渥美清の一句
渥美清が俳句を作っていたことは、2022年5月31日「渥美清の俳句」でご紹介した。
こころに響く句がいくつもあり、「ああ、いいなあ。共感するなあ」と思いながら、くり返し味わっている。いつのまにか句の中に入り込んで。
入り込んだ句の一つ、それが次の句である。
お遍路が一列に行く虹の中
私はお遍路さんに出会ったことがないので、頭のなかで想像をふくらませる。妄想する。
―私が今立っている所は、旅先の河の土手の下である。たとえば「寅さん」の映画に出てくるあの土手である。
私はちょっと休もうと思って河原に下り、流れを見る。先ほどまで雨が降っていたので、水は少し濁っている。河音を聞き、鳥の声を聞きながら、次第に疲れがほぐれていくのを感じる。
そしてふと、土手を見上げる。
そこへ数人のお遍路さんたち。白衣を着て、杖を手にしている。列を作り、ややうつむき加減で、黙って歩いてくる。
珍しい光景に出会ったので、ぶしつけながら私は目が離せなくなる。「へえ、ここはお遍路さんたちが歩く土地なんだなあ」と、初めて気づいたような具合である。
お遍路さんとは、―私の勝手な思いこみだが、「魂に光を求める」人、あるいは、「自我からの解き放ちを求める」人である。いや、魂だけではない。「身体の健やかさを求める」人でもある。これまでの生き方について思うところがあり、また、いまの暮らしやら仕事やら病気やら家庭の悩みやら、そのほかの言うにいわれぬ苦しみを抱えながら、「新たな道(それを『希望』と呼びたい)」を求めて、お寺めぐりをする人たちである。見事願いがかなえられたことで、お礼の気持ちを表すために歩く人もいるかもしれない。
いずれにしても、歩く姿に、重苦しくはないが、何となくおごそかなものを感じる。ひたむきに歩く人たちという印象を与えるのである。
彼らは、土手の下で見ている私に気づかない。縦一列になって、黙々と歩き、目の前を通り過ぎていった。ここからどこへ行くのだろうか。今日はどれくらい歩くのだろうか。―そんなことを思いながら、私は見送る。
すると彼らの道、彼らの上になんと虹! 雨上がりの空に虹が出ているのだ。その七色の輝きを浴びながら、いま歩んでいくお遍路さんたち!
虹は「希望」のしるしである。
聖書の中に、それまで罪を重ねてきた人類が滅ぼされるという大洪水の話がある。信仰の篤(あつ)いノアという人が、箱舟で家族とともにその大洪水を生きのびるのだが、大水が引いたあと、天に虹が現れるのである。神さまが、二度と大洪水で人類を滅ぼさないと約束されるのだ。そして、希望をいだいてこの新しい地の上で生きなさい、といわれる。喜んでいきいきと生きなさい、と。
そのしるしとして出たのが虹なのである。
わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。(旧約聖書「創世記」9章13節)
その虹の中をお遍路さんたちは進んでいく。
「虹の中を行く」のだから、虹は歩いていくずっと先、ずっと高い所に出ているのではない。彼らが顔を上げさえすれば、自分たちが虹の中に入り、包まれ、いっぱいの祝福をされながら前へ歩んでいることに気づくはずである。
感謝の気持ちでたどっている人には、もっと喜びがおとずれるだろう。悩みや痛みや苦しみを抱えて、それでも新たな道を求めている人は、「顔を上げて、天を見上げて、胸を張って歩いていったらいい。あなたはあなたらしく、堂々と生きていったらいい!」、そう声かけをされていることがわかるだろう。
お遍路が一列に行く虹の中
旅の疲れを覚えながら、私もその虹を見上げる。私の道さえも七色に照らしてくれる虹、その祝福のしるしを見上げる。
●ご訪問ありがとうございます。
虹が出てくる映画で有名なのが「オズの魔法使い」です。「オーバー・ザ・レインボー」の歌をご存知の方は少なくないでしょう。虹はひとの心を惹きつけます。
ところで、渥美清がクリスチャンであったという話は聞いていないので、この一句は、お遍路さんを「求道者(きゅうどうしゃ)」と見立てて、「あなたは既に救われていますよ」とのエールをおくった句というのではないと思います。ここに書いたのは、あくまでも私の妄想です。
でも美しい、けれどしみじみとしたところもある句だと思います。