちのように
熱さに耐えきれず、水を求めて元安川に向かった。
弟の公三はそのときはまだなんとかたいした怪我もなく、祖母をかばいながら水を汲んできたり、小さいながらも
必死で看病をしてくれたそうだ。
火傷を水で冷やそうと川に向かった祖母だったが、いざ川についてみると、ものすごい数の傷ついた人たちが
川に押し寄せていて、とても川に入れる状況ではなかったので、しかたなく家のあった場所にもどり、その焼け跡で
家族の帰りを待つことにした。
母が学童疎開から帰ってきたのは8月9日。
広島になにか新型爆弾が落とされて、大変なことになっている、と伝え聞いて、放射能のことなど
なにも知識なく、疎開した人たちが続々と爆心地に向かって歩いていったのだそうだ。
戻ってみると、家はもちろん跡形もなく吹き飛ばされ、あたりは一面の焼け野原。
母の家のあった場所には祖母と公三がもちろん野宿で、焼け跡に二人、待っていたとのこと。
祖母は放射能のせいか、髪がばっさりと抜け落ち、背中もひどいやけどで
ただ横になって、茫然と動くこともできないままだった。
公三はまだ来年小学校にあがる年だったそうだけど、けなげに祖母の面倒をみて、
水を汲んできたり、焼け跡を掘り起こしてなにか食べられそうなものを拾ってきたりしていたとか。
原爆が落ちて1週間ほどは、水以外はたぶんほとんどなにも口にしてなかったのではないだろうか。
母が疎開から帰って、数少ない無事だった大人たちがみんなで寄って、まず焼け跡の片づけを
しようということになったらしい。
一緒に帰ってきた学校の先生たちに言われて、母も焼け跡をひとつひとつ、片づけていったのだそうだ。
木のものはほとんど焼けて炭になってしまっているが、トタンは燃え残っていたので、それをまくってみると
たいていは下に半分焼け焦げた人の亡骸があったという。
そういう亡骸を、ひとつずつ掘り出して、先生と一緒に幟町小学校の校庭に運んでいったのだそうだ。
今、想像しただけでも悲惨すぎる光景だが、当時は感覚が麻痺していたのか、ひどい亡くなり方をした方の
亡骸を見ても、気持ち悪いなんてことは微塵も感じなかった、と母は言う。
夏の暑い盛り、考えただけでもそんな亡骸はすぐに腐敗し、ひどいことになっていたことだろう。
ハエもウジもいっぱいすぎて、なんも思わんかった。
ウジのわいたそんな亡骸を、子供たちが集めていった様は、もはや想像を絶する悲惨さ。
当時の人々は食べるものはいったいどうしていたのか・・。
原爆投下からすぐに、あちこちで炊き出しのようなものがあり、子供だった母も行列に並んで
動けない祖母になんとか食べものを運んでいたそうだ。
なかでも、一番たくさん食べものをくれたのが教会の人(当時の母の家の近くにあったイエズス会の神父さま)だったらしい。
きれいな金髪の神父さんたちが食べものをわけてくれた、と母は言う。
当時は鬼畜米英だったから、大人はガイジンを見ると恐れて逃げたけど、
子供はそんな偏見関係ないんやなぁ。
特に、広島の焼け跡で尽力されたのは聖イエズス会の神父さま。
この方は世界的にも有名な方らしい。
小さかった母は、この優しさにひかれ、またなにか根源的なものにひかれたのか
神父さまによくついて歩き、お祈りやら讃美歌やら、そこでいろいろ教えてもらった、とのこと。
この方は、あとで調べたんやけどたぶんこの故ルーメル神父またはジーメス神父ではないか・・・?
イエズス会では当時、数名の神父さまやシスターが広島で被爆されているとか。
しかも、教会は頑丈な造りであったために倒壊を免れ、多数の被爆者を運んで看護や手当てに尽力されたとのこと。
最近までご存命で、上智大学の名誉教授だったそうです。
ルーメル神父さまの当時の日記より↓
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20110711144814957_ja
こちらはジーメス神父さまの資料↓
これは当時幟町の母の家のすぐ近くにあったイエズス教会で被爆されたラサール神父さまの貴重な体験。ラサール神父さまはその後帰化され、広島の名誉市民となられています。↓
http://memorial-world-peace.txt-nifty.com/blog/2012/08/post-97db.html
しばらくして終戦になり、焼け跡にアメリカの兵隊さんがやってくるようになった。
これがまた優しくておもしろい人ばかりで、ビスケットやらチョコレートやら、見たこともないような
おいしいものをくれて、みんな頭をなでてくれたそうだ。
終戦になって、幸い生き延びた祖父が戦地から帰ってきて、祖母もなんとか回復してきたころ
こんどは公三の具合がおかしくなった。
原爆のあともあんなに元気だったのに、ぐったりしてなにも食べなくなった。
口元に小さな傷があったのが、いつまでも治らずだんだん傷口が腐ってきて、ポロリ、と肉がはがれて落ちていく。
とうとう、片方の頬の肉がみんな腐って落ちてしまい、奥歯までむきだしになってしまった。
水を飲ませようにも、片方のほっぺたがないので水がこぼれてしまう。
仕方なく、頬のある方を下に寝かせて、水がこぼれないようそっと流し込んだそうだ。
ハエがいっぱい寄ってきてウジがわくので、母はずっと公三のそばでハエを追っていたという。
公三が亡くなったのは原爆が落とされて1カ月ちょっとの9月13日。
もう、なにも食べなくなった公三だが、最後に食べたいといったのがみかんの缶詰め。
祖父が軍から持って帰っていた缶詰めを、母が食べさせてやったのが最後になったのだそうだ。
いまでもみかんの缶詰は、うちにひとつは置いてある。
特に、9月になると、母は自分では食べないくせに、みかんの缶詰を買ってきて
なぜかうちには缶詰がいっぱいあった。
コーちゃんにあげるんやから、といっては自分では食べない缶詰めを買ってきていた。
そのあと、学校の跡地で、先生と二人だけで授業をした話、とか
すぐ後に広島に降った「黒い雨」で洪水になり、学校の跡地に置いてあった「教育勅語」を
校長に言われて水の中を胸までつかりながら取りに行った話、とか
宮崎アニメの「火垂の墓」みたいな内容の話をいっぱい聞いた。
忘れてはいけない話、と解ってはいたが、火垂の墓も最後までまともに見られなくて
つい、悲惨すぎることを想像しないようにして
心にフタをしていままできたけど。
今日はここで、ご縁のある方に読んでいただけて、よかったです。
これを読んで下さった方、どうもありがとうございます。
やっぱり、忘れてしまってはいかんよね。
覚えているものが伝えていかんと。
聞いたからには、それをまた、誰かに話していかんと、だめやね。
この世を地獄に変えてしまうようなことを、人間はやってしまう。
なによりもおろかで、怖いのは人間。
でも、それでも、人間は成長しなくてはならないんやな。
過去の貴重な教訓を無駄にしないためにも、決して、この悲惨な地獄を忘れてはならないと思う。