小千谷から(Ojiya kara)

新潟県中越大震災の、とある被災者からのメッセージ
(リンクはご自由にどうぞ。ただし転載はご遠慮ください。)

あちこちで地震

2007年04月26日 12時23分12秒 | 新潟県中越大震災・地震
え。今揺れたの?

12時6分 小千谷市 震度1 だって。気づかなかった。

瀬戸内に続き、11時半ごろから 
能登→和歌山(震度3)→能登→中越(魚沼・小千谷)とあちこちで地震が相次いでいます。

小さいガス抜きならいいんだけど・・・。
気持ち悪いね。

瀬戸内地方で震度4の地震

2007年04月26日 09時59分41秒 | 新潟県中越大震災・地震
9時すぎごろ瀬戸内海地方で震度4の地震があった。
中越に住んでいたら震度4ってどんなもんだか大体わかる。
物はあまり落ちないけどドキドキする揺れだ。

瀬戸内海地方で揺れるとは珍しい。
岡山の友達がビビってないか心配でちょっと電話してみた。
「ぼっこーきょーてかったわぁ~。」
と方言でいわれたので笑ってしまった。
しかも久々の大きい地震だったらしく詳し~~く描写してくれるw
ウンウン、そうかそうか、ときいてあげたw

能登。三重。瀬戸内。
大きめの地震が頻発しています。

みなさんも「よそごと」とは思わないで充分な備えをしてください。

小千谷を離れて思ったこと

2007年04月05日 15時28分26秒 | 新潟県中越大震災・地震
去年5月。
旦那さんを急性骨髄性白血病で亡くされたいとこのおねえちゃんが
「二人で旅行に行かない?」
というので、女二人旅を楽しんできた。

おねえちゃんと旅行に行くのははじめて。
「どこでもいいよ。」というので、中間地点をとって伊豆を選んだ。

なつかしいなぁ。
伊豆は学生のときにレンタカーを借りてよく遊びに行った。
都会の喧騒から離れてのんびりするには絶好のエリア。
ひもの屋と小さな漁港・青い海・潮の香り・ところどころであがる湯煙と斜面に生っているサマーオレンジの実。
こののどかな風景がつらく忙しい東京を忘れるにはちょうどよかった。

ん?目にとびこんできたのは道路標識の「135」という数字。

♪イエーイ 南へ走れ 135号線~(Beautiful day)

そうか!福山の愛する135号線ってこのシーサイドラインのことだったんだ!
急にうれしくなった。

おねえちゃんは旦那さんのつらい闘病生活がはじまったときに
「○○ちゃんには言おうと思ったんだけど、やっぱり言えなかった。」とこぼした。
それは ’同じ境遇の人じゃないと共感できないと思ったから。’’心配かけたくなかったから。’
私はこのころ地震のことで頭がいっぱいで、おねえちゃんにメールもしてなかった。

おねえちゃんは今だから言えることや誰にも話せないことをいっぱい話してくれた。
私も二人きりじゃないと話せないことを正直に話して、特に親戚の話でははじめて話す「ここだけの話」にふたり大笑い。(笑いがあとをひく~)

時折こぼれる涙をぬぐいながら、「福山の’wish’はまだ聴けないんよ。
お父さん(おねえちゃんの旦那さん)と本田美奈子.とは闘病の時期が同じだったからさ~。」と言っていた。

***

おねえちゃんが「地震のときは心配で心配でテレビ見ても情報がなくって。
朝になってうつしだされた映像を見てびっくりしたんよ。」と話してくれたので
「あの土砂崩れのとこ先週復旧したんよ~。」とさらっというと
「え?先週???」
と驚いていた。

伊豆高原のお土産屋さんで「はんこ」をつくった。
「おぢやのおやぢママ」で彫ってもらうことにしたが、
はんこやさんが「中越地震ってあの何年か前の?男の子が救出されたやつだっけ?」
というので「あーよその人にはやっぱりあの映像イコール中越地震なんだなぁ。」と思った。

この一週間私はテレビも新聞も見ていない。
能登地震の情報はほとんどわからないでネットのニュースや過去の新聞を拾い読みしてるくらいだ。

東京はお花見をする人たちでにぎわっていた。
地下鉄には福山のペプシの中吊り広告が吊るされていた。
携帯に地震メールがくるたびに「あ、また能登で余震があったんだ。」と感じるが、それがなければ能登の地震のことなどどこか遠くの国で起こった地震のように思えた。

4月2日。
東京の某オフィスの会議室で。
仕事のパートナーが「今日の朝日新聞見ましたか?山古志が大きくとりあげられていました。」
と新聞紙を持ってきて見せてくれた。
4月1日に避難指示が全面解除になったニュースだった。
おねえちゃんもすぐにメールをくれた。
「今朝の朝刊に大きく出てたね!」
’中越地震あれから2年5ヶ月’として大きく大きくとりあげられている記事を見ながら、全国版でここまで大きくとりあげてくれることをうれしいと思った。

小千谷を離れてわかったこと。
報道されなくなったら落ち着いたと思われるということ。
伝わっている情報はセンセーショナルな話題だけだということ。

伝え続けることは大切なことなんだとあらためて思った。

話があっちこっちしちゃったけど
女二人旅。
いいもんだ。
「またこようね!」
おねえちゃんの笑顔がうれしかった。

フラッシュバック

2007年03月26日 11時15分11秒 | 新潟県中越大震災・地震
長い長い震度4の地震。
ポーンポーンと入る速報。
あわてる母。
鳴り止まないメール。

テレビで繰り返し流れる家屋が倒壊した映像。
テレビ局の揺れる看板。
避難所の被災者とリポーター。
電車から降りてくる乗客のインタビュー。

子供たちは平気そうに見えていたがこころにストレスを感じていた。

「ぼくたちがおじいちゃんちに行くとき新幹線に乗るよね?9:42ごろってどのあたり?」
「え~?まだ長岡の駅でしょ。なんで?」
「新幹線に乗ってるとき地震きたらこわい~。」

おにいは怖がりだ。
’たけしの本当は怖い家庭の医学’を家族で見ていたとき「喘息で死に至ることもあります。」とナレーションが入った途端、顔が青っ白くなって擦り寄ってきた。

中越地震の本震の翌日、上越新幹線が宮内で止まっているところを生で見たし、余震も殆ど体験しているので、’大きな地震がくるとどうなるか’が容易にシミュレーションできるのだ。
それも困ったもんだ。

チビは昨夜また夢を見た。
転寝から起きたときに半狂乱みたいに騒ぎ「こわいよーこわいよーママー!」を繰り返した。
熱はすっかり下がって元気なのに。

家族といるときは平気そうに見えたが、テレビの映像や親の会話などがしっかりと小さなこころにストレスを与えた。

ニュースは流れる。見せないようにするわけにもいかない。
しばらくは注意しなくちゃ、と思っている。

子供達といるときはつとめて地震地震と騒がないようにしたい。

新潟県中越大震災 小千谷総合病院看護部活動記録発刊

2007年03月26日 05時38分40秒 | 新潟県中越大震災・地震
【2004.10.23土17:56 新潟県中越大震災 小千谷総合病院看護部活動記録 その時、看護は・・・】
が発刊されました。




「レスピレーターを必死で握り締めながら、私は死んでもいいからこの患者さんを守り通そう」
震度6や5の余震に立て続けに襲われる中で、「今度階段を上がっていったら、自分は死ぬかもしれない」と壊れた配管から噴出す水が流れ下る階段を駆け上がり、必死に患者さんを搬送し続けた看護師さん。

自ら被災し家族や家のことを気にかけながらも無我夢中で患者さんを守り抜こうと奮闘した小千谷総合病院の看護師さんたちの素晴らしい記録誌です。

小千谷総合病院では震災から3ヵ月後、7ヵ月後、1年後にそれぞれアンケートを実施しました。
看護師さんたちが地震後どのようなストレスで悩まされていたか、どのような気持ちの変化があったかも忌憚なく記されています。
全国から支援していただいた方々への感謝の気持ちと、これを次なる被災地への教訓にしてほしいという真摯な気持ちにあふれた素晴らしい書です。

以下、目次を紹介させていただきます。

【2004.10.23土17:56 新潟県中越大震災 小千谷総合病院看護部活動記録 その時、看護は・・・】

第I章 病院の状況

院内で何が起きたか
災害発生時の対応
震災直後の自家発電とライフライン
院内の管理体制と情報伝達
地震直後の勤務人員数
現状復帰を目指して

第Ⅱ章 各部署の状況と活動

看護部の体制
外来救急室
外来
ふれ愛病棟(療養病棟)
5A病棟、5B病棟、6病棟、7病棟、中材・手術室、腎・糖尿病センター人工透析室、腎・糖尿病センター十日町診療所、透析に関する活動、訪問看護ステーション おぢや、介護老人保健施設 水仙の家

第Ⅲ章 入院患者等への対応

入院患者の避難
水仙の家での避難活動
病棟復旧に向けて
災害対策チームによる活動
ボランティアによる活動
看護部の地域への救援活動

第Ⅳ章 外部からの支援

支援物資
応援いただいた皆様より~ご寄稿~
新潟県立看護大学助教授 中川泉
日本赤十字医療センター 看護師長 板垣知佳子
当院 元看護師 大森享子
福島県 星総合病院 看護師 塩澤広毅
いわき市立総合磐城共立病院 看護師 大楽礼子
いわき市立総合磐城共立病院 看護師 高原敬次
公立藤田総合病院 看護師 菅野光範
いわき市立総合磐城共立病院 看護師 古内理江(旧姓:管家)
いわき市立総合磐城共立病院 看護師 溝井とめ

第Ⅴ章 こころのケアとアンケート調査から

看護部内で実施したこと
地震後のストレスに関する調査
被災者でもある看護師への配慮として
ディズニーランドから訪問
震災を乗り越えて(看護部職員アンケート調査から)

第Ⅵ章 復興イベント~震災から一年~

癒しコンサート たんぽぽの会親睦会
お花の教室 こころのリフレッシュのために・・・
病院内シンポジウム 命がけで仕事をした体験から
復興祈念式典 復興祈念コンサート&Dinner

第Ⅶ章 災害体験の教訓から改善したこと

組織の見直し
大規模災害対策規程の見直し
看護部の防災マニュアルの見直し
透析室の課題と改善
手術室の課題と改善
災害後1年目の防災訓練で強化したこと
「患者の安全確保」において震災が影響したことのインシデントと改善の一部

第Ⅷ章 その時わたしは~震災体験記~

第Ⅸ章 資料

職員の罹災状況
投稿・掲載記事
講演・講義・シンポジストとして
アンケート依頼内容

********
お問い合わせ先
小千谷総合病院(代)0258-83-3600
内線 555(看護部室)
担当 高橋さん (8:30~12:00受付)
********
2100円(送料別)


増版の予定はありませんのでお申し込みはお早めに!

mail: oj-kango@themis.ocn.ne.jp

FAX: 0258-82-6223

【〶 住所・氏名・電話番号・冊数をご明記の上、お申し込みください】

小千谷は震度4

2007年03月25日 12時57分37秒 | 新潟県中越大震災・地震
石川の震度6強の地震速報で

【震度5弱 新潟県中越】

と出たため、県外から心配メールや電話が何通かきました。

小千谷は震度4でした。
ゆるい横揺れが20秒くらい続いたような気がします。

子供たちは「地震?」「まだ揺れてる!」とまわりを見渡しましたが、揺れているあいだ怯えることはなく、3人で仲良く遊んでいました。
落ち着いています。

小千谷を離れている友達からは
「石川・七尾にネット友がいるの。状況がわからないだけに心配。自分の体験がフラッシュバックして涙がでちゃった。」
とメールがきました。

神戸の消防士さんがコメントしてくださったように、ざわざわする嫌な気持ちは人に話して発散したいですね。

原発のある刈羽で5弱というのがちょっと気になりました。

能登では震度1-3の余震が続いています。
「また大きいのがくるんじゃないか。」という恐怖心がしばらく続きます。
はやく家族や大切な人と連絡がとれて安心できますよう小千谷からお祈りしています。

妙見土砂崩れ現場の県道開通!

2007年03月24日 17時08分54秒 | 新潟県中越大震災・地震
長岡まで食事に行った帰りに早速開通したての県道を通ってみることにしました。

報道ヘリでしょうか。






時刻は14:47
妙見の橋から200-300メートル行ったところくらいから軽く渋滞でした。
お!小千谷方面から一台目がキタ━━(゜∀゜)━━!!






思っていたほど圧迫感はありませんでした。
(左側を小走りに走っているのはテレビのカメラマン。右側の脚立の上にいるのは新聞社のカメラマン・・・っぽいです。
さっきYahoo!ニュースに出てたけど、この模様は全国ニュースに流れるのかなぁ・・・)



横渡の三叉路です。
東山へ向かうにはここを経由します。
地震前と比べると少し大廻りになりました。





浦柄(地元)の方でしょうか。
開通したての県道を車が交差するのを見ながらお話をしていました。





夫が(運転してて)「よく見えなかったから逆戻りする!」と。
今度は小千谷方面から長岡方面に向けて撮影してみました。





左の写真の道を通過して景色が開けたところはガードレールがぶら下がっているところです。
風化防止のためにここは現場保存されることになりました。
通過しているときは巨大な岩がゴロッとしているのはわかりますが、ガードレールやアスファルトがそのままの状態になっているのは見えないようになっています。


対岸の三仏生の民家です。
県道が開通したことは喜ばしいことですが、毎日毎日この景色を見ながら生活している人がいると思うと心苦しくなります。




運転中は恐怖感はなかったのですが、対岸からの景色は生々しいままです。







新潟日報の昨日の記事によると
「災害メモリアル拠点整備構想」が固まったとのこと。
小千谷市には災害体験を伝承する体験型ミュージアムを配置するのだということです。

やっぱり地震でした

2007年03月10日 01時01分39秒 | 新潟県中越大震災・地震
さっき、部屋が”ずわっっ”ていったのですが
そんなに揺れなかったので”風かな?”って。
とっさにヤフーの地震情報調べたんだけどなかなかでない・・・。

テレビつけたらやっぱり地震でした。
十日町で震度3
小千谷は震度2
でした。
→Yahoo!地震情報

あらら。
今ごろ携帯に地震メールがきたわ。(10分以上遅れていますw)

失敗は成功のもと

2007年02月22日 09時14分44秒 | 新潟県中越大震災・地震
久しぶりに小学校に行った。
グランドにふと目をやったら仮設住宅がなくなっていた。
あの一人暮らしのおばあちゃんはどうしただろう。
気になる。

我が家の近所にあった小さな仮設住宅もいつのまにかなくなっていた。
先日、仮設住宅に入居していた友達に会ったので
「どこに住むことにした?」
ときいたら
「うち・・・ホラ・・・犬いるじゃん?
小千谷小に通うには日吉の災害復興住宅に入りたかったんだよね。木津は遠すぎるからさ~。
で、申し込んだときはペットダメっていうから、借家借りたのよ。
そしたら借家契約したあとに”ペットOK"ってなってさ~。
そんなことなら借家借りないで日吉の復興住宅に入りたかったよ~。」
と愚痴っていた。

行政の対応が後手後手になったことで不満をもらす人の話はほかでも聞いたことがある。
この教訓を次なる被災地に活かさなければならない。
失敗は成功のもと。

中越地震において我々は
”何ができなかったか””なぜできなかったか”
これを包み隠すことなく開示することが次なる被災地への「見本」になると私は考える。

春になれば災害復旧工事に携わっていた車両が一気にいなくなりさらにさびしくなるだろう。
この3月から4月、被災地は目に見えていた復旧から目に見えない復興への節目を迎える。

女の鑑?!山古志村のマリちゃん

2007年02月21日 08時46分10秒 | 新潟県中越大震災・地震
昨日は主婦の友社の「ゆうゆう」という雑誌の取材でライターさんに同行し”山古志村のマリ”ちゃんを撮影してきました。

”山古志村のマリ”ちゃん
ご存知ですか?

子犬3匹を出産したその日の夕方あの中越地震に遭い、震度6クラスの余震が続く中わが子を守り、さらに倒壊した家の中で身動きできない飼い主のおじいさんをも励まし続けたという”女の鑑”のような名犬なのです。
旧山古志村は全村避難を余儀なくされマリちゃんと子犬たちは村に残ることになるのですが、地震発生から16日後マリちゃんと子犬たちの無事が確認されその2日後にヘリコプターで救出されました。

詳細はこちら

マリちゃんは数々のメディアにとりあげられ一躍有名犬に。
絵本・DVDの出版に続きなんと銀幕デビュー。
とにかく大人気のワンちゃんなのです。

昨日は日差しが春のような暖かさで、最高の撮影日和でした。

私は犬は好きだけど飼ったことがないので

”嫌われたらどないしょ。”

けどいいわんこちゃんでしたね~。
とても人懐っこくて手を差し出すとぺろぺろなめてきました。
(あ!昼ごはんマックだったからマックのにおいがしたのかもしれない!)

またマリちゃんったら”人間の言葉わかるんですか?”というくらい素晴らしいモデルぶり。
こちらがカメラ構えるとポーズをとって静止してくれるんですね~。
おなか見せてカメラ目線静止5秒。
飼い主さんに甘えて見つめあってペロペロペロペロ。
「今シャッターチャンスですよ~~。」といわれてるようで・・。

マリちゃん・・ただものじゃありません。
腕が悪いカメラマンを嗅ぎ分ける能力もあるのでしょうかw
完全にマリちゃんに”撮らせてもらって”おりました。

また私はマリちゃんをママ友のような目で見ていることに気づきました。
子育て中は”シャキッ”と母犬の逞しさを見せていたマリちゃんも、子犬が里親にひきとられてからは飼い主さんにキュンキュン甘えるんだそうです。

ワンちゃんも”こころのケアをする側”の”ケア”が必要なんですね~(ナンテネ)

ハイパーな母マリちゃんにいろんなことを教わったとても充実したひとときでした。
ありがとうマリちゃん。
U。・ェ・。Uノ彡☆

妙見土砂崩れ現場の県道来月開通予定

2007年02月12日 04時29分09秒 | 新潟県中越大震災・地震
妙見の土砂崩れ現場の県道復旧工事中にめずらしい化石が見つかったそうです。
”海牛(カイギュウ)”というジュゴンやマナティーのご先祖さんみたいで、でっかいから”大海牛”というのだそうですが、イメージ的には”大きさ鯨で形はトド”?

200万年以上前のものといわれても想像もできないけど、このあたりでも実際にあんなのが泳いでたんですね~。

また、この県道が来月に開通する予定だということがわかりました。
当初3月28日開通予定でしたが、暖冬少雪で工事が10日ほど早く進んだため20日前後に変更になる可能性あり。
あ、でも化石の発掘でまたストップしたりする?w

対岸からじゃ復旧工事の様子がよくわからなかったので、写真を見たときに
「へー!こんなに掘ってたの?上から見なきゃわからないよ。秘密の道だよ!マチュピチュだよw」
と思いました(^。^;)

昨年の4月と6月に撮影した写真と見比べると、かなり削ったんだなぁ、と一目瞭然ですね。
危険な作業だったと思います。
お疲れさまでした。

ところで”メモリアル構想”ってどうなってんのかなぁ。

うちの町に限って

2007年01月18日 01時22分51秒 | 新潟県中越大震災・地震
阪神・淡路大震災から12年。

1995年1月17日。早朝。
激しい揺れを感じ目が覚めた瞬間「このまま地球は終わってしまうのかもしれない。」と思った。
揺れがおさまりただちにNHKのニュースを見たが、「阪神で大きな地震があり被害がでている模様です。情報が入り次第お伝えします。」くらいの情報だったと記憶している。

そのまま出勤し昼休みにテレビを見たときに愕然とした。

被災した友人には後にいろいろな助言をしてもらった。

水は常に備蓄しておくんよ。家族5人なら2リットルのペットボトル5本はいるよ。
タンスの横で寝たらいけんよ。
ガソリンはいつも半分以上いれておくんよ。

ふんふんときいていた。
そうかそうか、と。

子供が次々に生まれ、生活に追われ、私はいつも毎日毎日のことで頭がいっぱいだった。
防災グッズには関心がありながらも、「また余裕ができたらみてみよ。」と後回しにしていた。

そして・・・。
次にくる大地震がまさか自分の住む小千谷にくるとは夢にも思わなかった。
静岡か首都圏かだとたかをくくっていた。

中越地震があって、福岡西方沖地震があって、北海道でも津波があって。

みんな”そろそろ大きなのがくるんじゃないか?”となんとなく思っていながらも
”まさか自分の町に限って(こないだろう)”
とか
”きたらきたでそのときにならないと実感がわかない”
とか油断しているんではなかろうか。

津波で避難勧告が出ていながらも避難しない人が大勢いるというのも
「こないだも大丈夫だったじゃないか。0.5メートル?今回もたいしたことないんだろ?」と
”まさか”とか”そのときはそのときだ”いう過信があるからだと思う。

これは専門用語で”正常性バイアス”というらしい。
災害が起きたときに”パニックにならないように””冷静に対処しなければ”という心理が過度に働いて、
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。たいしたことない。」と危険に対して感度を下げる心理状態になることをいうらしい。

たとえば、避難勧告が出て腰をあげようとしている人に対して、周りの人が「だいじょうぶ!だいじょうぶ!これくらい。」といえば、「そう?だいじょうぶ?そ。。そよね?だいじょうぶだよね?」と腰を下げてしまうという心理になることだと思う。

「2007年に日本国内で大地震が起きると思うか。」

”起きないかもしれないけど、起きてもおかしくない。”
これが大半の答えのような気がする。

災害が起こったときに”冷静でいる”ということの意味をはきちがえずに、大切な人を守る備えをしてほしい。
そのために”1.17”という日があるのだと思う。

それにしてもイヤな事件のニュースばかりがトップニュースにあげられ、阪神・淡路大震災のニュースは少ないように思えた。
この地震大国。
一年に一日くらい、真剣に防災一色の日があってもいいと思うのだが。

関東で震度3

2007年01月16日 03時30分01秒 | 新潟県中越大震災・地震
2007年1月16日 3時18分ごろ
関東で地震がありました。

震度3

茨城県 茨城県北部
栃木県 栃木県南部
千葉県 千葉県北西部 千葉県南部
東京都 東京都23区
神奈川県 神奈川県東部 神奈川県西部

最近頻発してますよね。
また夜中の地震は嫌ですよね。

全然気づかなかった~~。(爆睡中~)って方もいらっしゃるでしょうがw

トラウマ

2007年01月08日 23時55分27秒 | 新潟県中越大震災・地震
今日の18時59分の地震のとき、みなさんはどこに誰といましたか?
我が家は夕飯を食べ終え家族みんなでくつろいでいました。
家具がガタガタしはじめて
「わっ!」と夫。
「大きいよ!」
「・・・(揺れてる時間が)長いよ。」
「まだ揺れてるよ・・・・。」と口々に。

子供達は誰かしらとスキンシップをしてたので、怖がらずに落ち着いていました。
目の高さにあるオーディオデッキの上のぬいぐるみが踊りだし、ちょっとずつちょっとずつ前へでてきていました。
(物は何も落ちませんでした。)

久々に「怖い」と思いました。
揺れてるあいだに一瞬 雪の中で避難生活?と脳裏をよぎりました。
記憶が瞬時にあの日に高速に巻き戻されてシミュレーションしてしまったのです。

揺れが落ち着いたときに
「ねぇ。どっかで大きい地震があったんじゃないの?」
と夫は言いましたが、私はなぜか
「いや、そうじゃないだろう。ここらだけが揺れてる気がする。」と思いました。

テレビのチャンネルをリモコンで変えまくって地震速報をやってる局をさがしました。
地震速報 新潟県中越地方震度4
とだけ出ました。
やっぱりな・・・。

その後、震度4の市町村をチェックしました。
もろに中越地震の被災地ばかり。

私は2005年8月21日の震度5の余震の日、ひとりでいました。
シャワーを浴びた直後だったので裸でした。
本当に心臓がとびでそうなくらいバクバクしたのを思い出します。

ひとりでいた方、大丈夫だったでしょうか。

仮設住宅に住んでいる方がまだ1500世帯もあります。
年末、災害復興住宅に引越しをされた方もひとりでは心細いことでしょう。
「たまげたて~。」
「おっかなかったて~。」
とはきだせる相手がいるといないのとでは全然違います。

私もしばらくは高揚してしまいました。
普通に戻るまでに数十分かかりました。

心配メールが何通か届きました。
こんなふうに「だいじょうぶ?」とメールが届くのは2年ぶりです。

なかなか書けないことなのですが、精神的にマイっている人が増えたと聞きます。
今回の地震でフラッシュバックされていないか心配です。