1976年、『元祖天才バカボン』の便乗企画としてスタートしたショートショート版『天才バカボン』の連載が終了。「月刊少年マガジン」掲載の通常版は、そのまま継続連載されるが、「週刊少年マガジン」では、五十嵐記者の発案から、新たな赤塚ワールドの展開を目指し、77年から78年に掛け、新形式の原作付きのストーリー漫画が三本連載される。
その第一弾となったタイトルが、『釘師サブやん』、『包丁人味平』等のヒットで有名な牛次郎原作による、本邦初となるハウジング漫画『建師ケン作』(1977年2号~31号)である。
大工見習いの少年・都建作は、仕事熱心で、どんな逆行をもはね除けてゆく不屈の闘志の持ち主だった。
建作は、周囲からの人望も厚い親方のもとで修行を重ねながら、様々な出会いと勝負を繰り広げ、一流の大工職人への階段を一歩一歩昇ってゆく。
ある日、大仕事を請け負ったことから、親方は、腕の立つ職人である小笠原に助っ人を要請し、建作らを指示する立場として招き入れるが、ここでトラブルが発生してしまう。
小笠原に自身のミスを指摘された建作が、つい感情的になってしまい、小笠原に対し、罵詈雑言を浴びせてしまったのだ。
その後、親方の仲裁により、事なきを得たかに思えたが、先輩職人としてのプライドを傷付けられた小笠原の怒りは、収まり切れなかった。
そんな時、親方に邸宅の施工を依頼していた施主が現れ、建作と小笠原に対し、自らの敷地に、お互いが二〇坪の家を建て、その出来を競い合う、ハウジング対決を提唱する。
勇み立った建作は、その勝負、真っ向から受けて立つが、長年の経験に裏付けされた小笠原の実力は、見習いの建作がとても太刀打ち出来るようなレベルではなかった……。
当初、赤塚もこの新連載には、意気軒昂ぶりを示しており、連載開始にあたっての打ち合わせで、牛次郎に「空が屋根で、地面が畳というように、建物(スケール)のでっかい話を描きたい」と伝えたが、出来上がった原作は、『釘師サブやん』から連綿と続く、牛原作お得意の対決物に終始してしまい、赤塚を辟易させてしまったという。
そんな牛次郎の原作を読み、一気に創作意欲が失せてしまったという赤塚は、第一話を除き、作画をチーフスタッフの斎藤あきらに、ほぼ全般を委ね、自身はあくまで構成のみに徹することになる
また、斎藤の述懐(電子書籍『漫画仕事人参上‼』第3巻・第4巻、18年、『まんだらけZENBU』にて連載の作品をまとめたもの)によれば、都建作をはじめとするキャラクター全般のデザインも、実質斎藤が担当したうえ、牛次郎の原作執筆も遅れがちという、マイナス要因も重なり、連載開始当初から、負け戦必至の勝負だったようだ。
実際、『ケン作』は、ビルドゥングスロマンとしても、盛り上がりに乏しかったため、読者の気受けが一向に高まらず、その結果、連載回数全二八回で最終回を迎え、「マガジン」誌上よりフェードアウトしてゆく。
とにかく気に入らないと後先考えずにすぐ相手に食って掛かる、行動に知識も計画性も無いから不要なトラブルを起こして周囲に迷惑をかけまくる。論争の過程で反論も出来ず「なに!」と恫喝めいた言葉でやりかえそうとする。それでいて何だか分からない内に偶然が重なって事態が収束してしまう。共感もへったくれもあったものではなく。こいつが出て来るだけで不愉快になりました。
連載が終わった時は「あー、やっと終わったか」心からホッとしたものです。
ならば一層のこと、赤塚完全オリジナルによるハウジング漫画を拝読してみたかったですね。
少なくとも、ケン作よりもずっと面白い作品になっていたかと思うのですが💦
原作が牛次郎とは。かつて赤塚は「バカボン」や「レッツラゴン」で牛を、水島新司同様に「男ドブス」とからかってましたが、まさかその牛でコンビを。縁は異なもの味なもの、ですな。