第三弾は、芥川賞受賞作家であり、狐狸庵先生の愛称でも親しまれた遠藤周作の同名小説を原作に得た『おバカさん』(78年7号~14号)という短期集中連載作品。
フランスの皇帝・ナポレオン・ボナパルトの血を引くガストンという、一見間の抜けた風にも見える心優しき青年が、信玄袋一つぶらさげてやって来た日本で巻き起こす価値転倒の珍騒動をドラマの骨格に据えた『おバカさん』だが、最大の見処は、ガストンが、肺病に苦しむ殺し屋・遠藤の心を救うべく、憎き仇が住むという遠い山形まで行動を共にし、その復讐を命懸けで阻止しようと臨むクライマックスシーンであろう。
些か常軌を逸しているとも取れないガストンの善意には、得体の知れない奇異さを感じる向きもあろうが、その直向きな博愛の精神は、単なるヒューマニティーでは片付けられない、神々しいまでの尊厳をも纏って見えさえする。
人種間に生じる価値観の相違や微妙な温度差をそのまま笑いに転化していこうと試みたものの、不発に終わってしまったというのは、赤塚の弁だが、泣き笑いを滲透させたその喜悲劇には、本家『おバカさん』とはまた違った、赤塚独自の叙情的介入があり、リズミックなその構成力も含め、充分な読み応えを秘めたシリーズだ。
等身大に近いデザインで設定された、登場人物達のキャラクターメイクや、簡略化されていない細やかな筆致でレイアウトされた背景など、先行する『建師ケン作』、『ハウスジャックナナちゃん』とも趣きを変えた半劇画的なタッチで描かれており、別作家の作品世界に足を踏み入れたかのような、毛色の違った感度を指し示したその劇画的演出の妙は、その後、赤塚の物語作家としての回帰を示唆するかの印象を与えたが、以降、赤塚漫画がストーリー漫画との分極化の道を辿ることがなかったのは、ファンとしては、些か残念なところでもある。
また、これらのタイトル以外にも、『日本亭主図鑑』、『ブンとフン』等、井上ひさしの傑作小説の数々をコミカライゼーションした『ひさし・不二夫の漫画全集』(「週刊小説」76年2月13日号~9月13日号)という連作が、原作付き赤塚漫画にはある。いずれの挿話も、ギャグとパロディーが交錯するどんでん返しの劇構造に、赤塚一流の諧謔性を重ね合わせ、良質のコラボレートに纏め上げた、傑作、怪作の部類に範疇化されて然るべき作品群だ。
余談だが、井上ひさしと赤塚は、お互いの才能を認め合う間柄であり、当時、多忙を極めつつも、井上の著作『井上ひさしコント集』(講談社、75年)の装丁とイラストを担当するなど、本作以外にも、井上との共同作業は少なくない。
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『天才バカボン』、そして『もーれつア太郎』のスマッシュヒットは、赤塚にとって、更なる笑いの進化を辿り得る、途方もないビッグバンとなり、その後も、ありとあらゆる出版媒体にて、様々な実験作を世に送り出す。
次章では、『天才バカボン』が「週刊少年マガジン」へと再び返り咲き、『レッツラゴン』で新たなナンセンスの類型を呈示してゆく1971年以降の、即ち、赤塚不二夫第三の黄金期の仕事の流れと、その前後を挟んで発表された諸々のタイトルの分類と検証を中心に、その世界観を掘り下げ、論及してゆきたい。
1970年代前半、赤塚は、『天才バカボン』、『レッツラゴン』の同時連載に、『ギャグゲリラ』を新たに引っ提げ、そのエクスプレッションは、更にアバンギャルドな先鋭性と破壊性を帯びていった。
かつてのギャグ漫画のライバル達が、ストーリー漫画へとシフトチェンジしたり、前線から離脱するなど、事実、ギャグ漫画というジャンルで、赤塚同様の活躍を誇示する作家はおらず、まさに、『バカボン』、『レッツラゴン』、『ギャグゲリラ』の同時連載時期は、赤塚の独り勝ち状態にあった感さえある。
三度目の絶頂期を迎えていたこの時の赤塚の主要作品には、週刊誌メディアの特性を活かし、時代と密接に渡り歩きながらも、漫画というメディアにおける既成の表顕スタイルそのものに真っ向から拮抗してゆく、破格の凄みさえ漂わせていたのだ。
だが、この時代、赤塚が作り出した、多種多様な笑いのメソッドが、その後も決して亜流を生まない、強烈なインパクトを発揮する強靭性とともに、読者の共感的感性から峻別してゆく、ある種の脆弱性を含有する二律背反的構造に支配されていたのも、また事実だった。
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