日常において、誰かを心配するってあると思います。
子供や夫、親や兄弟など、家族に関わる心配もあると思いますが、それとは違う心配もあると思います。
例えば、◯◯さんは、どうしてこんな風にするんだろう。とか、こうするからいけないんだと思う。とか、こうすればいいのに。みたいな、深く関わらないけれど、雑談の中に出てくる周りの方や子供への「心配」や時によっては「批評」になってしまう事。
テレビや雑誌で流れる内容を元に、日本という国や社会の人間関係、若者への心配や批評をされる言葉もよく聞きます。
それについて考えてみました。
色々な大人の会話を聞いて、かつて、私は子供心に、でも何もしないんだ~と思っていたのを思い出します。
そして、いま、ついつい自分が世間話の中でそんな「心配」や「批評」話をしていると感じます。
仕事の関係や友達関係、親子関係、地域の関係、やはり社会にたいしてもあります。
でも、話をしても、すっきりしないんです。何だか、相手の悪口を言ってるみたいで(>_<)
なんだか、自分の良心はそれを「良し」としていない感じがして(>=<)
で、考えてみました。
話に出るのは自分や相手が気にかけていることで、何とか助けてあげたい。や、自分でも何かできる行動があると感じているんじゃないかな。と
だったら、話の流れを、ただ「心配」や「批評」で終わらせるのではなく、言うだけにせず、自分に出来ることを模索し、導き出す方向に持って行けば良いのではないかと。
模索や導き出すっていうと、堅苦しい感がありますが、要するに、会話にでるそれは自分にも何かできるってことだから、自分なりの何かを考え、行動するって事。
そうすれば、その人に対して自分にできる事も見つけられるし、何より気持ちが爽やかになれると感じます
何かを行動してもすぐには変わらないと思います。
でも、必ず、その思いやりの気持ちを持ち行動した変化はあります
何もしなかったときとは違い、それにより波紋のように必ず変化が起きます
自分にできる事をして、それでどう変化していくかを静観し、また出来ることが見つかれば動けばいい。
「相手を助けてあげる」気持ちよりも、「私が出来ることを見つけた。」の気持ちだと、例え相手から感謝されなくても、相手に気持ちが伝わらなくても、自分自身が良心が感じる行動ができたことで、きっと気持ちがすっきりして爽やかだと感じます
相手を心配してるのか、批評しているのかわからないときよりも、必ず自分自身の人生の糧になります
そして、周りにむける自分の笑顔も変わり、周りもかわってきます
眉間のシワが、笑いシワになるかも♪♪
何も見つからなかったときは、相手も頑張って生きているのだから。と誉めて終わればいいのかも♪♪
自分なりに必ずみんな一生懸命生きていますもんね
国や社会、地域や学校に対しても同じだと思います。
自分の出来ることを模索し、行動する。それしかできないし、それが一番大切な感じがします
ゴミ拾いや道路脇や自宅の花壇でも、見る方のため、花を植えてる方を見て、本当に素晴らしいと感じます
次は、その方達に感謝を言葉で伝えてみます
皆さんの「心配」が、「思いやりの行動」に変われば、国だけではなく世界中が必ず変わっていきますね
言葉だけよりも、行動が大切昔からよく聞いていたな~
行動が自分の良心に沿っていれば、絶対間違えはないと私は確信しているんです
その根底には、相手や自分の人生を「信頼する」という気持ちが隠れています。
素敵ですね
わたしも、今から変えて行きますね
今日も生かして頂いてありがとうございます