去年5月。
旦那さんを急性骨髄性白血病で亡くされたいとこのおねえちゃんが
「二人で旅行に行かない?」
というので、女二人旅を楽しんできた。
おねえちゃんと旅行に行くのははじめて。
「どこでもいいよ。」というので、中間地点をとって伊豆を選んだ。
なつかしいなぁ。
伊豆は学生のときにレンタカーを借りてよく遊びに行った。
都会の喧騒から離れてのんびりするには絶好のエリア。
ひもの屋と小さな漁港・青い海・潮の香り・ところどころであがる湯煙と斜面に生っているサマーオレンジの実。
こののどかな風景がつらく忙しい東京を忘れるにはちょうどよかった。
ん?目にとびこんできたのは道路標識の「135」という数字。
♪イエーイ 南へ走れ 135号線~(Beautiful day)
そうか!福山の愛する135号線ってこのシーサイドラインのことだったんだ!
急にうれしくなった。
おねえちゃんは旦那さんのつらい闘病生活がはじまったときに
「○○ちゃんには言おうと思ったんだけど、やっぱり言えなかった。」とこぼした。
それは ’同じ境遇の人じゃないと共感できないと思ったから。’’心配かけたくなかったから。’
私はこのころ地震のことで頭がいっぱいで、おねえちゃんにメールもしてなかった。
おねえちゃんは今だから言えることや誰にも話せないことをいっぱい話してくれた。
私も二人きりじゃないと話せないことを正直に話して、特に親戚の話でははじめて話す「ここだけの話」にふたり大笑い。(笑いがあとをひく~)
時折こぼれる涙をぬぐいながら、「福山の’wish’はまだ聴けないんよ。
お父さん(おねえちゃんの旦那さん)と本田美奈子.とは闘病の時期が同じだったからさ~。」と言っていた。
***
おねえちゃんが「地震のときは心配で心配でテレビ見ても情報がなくって。
朝になってうつしだされた映像を見てびっくりしたんよ。」と話してくれたので
「あの土砂崩れのとこ先週復旧したんよ~。」とさらっというと
「え?先週???」
と驚いていた。
伊豆高原のお土産屋さんで「はんこ」をつくった。
「おぢやのおやぢママ」で彫ってもらうことにしたが、
はんこやさんが「中越地震ってあの何年か前の?男の子が救出されたやつだっけ?」
というので「あーよその人にはやっぱりあの映像イコール中越地震なんだなぁ。」と思った。
この一週間私はテレビも新聞も見ていない。
能登地震の情報はほとんどわからないでネットのニュースや過去の新聞を拾い読みしてるくらいだ。
東京はお花見をする人たちでにぎわっていた。
地下鉄には福山のペプシの中吊り広告が吊るされていた。
携帯に地震メールがくるたびに「あ、また能登で余震があったんだ。」と感じるが、それがなければ能登の地震のことなどどこか遠くの国で起こった地震のように思えた。
4月2日。
東京の某オフィスの会議室で。
仕事のパートナーが「今日の朝日新聞見ましたか?山古志が大きくとりあげられていました。」
と新聞紙を持ってきて見せてくれた。
4月1日に避難指示が全面解除になったニュースだった。
おねえちゃんもすぐにメールをくれた。
「今朝の朝刊に大きく出てたね!」
’中越地震あれから2年5ヶ月’として大きく大きくとりあげられている記事を見ながら、全国版でここまで大きくとりあげてくれることをうれしいと思った。
小千谷を離れてわかったこと。
報道されなくなったら落ち着いたと思われるということ。
伝わっている情報はセンセーショナルな話題だけだということ。
伝え続けることは大切なことなんだとあらためて思った。
話があっちこっちしちゃったけど
女二人旅。
いいもんだ。
「またこようね!」
おねえちゃんの笑顔がうれしかった。
旦那さんを急性骨髄性白血病で亡くされたいとこのおねえちゃんが
「二人で旅行に行かない?」
というので、女二人旅を楽しんできた。
おねえちゃんと旅行に行くのははじめて。
「どこでもいいよ。」というので、中間地点をとって伊豆を選んだ。
なつかしいなぁ。
伊豆は学生のときにレンタカーを借りてよく遊びに行った。
都会の喧騒から離れてのんびりするには絶好のエリア。
ひもの屋と小さな漁港・青い海・潮の香り・ところどころであがる湯煙と斜面に生っているサマーオレンジの実。
こののどかな風景がつらく忙しい東京を忘れるにはちょうどよかった。
ん?目にとびこんできたのは道路標識の「135」という数字。
♪イエーイ 南へ走れ 135号線~(Beautiful day)
そうか!福山の愛する135号線ってこのシーサイドラインのことだったんだ!
急にうれしくなった。
おねえちゃんは旦那さんのつらい闘病生活がはじまったときに
「○○ちゃんには言おうと思ったんだけど、やっぱり言えなかった。」とこぼした。
それは ’同じ境遇の人じゃないと共感できないと思ったから。’’心配かけたくなかったから。’
私はこのころ地震のことで頭がいっぱいで、おねえちゃんにメールもしてなかった。
おねえちゃんは今だから言えることや誰にも話せないことをいっぱい話してくれた。
私も二人きりじゃないと話せないことを正直に話して、特に親戚の話でははじめて話す「ここだけの話」にふたり大笑い。(笑いがあとをひく~)
時折こぼれる涙をぬぐいながら、「福山の’wish’はまだ聴けないんよ。
お父さん(おねえちゃんの旦那さん)と本田美奈子.とは闘病の時期が同じだったからさ~。」と言っていた。
***
おねえちゃんが「地震のときは心配で心配でテレビ見ても情報がなくって。
朝になってうつしだされた映像を見てびっくりしたんよ。」と話してくれたので
「あの土砂崩れのとこ先週復旧したんよ~。」とさらっというと
「え?先週???」
と驚いていた。
伊豆高原のお土産屋さんで「はんこ」をつくった。
「おぢやのおやぢママ」で彫ってもらうことにしたが、
はんこやさんが「中越地震ってあの何年か前の?男の子が救出されたやつだっけ?」
というので「あーよその人にはやっぱりあの映像イコール中越地震なんだなぁ。」と思った。
この一週間私はテレビも新聞も見ていない。
能登地震の情報はほとんどわからないでネットのニュースや過去の新聞を拾い読みしてるくらいだ。
東京はお花見をする人たちでにぎわっていた。
地下鉄には福山のペプシの中吊り広告が吊るされていた。
携帯に地震メールがくるたびに「あ、また能登で余震があったんだ。」と感じるが、それがなければ能登の地震のことなどどこか遠くの国で起こった地震のように思えた。
4月2日。
東京の某オフィスの会議室で。
仕事のパートナーが「今日の朝日新聞見ましたか?山古志が大きくとりあげられていました。」
と新聞紙を持ってきて見せてくれた。
4月1日に避難指示が全面解除になったニュースだった。
おねえちゃんもすぐにメールをくれた。
「今朝の朝刊に大きく出てたね!」
’中越地震あれから2年5ヶ月’として大きく大きくとりあげられている記事を見ながら、全国版でここまで大きくとりあげてくれることをうれしいと思った。
小千谷を離れてわかったこと。
報道されなくなったら落ち着いたと思われるということ。
伝わっている情報はセンセーショナルな話題だけだということ。
伝え続けることは大切なことなんだとあらためて思った。
話があっちこっちしちゃったけど
女二人旅。
いいもんだ。
「またこようね!」
おねえちゃんの笑顔がうれしかった。