時代劇巨編に続いて多く描かれたのが、ウエスタン物である。
ウエスタン物では、チビ太を主役として迎えた作品が、その大半を占めているが、いずれも、これまでのチビ太とは一味も二味も違うハードボイルドな役柄を手堅い演技で熱演しており、哀愁漂うマカロニウエスタンの規範的な様式美に準えつつも、センチメンタリズムの中に、笑いとアクションの背中合わせを目論んだ、通俗的解釈による脱構築が、『おそ松』ワールドに、新たな機軸となるエポックを鼓吹するに至った。
極めて初期の段階で、お尋ね者のチビ太とシェリフの六つ子の対決をアメリカ製アニメを思わせるスラップスティック満載の笑いでテンポ良く紡いだ「おそ松ウエスタン おでんの決闘」(「別冊週刊少年サンデー 春季号」64年4月1日発行)なる作品も発表されたが、こちらは、チビ太と六つ子達によるウエスタンごっこの延長のような悪戯ぶりを幾層にも重ねたコント仕立てのエピソードだった。
孤高で凛々しい、チビ太のニヒリスティックな魅力を最初に引き出したと言えるのが、今も尚、西部劇映画の永遠の名作として語り継がれている『シェーン』(監督・ジョージ・スティーヴンス/主演・アラン・ラッド)をベースにして描いた「荒野に夕日が沈むとき」(「週刊少年サンデー増刊 夏休みまんが号」65年8月1日発行)ではないだろうか。
さすらいのガンファイター・チビ太がふらりと立ち寄った先は、悪辣な地主(おそ松ファミリー)が無法の限りを尽くす開拓農地だった。
空腹のチビ太は、その土地のデカパン農場のファミリーに助けられ、街の用心棒として、しばしデカパンのもとに身を寄せるが、松の木一家による弾圧は更にエスカレートし、遂には、チビ太を街から追い出そうと、腕利きの殺し屋・イヤミを雇う。
松の木一家とイヤミの無法に対し、憤怒に奮えるチビ太は、その暴虐の鎖を断ち切るべく、単身、松の木一家へと乗り込み、イヤミとの闘いを申し出る。
熾烈なガンファイトの末、チビ太はイヤミに勝利し、それと同時に、松の木一家は街を追われるように去って行く。
街に平和が訪れた。
デカパンファミリーに別れを告げ、牧場を後にするチビ太を呼び止めるデカパンの息子・ハタ坊の悲痛な叫びが、夕日の沈む荒野に響き渡る。
ドラマのスピード感やアクションシーンにおける臨場感は、その後、更にページ数を増大する『おそ松』版ウエスタンに比べ、多少見劣りはするものの、比較的短いページ数の中にも、素朴な抒情感を漂わせ、転調と緩急の往還を重ねながら、活劇シーンにおける見せ場を効果的に創出する辺りは、勧善懲悪のドラマトゥルギーに雑多な要素が絡み合うウエスタンシネマ本来の醍醐味が不足なく感じ取れ、中期『おそ松くん』としては、演出面においても、肌理の細やかさと奥行きを深めた一編と言えるだろう。
「シェリフ・チビータは勇者だった」(67年46号)では、チビ太は、ダヨーン保安官の助手で、無法者の殺し屋・イヤミとの対決で、絶体絶命のピンチに立つダヨーン保安官を命懸けで救う勇敢な少年を熱演。自らの命と引き換えに、イヤミを倒し、ダヨーンの胸の中で息を引き取る「泣かせ」の芝居を披露した。
悪漢のイヤミもまた、自らを撃ち抜いたチビ太を物陰から狙い撃ちする手下に向かい、薄れゆく意識の中で、銃を取るという、ヒールでありながらも、揺れ動く優しい胸中を真っ当なダンディズムで演じ切るという微妙な役どころを見事にこなし、イヤミもチビ太も、一本調子ではない、硬質な渋みを効かせる心憎さを纏った、いぶし銀の演技で魅せる名優へとステップアップしてゆく。
因みに、本エピソードでは、バカボン親子が、ライバル誌「週刊少年マガジン」よりゲスト出演するレアシーンもインサート。イヤミに対決を挑み、あっさりやられてしまうコメディーリリーフを演じさせ、緊張が張り詰めた重いストーリーの場をほんの一瞬だが、和ませる遊び心も忘れてはいない。