文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

『おそ松くん』ショック ノンフィクショナルな笑いへのパラダイムシフト

2019-11-11 14:25:50 | 第2章

『おそ松くん』が旧世代のユーモア漫画を完膚なきまでに淘汰し、他の追従を許さないそのアンチテーゼとなり得た要因の一つに、機を見るに敏に、流行や時代風俗、社会世相を作品世界に反映させ、少年読者にとって、カルチャーや情報の発信地の役割を果たしていた点も挙げられる。

無論、『おそ松くん』が流行の発生源となっていたことは、言うまでもないが、それと同じく、テレビの人気タレントが発する流行りのフレーズ、話題のテレビコマーシャル、その時、幅広く親しまれていた旬の流行歌などをギャグや台詞に巧みに取り込み、時には時事問題や政治情勢の報道や批評までもさりげなくテーマとして扱うなど、日々、新聞やニュースなどから伝わる社会的な事件や事象を子供達の共有意識として、笑いの中に浸透させ、ある種の情報空間としてのアナロジーを開示していたことも、それまでのギャグ漫画のトラディショナルスタイルを打ち砕いた新鮮さであった。

具体的な例を挙げると、連載初期の段階から、聖徳太子の偽千円札が出回り、伊藤博文の新千円札が発行される契機となった「チ‐37事件」、厚生省によるコレラ防疫のための台湾産バナナの全面輸入禁止、産業の発展に伴う光化学オキシデント等によるスモッグ汚染の深刻化、所得倍増計画を推進し、高度経済成長の立役者となった自民党・池田勇人内閣の大躍進、東京五輪開幕に向けた莫大な公共資金投入による大規模な首都改造といった、世間を騒がし、また賑わした社会的な事柄が、ギャグのネタやフレーズとして時宜に適して使われ、連載中期から後期に至っては、「𠮷展ちゃん事件」や「三億円事件」といった戦後の重大事件までが、そのままストーリーの題材として扱われた。

戦後最大の誘拐事件と呼ばれた「𠮷展ちゃん事件」は、事件発生とその悲憤に満ちた惨劇から二年の歳月を経て、迷宮入り寸前のところ、漸く被疑者逮捕へと至った際、「電話をひけば大さわぎ」(65年30号)で、六つ子とチビ太が入れ代わって誘拐されるトラブルに絡めて描かれ、二十世紀最大のミステリーと呼ばれた「三億円事件」は、強奪されたジュラルミンケースが発生から四ヶ月を経て、現金を積み替えた逃走車両とともに発見された正にその直後、『ア太郎+おそ松』の「いまにみていろミーだって」(69年21号)で、バカボンのパパとイヤミの親子によって、やはり劇中、奪われたジュラルミンが、犯人が乗り捨てた車から発見されたことに端を発する狂騒劇のモチーフとして、臨場感溢れる演出効果を表出しつつ、取り上げられている。

他にも、松代(六つ子の母親)が突然懸賞小説を書き始める「かあさん懸賞小説をかく」(65年23号)などは、当時、専業主婦の間で、雑誌や新聞への投書が静かなブームとなり、投書夫人なる言葉が生まれたことに着想を得ていることは一目瞭然であり、また、イヤミが開業した温泉にニワトリ型の純金風呂があると知った松代に唆されたおそ松とチョロ松が、その浴槽をかじり取りに行く「金のおフロに入ってちョ」(66年8号)は、有名な熱海の船原ホテルが純金風呂を導入し、頻繁にマスコミで取り上げられていた頃に描かれたエピソードであるように、トリビアルなトピックさえも果敢なまでに漫画の中に取り込まれ、ライブ感覚が横溢するタイムリーな笑いを『おそ松くん』は次々と仕掛けてゆく。

このように、『おそ松くん』は、驚異的に産業規模を拡大させた経済成長に伴うマスメディアの発達と比例し、子供社会においても、日々目まぐるしく塗り替えられてゆく情報やトレンドの集積が、生活のあらゆる慣習や資源と同等のバリューを具有する社会構造へとスライドした時代の転換期に、常にフレッシュな娯楽やムーブメントを提供し得る週刊サイクルの機能性と、オンタイムで映し出された同時代的なジャーナリズムを相互作用させることで、貪欲なまでに新たな刺激を欲する子供達の感性に多大な強磁性を及ぼし、笑いの潮流を季節的な定番ギャグを核とした牧歌的な滑稽から、世相風俗を横取りする情報化社会に適合したノンフィクショナルな笑いへと転化させた。

つまり、少年漫画における笑いのサブスタンスそのものを飛躍的に変貌させ、ギャグ漫画のパラダイムシフトを起こした最初の作品こそが『おそ松くん』だったと言えるだろう。

当時、同業者は『おそ松くん』ショックをどう捉えていたのか。

手前味噌で恐縮だが、以前筆者(名和)が、藤子不二雄Ⓐに取材した際、『おそ松くん』登場の衝撃を物語る次のような言葉が返ってきたのが印象深かった。

「『おそ松くん』というのはさ、非常に活気があるというか、スラップスティックが強烈で、笑いの漫画としては、今までにない異常なテンションに満ちた作風だったんだよね。同業の僕らが読んでも、新鮮で面白く、間違いなく漫画界に革命をもたらした作品なんだ。」

(『赤塚不二夫大先生を読む 「本気ふざけ」的解釈 Book1』社会評論社、11年)

60年代半ばから70年代にかけて、藤子Ⓐもまた、『忍者ハットリくん』、『怪物くん』等のヒット作や『フータくん』や『黒ベエ』といったギャグ漫画での傑作、怪作を連続して生み出してゆくが、創作欲の向かう傾斜量がギャグ漫画へと大きく傾いてゆく動機付けとなったのが、赤塚の『おそ松くん』であり、これらの作品を描くうえで、赤塚ギャグを仮想ライバルとして捉えていたであろうことがこの発言から窺える。

また、これに前後して、森田拳次の『丸出だめ夫』、『ロボタン』、つのだじろうの『ブラック団』、『忍者あわて丸』といった人気作も続々登場する。

そして、石ノ森章太郎もヒットこそしなかったものの『ボンボン』や『ドンキッコ』等のギャグ漫画を、やはりこの時期に集中して執筆。週刊誌、月刊誌問わず、雨後の筍の如く、様々なギャグ漫画の連載が開始するに至り、漸く漫画界にもギャグのブームが到来した。

そう、児童漫画における従来の笑いのフレームを劇的に変貌させた『おそ松くん』の彗星の如くの登場とその超越的な人気の爆発が、ギャグ漫画というジャンルそのものが活性化してゆく起爆剤となり、また漫画界において、ギャグ漫画がメジャーの権利を獲得する大きな切っ掛けとなったと言っても憚らないだろう。