第三章の紙幅も残り僅かになってきたので、最後に、赤塚少女漫画の終着点的な位置付けの作品にして、少年向け赤塚ギャグを凌駕しかねないポイゾナスなエレメントが強固に押し出された『わんぱく天使(エンゼル)』(「プリンセス」76年5月号~77年5月号)を紹介しつつ、本章を締め括ろうと思う。
『わんぱく天使』は、美人の女子高生の姉を餌に、姉に好意を抱く非モテ系男子の自尊心を誘導してたぶらかせては、彼らから金品を騙し取るという、末恐ろしい悪ガキの弟・キヨシを主人公とした、もはやロマンティシズムの欠片もない、ピカレスクな笑いが徹底して貫かれたシリーズだ。
毎回、キヨシに加虐の矛先を向けられる恋愛劣等生らも、痛々しくも青臭い、所謂草食系男子でありながらも、ナイーブな欲望を直球で投げ掛けるボンクラ学生であったり、また岡本ゴム次郎(凄いネーミングだ……)のように、長年恋にあぶれ、倒錯した異性への憧れを内に秘めた軟弱な中年男性など、侮蔑的な笑いの対象としては、見事なまでに逸材揃いであるが、それと同時に、都合の良い妄想を重ねては、キヨシに陥れられる辛辣な彼らの現実は、まだ異性との付き合いもなく、当然ながら、男女の深淵など理解し得なかった自らの遠い過去の感傷とシンクロし、何処か、読む者の心の奥底を擽る、決まりの悪い自嘲的な笑いを宿している点も否めない。
1976年という時節柄、赤塚漫画がほぼ絶頂期を終え、マンネリ化に抗するかの如く過渡期的な試行錯誤が、全編に渡って垣間見られ、各エピソード、赤塚時代終焉の徒花のような感触もなきにしもあらずだが、ナンセンスギャグというフィルターを通して通読すれば、少女漫画でありながらも、その笑い一つ一つに漂う刺激と香り立ちが味わい深く、ちょっぴり物悲し気で、そして何処かフレンジーに富んだユーモアにも通じ合う側面を備えている点も、本作の特色と言えるだろう。
『わんぱく天使』は、版元こそ異なるものの、同年小学館の「週刊少女コミック」に発表された読み切り短編『ませガキ』(76年6号)を試金石としたシリーズである。
当然ながら、『わんぱく天使』のプロトタイプとなったこの『ませガキ』も、少女漫画でありながら、そのアピアランスから遠く掛け離れた、毒気たっぷりな笑いが過激に横滑りしてゆく、同時期の少女向けギャグ漫画と比較しても、異端の存在で、当時「週刊少年サンデー」編集部で長らく赤塚番を務めていた武居俊樹が、「週刊少女コミック」に人事異動した際、赤塚作品を正月発売号の売り込みの中心に据えるべく企画したことにより、描かれた作品であったことも、ここで補記しておこう。
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このように、本章では、赤塚が、ギャグ漫画家としての作家性を圧倒的な域へと到達させ、渾身の力作を意気軒昂に大量生産していた時代を中心に、メジャー少年誌以外に発表された少女漫画やファンタジー漫画に紙幅の許す限りページ数を割き、それら知られざる赤塚ワールドを筆者独自のメディアリテラシーに基づき、執拗且つ濃密に論じてきた。
今回、これら一作一作を玩味し、一つのゾーンとして掘り下げる作業を進めてゆく中、盲点を附くような不如意な魅力や、次々と規範を解体し、新たなメインストリームへと繋げてゆく赤塚漫画ならではのある種の革新的要素が、笑いのポイントとなって然るべき主要な局面において、再確認させられるなど、その作品世界のレンジの広さを改めて痛感した。
本稿で論じた作品群の中では、事実『ひみつのアッコちゃん』以外、世間一般には概ね認知度の低いものばかりで、現在の漫画センスから鑑みた際、今尚普遍化され得るのか、甚だ疑問の残るところでもあるが、それでも、各種各様、至るところで散見される前衛的発想と、遊び心満載のポップな表現センスは、決してその輝きを失っていないかに思える。
それら諸作品もまた、『おそ松くん』や『天才バカボン』といった代表的な赤塚作品にも一脈通じる、戦後ギャグ漫画の文化遺産として時代を超えて広く認知されるとともに、再評価の気運が高まることを願ってやまない。