きみの靴の中の砂

25マイル先の空

 

  

 春一番が吹いて最初の週末の朝。
 海風はまだ冷たく、わずかに砂も飛ぶが、天気は申し分なくいい。

 ぼくは、湘南の海を目の前にした市営駐車場の端に古い黄色い車・フィアット500R を停めていた —— テルモスに入れた珈琲を飲みながらの休息。

 いささか陽も高くなったとはいえ、午前中のこんな時間に車を停めている者は少ない。3時間か4時間前ならサーファーの車がさらに数台停まっていたかもしれないが...。

 ローカルのFM局か、カーラジオから古いポップスが休まず聞こえている。

 この車は、ぼくのアメリカ人の友人で米国資本の著作権管理会社に勤めていたエグバード君から、彼が先月末に帰国する際に譲り受けたものだ。

 彼は、ぼくが誕生日にプレゼントした『卵鳥(エグバード/たまごとり)』という三文判をどこにでもやたら押したがり、日本の習慣に馴染もうとしていたが、ただひとつ、距離の単位だけは遂に慣れることなく、もっぱらヤード、マイルを使い続けた。だからこの車には後付けのマイル表示の速度・距離計があって、それは勿論今もダッシュボードの上に載っている。

 ぼくが早朝に家を出て、のんびり運転しながらここまで来たのには理由があった。実は彼には、ここ二年程仲の良かった、おばあさんと二人暮らしの日本人のガールフレンドがいた。何の行き違いか、ここふた月程音信不通だという。詳しいことは知らないが、恐らく彼の帰国とまったく無関係でないことくらいは容易に想像できた。
 彼の出身は南部の州の人口数千の小さな田舎町。いまだに禁酒法時代の風土を継承しているような古い土地柄で、最初は嫁がアジア人というのが問題なのかとも思ったが、それよりも彼女の祖母とふたり暮らしという方が遙かに揺るがせない障害だと納得した。

 ところで、彼の愛車の所有権がぼくに移った日、彼はぼくに車のキーを渡しながら、帰国する日を彼女に今更知らせても仕方がないので黙って帰国するけれど、自分が帰国した後、彼女とドライブしたこの車で彼女のアパートメントを訪ね、自分が帰国したことを伝えてもらえないかと住所を書いた紙をぼくの手に握らせた —— 携帯メールなどない時代の話だから歯がゆい —— 彼女は三浦の市役所勤めだから、土曜の朝なら必ず在宅しているはずだと言った。

                    

 彼女の住む海辺の町までマイル表示の距離計を見ればあと25マイルほど。
 彼女の部屋の窓の下でフィアット独特の少し甲高い音のクラクションを鳴らそうと決めていた。
 25マイル先の空は、この空と同じように晴れているはずだが、彼女の目に映る空だけが涙で滲まないことを願いながら...。
 
 

【Tomorrow People - Don't Worry Baby】

 
 
 
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