文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

ピカレスクな笑いを徹底的に貫いた最後の赤塚少女漫画『わんぱく天使』

2020-06-10 12:20:53 | 第3章

第三章の紙幅も残り僅かになってきたので、最後に、赤塚少女漫画の終着点的な位置付けの作品にして、少年向け赤塚ギャグを凌駕しかねないポイゾナスなエレメントが強固に押し出された『わんぱく天使(エンゼル)』(「プリンセス」76年5月号~77年5月号)を紹介しつつ、本章を締め括ろうと思う。

『わんぱく天使』は、美人の女子高生の姉を餌に、姉に好意を抱く非モテ系男子の自尊心を誘導してたぶらかせては、彼らから金品を騙し取るという、末恐ろしい悪ガキの弟・キヨシを主人公とした、もはやロマンティシズムの欠片もない、ピカレスクな笑いが徹底して貫かれたシリーズだ。

毎回、キヨシに加虐の矛先を向けられる恋愛劣等生らも、痛々しくも青臭い、所謂草食系男子でありながらも、ナイーブな欲望を直球で投げ掛けるボンクラ学生であったり、また岡本ゴム次郎(凄いネーミングだ……)のように、長年恋にあぶれ、倒錯した異性への憧れを内に秘めた軟弱な中年男性など、侮蔑的な笑いの対象としては、見事なまでに逸材揃いであるが、それと同時に、都合の良い妄想を重ねては、キヨシに陥れられる辛辣な彼らの現実は、まだ異性との付き合いもなく、当然ながら、男女の深淵など理解し得なかった自らの遠い過去の感傷とシンクロし、何処か、読む者の心の奥底を擽る、決まりの悪い自嘲的な笑いを宿している点も否めない。

1976年という時節柄、赤塚漫画がほぼ絶頂期を終え、マンネリ化に抗するかの如く過渡期的な試行錯誤が、全編に渡って垣間見られ、各エピソード、赤塚時代終焉の徒花のような感触もなきにしもあらずだが、ナンセンスギャグというフィルターを通して通読すれば、少女漫画でありながらも、その笑い一つ一つに漂う刺激と香り立ちが味わい深く、ちょっぴり物悲し気で、そして何処かフレンジーに富んだユーモアにも通じ合う側面を備えている点も、本作の特色と言えるだろう。

『わんぱく天使』は、版元こそ異なるものの、同年小学館の「週刊少女コミック」に発表された読み切り短編『ませガキ』(76年6号)を試金石としたシリーズである。

当然ながら、『わんぱく天使』のプロトタイプとなったこの『ませガキ』も、少女漫画でありながら、そのアピアランスから遠く掛け離れた、毒気たっぷりな笑いが過激に横滑りしてゆく、同時期の少女向けギャグ漫画と比較しても、異端の存在で、当時「週刊少年サンデー」編集部で長らく赤塚番を務めていた武居俊樹が、「週刊少女コミック」に人事異動した際、赤塚作品を正月発売号の売り込みの中心に据えるべく企画したことにより、描かれた作品であったことも、ここで補記しておこう。

このように、本章では、赤塚が、ギャグ漫画家としての作家性を圧倒的な域へと到達させ、渾身の力作を意気軒昂に大量生産していた時代を中心に、メジャー少年誌以外に発表された少女漫画やファンタジー漫画に紙幅の許す限りページ数を割き、それら知られざる赤塚ワールドを筆者独自のメディアリテラシーに基づき、執拗且つ濃密に論じてきた。

今回、これら一作一作を玩味し、一つのゾーンとして掘り下げる作業を進めてゆく中、盲点を附くような不如意な魅力や、次々と規範を解体し、新たなメインストリームへと繋げてゆく赤塚漫画ならではのある種の革新的要素が、笑いのポイントとなって然るべき主要な局面において、再確認させられるなど、その作品世界のレンジの広さを改めて痛感した。

本稿で論じた作品群の中では、事実『ひみつのアッコちゃん』以外、世間一般には概ね認知度の低いものばかりで、現在の漫画センスから鑑みた際、今尚普遍化され得るのか、甚だ疑問の残るところでもあるが、それでも、各種各様、至るところで散見される前衛的発想と、遊び心満載のポップな表現センスは、決してその輝きを失っていないかに思える。

それら諸作品もまた、『おそ松くん』や『天才バカボン』といった代表的な赤塚作品にも一脈通じる、戦後ギャグ漫画の文化遺産として時代を超えて広く認知されるとともに、再評価の気運が高まることを願ってやまない。


ビターテイストな赤塚ナンセンスに昇華した世界的名著のパロディー『ハレンチ名作シリーズ』

2020-06-08 08:12:15 | 第3章

『男の中に女がひとり/女の中に男がひとり』(アケボノコミックス『赤塚不二夫全集』第21巻)と同じく、『赤塚不二夫全集』第22巻の表題作となったのが、創刊間もない「りぼんコミック」に、読み切り連作として発表された『ハレンチ名作シリーズ』(69年6月号~10月号、単行本刊行時は『ハッピィちゃん』との併録で、『新版世界名作まんが全集 ハッピィちゃん』とタイトルを改題)である。

トキワ荘時代、他の新漫画党の党員達とこぞって愛読したという創元社の「世界名作シリーズ」の一部をベースとしたほか、古今東西の児童文学の名作の数々をセンス良く取り上げ、独自の着想によりアレンジ。「人魚姫でなくて金魚姫」(69年9月号)、「新こじき王子」(69年6月号)、「ケロゴンとお姫さま」(69年10月号)、「アラジンとまほうのランプ」(69年8月号)、「新桃太郎」(69年7月号)の五作品が、パロディーコント風に描かれた。

ハンス・クリスチャン・アンデルセンの『人魚姫』をカリカチュアした「人魚姫でなくて金魚姫」は、抗しきれない宿命を背負った人魚姫の、人間への憧憬と王子への愛の苦悩をオリジナルの『人魚姫』以上の重々しいベールを纏わせて描いたペシミスティックな一編。

マーク・トウェインの『こじき王子』をベースとした「新こじき王子」は、粗暴な性格の王子のために、城内の家来達の統制が取れなくなったことに困り果てた王様が、王子そっくりなこじきの女の子を王子の代わりとして迎えることで起きるナンセンスな混乱劇を意匠とした作品で、もはや児童文学のカテゴリーを完全に超越したと言われる『こじき王子』の原形は、一切留めていない。

「ケロゴンとお姫さま」は、有名なグリム童話である『かえるの王さま(鉄のハインリヒ)』に過激なアレンジメントを加えた一作。

亡き母の形見であるマリを池に沈めてしまったお姫さまは、それを池に住む巨大なカエル・ケロゴンに拾ってもらうが、ケロゴンは、なんと姫に一目惚れ。ずっとケロゴンに付き纏われ、困り果てた姫は、ある手段を使って、ケロゴンに嫌われようとするが……。

虚栄の価値観に重きを置いて表出される、自己欺瞞の増幅を痛烈に皮肉った寓話的なストーリーが印象的で、全五話の中では、最も毒々しさを宿した作品と言える。

『千夜一夜物語』で最もポピュラーな物語を戯画化した「アラジンとまほうのランプ」もまた、オリジナルのスリリングな世界観に赤塚独特の辛口なスパイスを振り掛け、ドラマのコアとなる魔神を美女へと置換展開させた、語り口も軽妙な異色パロディー。

魔法のランプで、幸運を手に入れた筈のアラジンが、幸福を持続させようと策略を図ったことにより、その運命は思いも寄らぬ結末を迎えてしまう……。

「新桃太郎」は、文字通り、日本の代表的なお伽噺に、新解釈を提示したパロディー版で、川上から流れてきた桃から生まれたのは、男の子ではなく女の子だったという、初期段階において、既に原典に抗ったキャラクター設定に新たな趣を感じさせる一編。

鬼ヶ島より宝物を奪い、おじいさん、おばあさんのもとに、帰還しようとする桃太郎だったが、途中で気が変わり、帰りの道中で失踪してしまう救われないバッドエンドが頗るニヒリスティックだ。

このように、いずれも、シニカルとナンセンスの隣接をテーマに、それぞれの原典が持つ根源的なテーマを拡大解釈しつつも、児童文学、少女漫画の構造的類似から完全に脱却したパラレルワールドを展開。人間の退廃的実存を根底としたブラックユーモア的傾向の強いコンストラクションが、ドラマの予定調和を完膚なきまでに解体するアナーキーな破壊性を倍加させ、欲望や自己尊厳の肥大化といった人間の業をメルヘンに包んで語ってしまう、極めて独自性の強いビターテイストな赤塚ナンセンスへと昇華された。

また、各エピソードともに、ニャロメ、デカパン、ココロのボスなどお馴染みの赤塚漫画の名優達が縦横無尽に登場し、作品世界を賑やかに盛り上げており、ここでも赤塚キャラの無敵のインパクトと強烈な存在感を見せ付けていることも記しておきたい。


オフビート感覚いっぱいの少女コメディー『テッちゃんただいまケンカ中』

2020-06-07 21:33:04 | 第3章

「少女フレンド」誌上にて、『ヒッピーちゃん』の連載開始直前に、短期集中連載された『テッちゃんただいまケンカ中』(67年47号~50号)も、アッコちゃんやキビママちゃんのような典型的な赤塚美少女キャラを主人公に定めたことで、一見華やかさを纏った作品に見えるものの、その内容は明らかに非可逆的に爆走暴走モードへと急加速してゆく少年向け赤塚ギャグに歩調を合わせたもので、少女雑誌掲載作品には珍しい、オフビート感覚溢れるスラップスティックコメディーに仕上がった。

一見仲良しのようでもあるが、毎日弟のチカオとの喧嘩が絶えないテッちゃんは、ある日空き地の土管で昼寝をしていた謎の男から、舐めると身体に超人的な能力が漲るという不思議なドロップを譲り受ける。

そのドロップを一粒舐めたとたん、テッちゃんは誰にも負けないスーパーレディーへと変身。その溢れんばかりの強力なパワーで、本当は大切に思っているチカオを虐めた番長に意趣晴らしをしたり、犯罪者の逮捕に協力したりと、八面六臂の活躍を繰り広げてゆく。

本作におけるアウトサイドとしての笑いは、ひたすら激しく衝動的ではあるが、『ひみつのアッコちゃん』とはまた趣向を相違させた、子供の憧れをダイレクトに具現化したアイデアが秀逸で、等身大のお転婆な女の子の、現実世界から束の間の跳躍を夢見る変身スペックをモチーフとしたそのセンス・オブ・ワンダーは、若干クラシックなコンセプトではあるものの、読者に憩いと賛嘆を与えて余りあるロマンと輝きが発顕されている。

そんな特殊能力を駆使したアイデアを巧みに接ぎ合わせることにより、この作品が、冒険活劇やSF的展開にベクトルを向けた、新たな世界観への開拓を十二分に示唆していた点を考えると、本格的なシリーズ化へと至らなかったことが、非常に残念でならない。

尚、本作の主人公・テッちゃんは、『キビママちゃん』に登場した大川家の長女・テツ子がそのまま主役を務めたキャラクターであり、その相も変わらぬ跳ねっ返りな性格ぶりには、思わず笑みが零れてしまう。


皮肉な笑いを湛えた異色のショート・ギャグ『男の中に女がひとり』『女の中に男がひとり』

2020-06-06 07:13:29 | 第3章

『ひみつのアッコちゃん』や『キビママちゃん』といった正統派少女漫画と『ヒッピーちゃん』、『へんな子ちゃん』から『つまんない子ちゃん』へと連動する一連のチビッ子ヒロイン路線の中間地点的な位置付けとなる『男の中に女がひとり』(「なかよし」67年6月号)、『女の中に男がひとり』(「なかよし」67年7月号)の二作もまた、少女雑誌に発表された作品とは思えぬほど、心沸き立つ異色のショートストーリーに仕上がっている。

『男の中に女がひとり』は、男家系に一人生まれた、お転婆で男勝りな我が娘に手を焼く父親が、彼女をおしとやかな性格に変えようと、あの手この手の手段を追いたてて奮闘する泣き笑いに満ちたファミリー喜劇。

『女の中に男がひとり』は、イジメを受けた双子の妹の仇を討とうと、妹そっくりに女装した兄が、妹の通う女学校へと乗り込み、早速、妹をイジメた同級生の女の子に徹底した意地悪を仕掛けてゆくが、敵もさる者、男に負けない強烈な女の子で、しかも、彼女には、誰にも言えない大事な秘密があったという、あっと驚く衝撃のどんでん返しへと見事に着地した、小品ながらも優れた作品の一本だ。

『女の中に男がひとり』は、その後、同様のアイデアとプロットを用いて、何人かの漫画家によって描かれることになるが、やはり笑いの強度という点に関しては、後続の諸作品に対し、雲泥の差を示している。


倦怠美(!?)を体現した新たな女性像『つまんない子ちゃん』

2020-06-04 07:35:27 | 第3章

その後、『へんな子ちゃん』、『ジャジャ子ちゃん』、『ヒッピーちゃん』におけるラディカルなチビッ子ヒロイン路線は、時を経て、1975年、「プリンセス」連載の『つまんない子ちゃん』(75年1月号~76年4月号)へとその系譜を辿ることとなる。

『つまんない子ちゃん』もまた、小さな女の子が、刺々しい遊撃的挑発と、巧みな術策を自在に巡らした悪戯を重ね、不可解なロジックを呈する悪しき大人達を、ぐうの音も出ないところまで追い詰めてゆくダークサイドな一本であるが、少女漫画のメインストリームが激変した時代の流れから、細やかながらも、ロマンス的要素を取り入れることで、作品全体にペーソス溢れる情緒を漂わせている。

その結果、やや毒々しいストーリーでさえも、微笑ましい泣き笑いを読み手の心に投げ掛ける、何処かソフィスティケートされた印象を宿し、偶発的とはいえ、先行の諸シリーズとの明確な差別化を生むこととなった。

厳密にそのリネージュを分類するならば、『つまんない子ちゃん』は、『ヒッピーちゃん』のようなジプシー型ナンセンスへと分化、特殊化した作品ではなく、『へんな子ちゃん』、『ジャジャ子ちゃん』のブラックな定住型のシチュエーションコメディーの同系列にして、その終局に位置する存在と言えるだろう。

主人公・つまんない子ちゃんの、冷めやすく、飽きっぽい性格でありながらも、根は正義派で、一本気な気質に貫かれたそのキャラクター設定は、ジャジャ子ちゃんのパーソナリティーとの均一性を感じるし、エスプリの利いた、時として冷徹で、おぞましいまでの悪戯センスは、即物的な手段で、恐怖を現出させてゆくへんな子ちゃんのエキセントリックな攻撃性をそのまま受け継いでいるであろうことは一目瞭然だ。

しかしながら、つまんない子ちゃんの相棒が、ブーワニというワニを擬人化したキャラクターで、つまんない子ちゃんとブーワニのコンビを主役に据えたキャラクター配置は、まさしくヒッピーちゃんとフーによるコンビのそれを原型として踏まえたものであり、定住型シチュエーションコメディーの体裁を取りつつも、『へんな子ちゃん』、『ジャジャ子ちゃん』、『ヒッピーちゃん』というチビッ子ヒロイン路線における各々の特性が、『つまんない子ちゃん』の作品世界を構築する様々なディテールへと色濃く継承しているように思えてならない。

ただ、作品の総体的な風合いとは別に、従来のチビッ子ヒロイン路線と本作との乖違を若干述べるなら、つまんない子ちゃんのパーソナリティーは、へんな子ちゃんやジャジャ子ちゃんのそれとは違い、激情に駆られ、完全に対象へとのめり込むようなテンションの高さを備えておらず、「つまんない子」という名前からも安易に想像が付くように、そのメンタリティーは、規定の赤塚ヒロイン像とは質の違った、幾分クールな倦怠性を帯びている。

また、つまんない子ちゃんとブーワニの間柄も、飼い主とペットという主従の関係ではなく、時にはいがみ合って、喧嘩をするなど、本音をぶつけ合える対等性の上に成り立ったもので、甲斐甲斐しく、ヒッピーちゃんの旅のお供を続けるフーとブーワニの立場は、かなり異同のものだ。

70年代初頭、オイルショックが決定打となり、高度経済成長が終焉を迎えると同時に、60年代に燎原の火の如く燃え広がった左翼派学生による革命闘争も、東大安田講堂の陥落以降、各セクト内で、ヘゲモニーの掌握や再編、路線対立に端を発した内ゲバによる内部分裂が繰り返えされ、弱体の一途を辿るが、その一方で、赤軍派学生を中心にして起こった「よど号ハイジャック事件」や、連合赤軍による「あさま山荘事件」と、次第にその残党は、街頭闘争における限界から脱却を図るべく、銃器や爆弾を用いた非合法な武力闘争へと挺身してゆく。

そして、山岳ベースにおける連合赤軍メンバー同士の「総括」という名の凄惨な集団リンチ殺害事件の発覚により、若者達の政治闘争は、いつしか大衆の支持と理解から大きく乖離し、思想性も含め、遂には、その実態を喪失してしまう。

こうした長引く不況による閉塞した時代の空気と、急激に衰退した学生運動の挫折感を背景に、若者達は、激動の時代が終焉を迎えた無力感や倦怠感から「シラケ」という言葉を盛んに用いるようになる。

そして、政治的矛盾や自己が抱える欺瞞への批判意識が著しく弱まる中、彼らの多くは、無気力、無感心、無責任の所謂「三無主義」のレッテルを貼られ、価値観を個人の生き方に求めたモラトリアム的傾向を強めてゆく。

そんな騒乱の時代を終えた混迷の季節に、銀幕の世界で一際異彩を放っていたのが、桃井かおり、秋吉久美子、芹明香、高沢順子といった、繊細で不安定な、何処かアンニュイな無常感を纏った若手女優達で、彼女達の掴みどころのない、時代の虚無感をそのまま体現した新しい女性像は、シラケ世代の若者達の鬱勃とした心情と深く結び付き、その存在は、時代のイコンとしてカルト的に崇められる。

チルドでありながら、つまんない子ちゃんが醸し出すレイジーな雰囲気がそうした時代風潮の所産というのは、些か深読みし過ぎた見解かも知れないが、そのイメージに同時代的なオーラや感覚を確保させるキャラクター作法もまた、赤塚の独壇場であり、このキャラクターも、そうしたインテンションのもと、存在の共鳴として作られたのであれば、それは特筆に値する、赤塚ならではの見事な慧眼と言えよう。

このように、『ひみつのアッコちゃん』執筆後以降も、少年誌と少女誌を闊達自在に横断する中、少女誌においても、独自性を深化させた傑作快作を簇出させてゆくが、その多くは、少年誌で発表されている赤塚ギャグのラディカリズムに呼応した、ヒューマンな世界観から超然としたものばかりで、アクシオムの根底に埋没する不条理な心理を解き放つ絶対的な迫力を孕んでいた。