つれづれ日記 

ひごろのあれこれ。

古田敦也

2010年08月30日 05時15分55秒 | 日記
古田敦也の講演会があるということで、いってきた。正確に言うと妻に行かされた、感じ。
こんな田舎まで来て、ただで、ほんと?という感じではあった。
古田といえば、私が高校時代、ヤクルトの全盛時代を支えた人である。友人が大のヤクルトファンで、というより、アンチ巨人というか、ほんと、異様に盛り上がっていた。
友人は、巨人が正義の味方、ほかは悪役的な構図がとても許せなかったのだ。
古田の講演はとても楽しかった。やはり、とても頭の回転がいい人で、聞いていて楽しい。
座談会形式ということで、侍学園の方も以外とといっては失礼かもしれないが、よかった。
古田の小学生時代、母親にパン一斤買うお金渡され、毎日それを食わんと学校行かれなかった、また、毎日牛乳1リットル飲んで、高校いったら、20センチものびた話。
父親は、柔道で国体でたが、銭にならず 貧乏だったこと。小学生のころリトルリーグ?にはいり、隣の吉田君に古田君がキャッチャーできます、いわれて、キャッチャーになったこと。高校は、無名校にいったこと。立命館から、ドラフトで前日に親分からtelが母親にかかってきたが、実際には指名されず、トヨタ自動車にいったこと。トヨタ自動車では、そのことをばねに一生懸命がんばったこと。ほんと、ドラフトって、やですよね。前にもドラフトを取材したテレビでやってたなあ。せつないなあ。そして、野村監督、正直、一難去ってまた一難、と思ったそうです。野球のことはすぐには話せず、2週間くらい、人生訓のような話ばっかだったそうです。いきなり、耳順 とは、という話やったり、仕事は という話だったそうです。いつも古田はおこられていたので、自分から監督の近くへ座ったそうです。前に監督の話で 監督がヤクルトはなかよし集団ですわ、言ってた。その中心がやはり、古田だろう。こいつにおしえて、こいつが考え、そしてそのプレーに友人は魅了されていたのだろう。たしかに野球だけしかやっておらず、ほんと常識ないというか、純で、ど根性だけで、昔はやってたよね。そこへ ID野球だもんね。
日本シリーズにはじめて出たときも終わって、東尾解説者?に おまえら、勝てる分けないどう的なことを言われたそうです。逆にそれをばねに 次の年、日本一だそうです。
簡単に言うけど ほんと、できることじゃないです。
ピッチャーの球種はわからない、次なになげるかについて、グローブからでてくる手の角度で、わかることがあるとか、ピッチャーが首を振ったら、自信のあるスラーダーだとか。
そして、ピッチャーがピンチのときは、首ふれ首ふれ 思っている、首ふると ありがとう、いうて、ヒットを打っていたそうです。
選手会長のときに 近鉄?が身売りではなく、ブレーブスと一つになる話があり、そうなると、もう1球団減ることになり、大変な事態になった、それを阻止すべく、ストライキを決行した。2日間だけ。それでも苦渋の決断だった。古田は、おまえ、プロ野球界追放、まで言われたそうだ、そんなら、韓国で野球やろうか、まで思ったそうです。あの時のことは覚えている。プロ野球ニュースで 古田の顔がドアップになって、つらそうだった。泣きそうだった。いや、泣いていた。でも、ストライキをやった。ファンからの90%の支持で、もう一球団、楽天がうまれた。危機を乗り越えた。
今の子は、ものすごい、飲み込みが早い、いうたら、コーチがものすごい、勉強して、高校生で、プロが出せないほどの球速を出している。でもそれと、プロ野球で通用するとはちがうんや、いうていた。
たしかに よしゆき、中田、そして、沖縄のやつらが入団したかて、2年はかかってる。
いきなり出ても ほんと、袋叩きや、いうてた。確かにプロはいつも同じ人たちと戦っている。そして、人の金がかかっている、いうたら、最悪生きるか死ぬかや。
ほんと、とてもいい話、ありがとうございました。
冒頭、サマーウオーズをみて、もっと田舎や、思っていたそうです。
コメント
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