(八) 瑠璃茉莉 Rurimatsuri
未明の闇の中では強烈なインプレッションが、いつまでも修治の気分を抑圧し続けていたが、いつしか眠りについて朝目覚めてみると一転して、静謐なインプレッションの刻みが、いつまでも修治の気分を高揚させ続けていた。
「 昨夜は、誰かの口笛で、青い花の咲く野原に、太陽がゆっくりと冷えてゆく夢をみたような気がするのだが・・・・・ 」
比江島修治はおそらく、未明に出逢った眼の覚めるような女性に一目惚れをするように、琉球のバラードに恋をしたのである。このインプレッションは、ホテルを出たおもろまち駅付近から安波茶交差点でタクシーを降りるまで高揚し続けていた。
だがそれがタクシーを降りて地に足をつけた途端、高揚するインプレッションが停止した。まるで死に場所を探し当てたように足だけが急いでいる。それはあたかも沖縄のこの地に、内地では計り知れない琉球の生身魂(いきみたま)がいるかのようだ。
初女句集を現したとき名嘉真伸之は「 俳句は私の(おもろぞうし)の第2三線(さんしん)のようなものだ 」と仄めかしている。そして句集を片手に秋空を仰ぐと「 この国の死後を行悩むいわし雲 」と詠んでみては、するとふと地に眼を伏せて「 畳の上を土足で歩く蟻の列 」と詠んだのだ。戦後は名嘉真にとって死後なのである。日本とは白蟻に破られた亡国なのだ。だからそう詠んだ句に伸之は「 私はその他の階段を降りる裸体なのだよ 」と付け足した。だったら名嘉真を単に俳句作家と思うのは、彼の投げた見せ球に空振りさせられてちょっと損である。おもしろいのは決め球の「その他の階段」の方ではないか。伸之の俳句には投法として「その他」に下りる「階段」があるのだ。
「 名嘉真伸之の仰いだ秋空にあった「その他」とは一体何なのだ・・・・・! 」
その秋空の下にある歩道橋の階段を、三人が仲睦まじく語らいながら下りてくる。
清原香織はかって見覚えた通りのヤンチャ顔で声を弾ませている。そんな三人の姿を修治は待ち構えていた。
「 見間違うはずはない。たしかにあれは香織だ。しかし、それにしても沖縄で香織に出逢うとは、どうしたことか・・・・・?。夏季休暇でも貰ったかなッ・・・・・!。だが、京都の安倍家に夏休みがある、そんな話など沙樹子から一度も聞いたことはない・・・・・ 」
香織は阿部家の格式と仕来りで暮らせることを喜んでいた。しかも五流家で修業中のはずだ。
「 彼女はまず奈良や京都の2000年を学ばねばならない。武者修行はもっと先だろう。それが唐突に、しかも沖縄で・・・・・ 」
修治には、鞍馬山しか知らないカナヅチ猿が、南国沖縄に泳ぎ着いたようなもので、何とも判然としない香織の出没であった。
「 しかし、それはあくまで京都での諸事情を踏まえての話だから、阿部家や五流家とは無関係なのかも知れない。だが、両家と関係があろうとなかろうと、そもそも香織がなぜ沖縄にいる・・・・・ 」
沖縄という場所で香織と出逢うことが、どうにも修治には意外であり、どうしても不自然であった。
陰陽道の阿部晴明といえば平安の京都が歴史の舞台である。
そして直系ではないが、近代から現代に陰陽寮博士の家業を受け継ぐ末裔に京都山端(やまはな)の阿部一族がいる。修治の妻沙樹子もこの安倍家とは血縁にある。洛北に育った清原香織もその安倍家とは切れざるべき深い関係を持つ。以前、修治が京都の別荘を借りて療養をした折、清原香織は二年間ほど、修治の身の回りに常にいて、あれこれ何かと親切によく尽くしてくれた。
「 香織が沖縄に来ているということは、もしや安倍家に何かを頼まれてのことか。それとも五流家と沖縄に何か接点でもあるのか。あるいは旧盆でもあるし香織に個人的な事情があったのか・・・・・?! 」
別荘での二年間もの療養について比江島修治が思うには、寺島佳代との恋仲を父源造に裂かれた五流友一郎が、祇園の置屋「よし乃」に投宿するところから、この二人の人生が一幅の劇画のごとく大正浪漫の香りをゆっくりと放ちつつ始まっていく。そんな放蕩伝説を沙樹子から何度も聴かされた。また修治が療養のために拝借させてもらった洛北の別荘は、神戸の大富豪五流一族の迎賓館ともいえる5棟連なる数奇屋づくりの避暑施設のことで、そこはそももそも聖護院修験道が夏安吾に使用した日蔭道場である。さらに伝えでは、幕末の伏見寺田屋で新選組に襲撃された坂本龍馬がお瀧としばらく隠れていたところでもあった。
五流友一郎がその別荘地を「羅森庵」という名にしたのは、奥の裏山に深い谷底があり、不思議な霊力の光りを放つ柱状摂理の洞窟があったからだろう。その洞窟をみて友一郎の放蕩は終わるのだ。別荘のここで繰り広げられた平安時代以降の時間は長くもあり、またわずかな近代の隙間におこった数々のドラマは、別荘で一時寝起きした体験を持つ比江島修治の眼には、じつに見事な一幅の絵巻物に描かれてくる。
別荘の敷地は上の比叡山と地続きとも思えるほど広大なのであるが、中でも「五流館」というプライベートホテルは妻沙樹子の祖父が五流一族の資金で、大正3年に大正博覧会にくる外人客をあてこんで京都で饗すために建てた洒落た洋館のホテルなのである。博覧会期間にはいつも万国旗がはためき、異国のシャンソンやワルツが鳴っていたという。それだけでなく、敷地全体の歴史は、今日の日本がすべて失ったであろう貴種的ドラマ性を秘めているのだ。何しろあえて天下には曝そうとはしないが、修治が軽く見渡しても日本史の要を色濃く刻んだ貴重なコレクションの数々がそこにはあった。格調の高さばかりを見世るのではない。どう調達したのか、かって大久保利通が使用した褌(ふんどし)が、綻びをそのままに注連縄か暖簾のごとく渡り廊下に、さりげなく風流に吊るされていた。
「 別荘の壁一面一面に凛として凡とした日本の人生が刻まれていた。それに触れたとき、それまで僕の体の奥深くまで澱(おり)のように溜まっつていた記憶の中から、無意味な記憶だけが消却され、残された記憶だけが、これから長い旅を終えた後に残される唯一のものであるのかも知れない、とそう何度となく胆など叩かれたものだ・・・・ 」
そう思えると修治は「 明治維新以後に日本の色は消えた 」という名嘉真の言葉が泛かび、それは日本人が「 畳の上を土足で動き回ったからだ 」という伸之にみえた白い蟻の行列が修治の体から這い出してきた。しだいに白蟻は修治の屋台骨を破るのだ。
すると修治は、不器用なまでの琉球の律儀さを感じた。
同じように眼を輝かせていた五流友一郎の姿も、澱のように溜まった世界の記憶から何かを生み出そうと必死にもがく男のそれだった。しかし、清原香織という京娘は、妙に親しくそんな五流一族の敷居を自由に跨ぐ奔放な女性なのだ。
「 あッ、あれレっ・・・・・!。樽万の先生やわ。えらいところで見つかってしもた・・・・・ 」
やはり目敏い娘である。香織の方から先に声を掛けてきた。
なるほど先手必勝とはいかにも彼女らしい。天目にピタリとまず一石を打つ。五流囲碁はこれを規範のごとく儀礼の色にして定石とする。そして香織は修治のド派手な日傘の色を感じて、ホほホと笑った。そしてこの笑顔に修治は、笑みを見せられたとき、笑みを見たときなのかも解らないまま、香織はひとつのプロトタイプであることに気づいた。どんな世代にもひとつはそういうものがある。考えてみると別荘で療養していたとき、すでに香織を修治は与えられたプロトタイプとして客観視せねばならなかったようだ。
修治は京都の別荘では香織から「樽万(たるまん)」と揶揄されていた。樽は、日本酒の酒ダルであり、万は、万が一にも樽を修治から遠ざける、つまり療養の身には一滴の酒をも修治に与えるべからずの小生意気な説教癖から、妙な渾名が香織によって献上された次第だ。やはりその香織とはプロトタイプ的にヤンチャなのである。それが証拠に、日常の所作は五流家によって手厳しく鍛えられていた。したがってこの娘は心身共に伸び伸びとして背筋もピンと張っている。一見、おてんばで天真爛漫のようであるが、必ずしもそうではない。それは精神を静謐に練り上げる修行体験からそう生じさせる、ある種戦略的に人を揺動させる術を素地とする奔放性なのであろう。何かと辛抱強く、打たれ強く、粘り強く、根気よくあるために、彼女は笑顔を積極的に絶やさないのである。五流友一郎は「伝統」という言葉を嫌っていた。最も美しいものは「時間の運動」だとみなしていた。彼女はそのプロトタイプなのである。
「 何や、かさねこそ、何で沖縄で遊んでるんや!。さては大文字焼きで何か仕出かし、安倍家から破門でもされたか・・・・・ 」
かさね、五流友一郎は香織のことをそう呼んでいる。京で「かさね」とは襲(かさね)、「車の簾、かたはらなどに挿し余りて、―、棟などに」と枕草子にもあるが、上を覆うもの。友一郎が香織に何を覆わせるかといえば「女らしい」の息苦しさを破れ、と常に指南しているのだから、修練で男気(おとこぎ)を重ねては女性を覆うことである。修験道を束ねようとする友一郎が重視していたのは、おそらくは、つねに「あらゆる外見から遠ざかっていたい」ということである。
「 ふん・・・・・!。遊びやあらへん。せやけど内緒やわ・・・・・ふフふッ・・・・・ 」
と、やはり、明るくあっさりと香織は内緒を認め、屈託なく無邪気に笑った。
それはそうとして、香織の横にいてペコリと会釈した男とは京都の別荘で出会っている。名は忘れたが、五流家に頼んだ資料を別荘まで届けにきてくれた男だ。きっと男も聖護院派の修験道なのであろう。もう一人の小柄な女は男の背後にいてよく顔が見えなかった。
届けてくれた資料といえば、ニコライ・コンラッドとニコライ・ネフスキーに関するモノだった。コンラッドは『伊勢物語』『方丈記』『源氏物語』を訳したロシア人、ネフスキーはスサノオ伝説や月の民俗学を研究した。
東洋学者として当時のソ連における日本・中国研究に指導的役割を果たしたニコライ・コンラッドは、モスクワとキエフとを結ぶ街道沿いの町オリョールに生まれる。そしてまもなく一家でリガ(現在のラトビアの首都)に引越した。1908年ペテルブルク大学東洋学部日本語・中国語科に入学し、そこで黒野義文に日本語会話を習うが、ところでその黒野の能力に不満があり、実用東洋語学院にダブルスクールで通いながら、デ・エム・ポズネーエフ教授やエス・イノウエ講師から日本語を学んだ。
「 東京にいたニコライ・コンラッドが京都へと来たのは、大正博覧会が終わろうとすることだった・・・・・ 」
そして大正博覧会が終わった直後、オーストリアでセルビアの皇太子が撃たれて第一次世界大戦が勃発した。8月には日本もドイツに宣戦布告する。日本中、とりわけ東京が沸き立っていた。折しも日本人の意識は上り坂を越える勢いにつられ「今日は帝劇、明日は三越」が流行語になっていた。それは京都とて同じで、ニコライ・コンラッドはまさに万国旗のはためく別荘に投宿したのである。
「 古事記、日本書紀、古今集、新古今集、和歌などの日本の作品は、コンラッドのようなロシア人東洋学者の研究・翻訳のお陰で世界的に知られるようになったのだ。だがその行為により彼らは甚大な衝撃にみまわれた。現代の日本ではその実態がほとんど知られてはいないが、多くのロシア人の東洋学者が「東洋文化に興味を持ったがため」に、じつに尊く多大な命がこの世から消えた・・・・・ 」
日本学者ボリス・ワシリエフとユリアン・シュツキイらは銃殺された。コンラッドが源氏物語の部分翻訳をしたのは1924年。そしてスターリン政権下時代の1937年、ロシアの日本学者コンラッドは逮捕された。当時ロシアでは、東洋言語を知る人々は「スパイ」だと宣告される。旭日章を授与されていたニコライ・コンラッドは「日本のスパイ」として逮捕され、彼は拷問を受けた後、冬期極寒のシベリアで森林伐採の強制労働を強いられた。そしてさらにソ連時代の強制労働収容所内の秘密研究所で強制労働の身となるが、不屈の精神力で生き残るのである。
「 やはり宮古島まで行こう・・・・・ 」
何やら安倍家と五流一族が申し合わせたように影働きをしている。ここで香織と五流派の修験道と出逢ったことに、修治はふと先の予定を変更して宮古島に渡る、そう思った。宮古島はいずれ行かねばならない場所であることは先般から考えていた。にわかに予定を変えた修治の眼は一枚の家族写真を泛かばせている。その眼にはじんわりと涙があふれた。
当時日本には、ペテルブルク大学を卒業して日本研究に従事した者が3名いた。コンラドは日本における中国文化を、ネフスキーは神道を、ローゼンベルクは仏教哲学を、それぞれが分担して研究にあたった。コンラドはソ連初の日本文学博士であるが、修治は別荘において、彼の仕事が日本にとってどのような意味を持ったかを知った。そしてロシア革命実態の裏面史に近づけた。
中でもニコライ・A・ネフスキーには日本人として甚大な呵責がつきまとうのだ。
ロシア革命が起きると、内戦状態が長く続いて本国からの送金も途絶え、ネフスキーは帰国するてだてが無くなり、そのまま日本で研究を続けることになる。そして北海道の小樽高等商業高校(現在の小樽商科大学)のロシア語教師として就職し、この時期、ネフスキーは北海道のアイヌ語の研究を始めた。ネフスキーは、収集した資料の整理及び助手として、当時19歳の萬谷イソを研究者仲間に紹介される。イソはとても有能な女性で、仕事も効率よくこなして、イソとは2年後に結婚する。そして宮古島出身の稲村賢敷(いなむら・けんぶ)と出会うことになる。その稲村から宮古島の特徴ある方言の話を聞いたネフスキーは、宮古島の方言に強い興味を抱いた。こうしてネススキーの宮古島における調査が行われた。彼は 6年間に、宮古島以外にも琉球諸島や台湾に住む少数民族の言語と民族史を研究する。 また、この期間に数多くの雑誌や新聞にその研究内容を発表した。妻イソとの間に娘エレーナが生まれたのもこの時期であった。
だが、ソ連の指導者スターリンによる、東洋学者や東洋で学び帰国したロシア人研究者および、日本人を含む東洋人の教師や講師に対し、粛清(しゅくせい)が始まった。この以前にネフスキーはすでに帰国を許され、家族三人はソ連にて暮らしていた。スパイ容疑でネフスキーが逮捕されのは1937年10月4日のことであった。彼はそして拷問をうけ、裁判なしで、当時「RSFSR 58 - 1A刑」と言われた国家反逆罪の宣告を受けて、粛清として銃殺された。11月24日、45歳であった。
現在、宮古島市の漲水御嶽の近くに「ネフスキー通り」と呼ばれる長さ約90mの石畳の坂道がある。
「 ところで、かさね・・・・・!。その後、あの人の体調はどうだ・・・・・? 」
ふと非情なニコライ・A・ネフスキー家のことを想い起こした比江島修治は、さらに一人のアメリカ人を連想し、香織の友人は一度その人物に何かと世話になった経緯もあり、清原香織にその女性のコンデションを訊ねた。
ネフスキーの逮捕により、また妻のイソも4日後の10月8日に、スパイ活動の容疑で逮捕される。イソは拷問にも容疑を否認し続け、官憲の調書を最後まで認めず署名を拒否した。夫の立場を守り、無実の者として最後まで尊厳を失うことなく毅然として生きようとする。そのイソはネフスキーと同じく裁判されることなく、レニングラードのKGB本部で夫とともに銃殺刑となる。この時、イソ35歳であった。そして両親を処刑された娘エレーナは孤児となるが、ネフスキーの親友で同じ日本学の研究者だったニコライ・コンラッド夫婦に引き取られた。しかしエレーナは、その後いくつかの家族を転々とすることになる。修治にはこのエレーナへの不憫さがあった。
「 へえ~、大丈夫みたいどす。そういうたら、先日、M先生から手紙届いて、えろう~気ィつこうてもろて・・・・・。せやけどおかしなことはエアーメールやのうて、消印、那覇から出さはったもんやった・・・・・ 」
そういうと、香りはポコンと胸のアタリを軽く平手で叩いた。そして五流友一郎が口癖のようにいう「市松人形のような娘や」という、まったくその通りの愛くるしい眼差しを修治に向けってまた笑った。そのように香織は常に笑顔を絶やさない娘なのであるが、M・モンテネグロが来日していたとは知らなかった。しかし、そのモンテネグロに関して誰もがあまり知っていないことがある。
修治は一度だけ涙を流す香織の友人の姿に接したことがあった。香織の笑顔の堀が深いほど、その真逆にある涙の粒が浮かんでくる。アメリカのM先生から香織に手紙が届いたというが、香織の友人はあのときの修治を感動させた渾身の涙を一生抱き続け、きっと感謝し続けるのであろう。その彼女が感謝すべき人物が、ユダヤ系M・モンテネグロなのだ。
人は常にいくつかの旅立ちを持つ。
それが新たな旅であれ、古き何処かに還る旅であれ、人は何かにあくがれて行く。
そして阿部和歌子がアメリカへ旅立った朝に、山荘のベッドの上では、京都洛北の山河を省みる老いぼれた一人の男がいた。
「 ようやく陰陽家伝を書き終えた、雨田虎哉博士である・・・・・ 」
その眼には、いつしか見憶えてしまった早春の山端を漱ぐ高野川のせゝらぎを泛かべている。するとこのとき修治は、なぜか消えようとする博士の眼の裏側をみたような気がした。
「 洋子の娘、と、だけ名のなき名を呼んだからだ・・・・・。おそらく博士はその名さえ知らなかったのであろう 」
博士は臨終の間際まで、洋子の娘の病状を心配していた。執刀が行われたのは、その三日後のことであった。
「 あの日・・・、患者のかたわらの小さな椅子に腰をかけ、縦にまっすぐ切り開いた胸の内側に高坂甚六(こうさかじんろく)は瞳孔も静かにためらいなく超音波メスを入れた・・・・・ 」
そして冷たくピッ、ピッ、ピッと心拍のモニター音だけが響く。
12人の医療スタッフが立ち会う中央手術室は静まりかえっていた。どうしても博士が眼差していた高野川、川の流れにその光景が重なってくる。そしてその修治が博士を思う眼の動きを感じながら、同じ光景を、たゞじっと見守る阿部秋子と千賀子とが同室にいた。そして母親の洋子が祈るような思いで横にいた。修治はそれを見過ごせるはずもなく母の動揺を静かにみていたのだ。
「 そのとき・・・・・、10万ルクスの高照度白色LEDが照らし出した無影灯光源の室内は、あらゆる影の存在を否定した中で人間の五感が繰り広げる非常の世界である。その緊迫の手術台の上で清原香織はたゞ青白く昏睡(こんすい)に落ちていた・・・・・ 」
高坂甚六は、上下に走る直径2ミリほどの細い内胸動脈を丁寧にはがしていく。
しごく少しずつ、丁寧に、さらに丁寧にはがした。
「 この動脈は、洋子の娘がこれから安心して暮らすための命綱なのだ。心臓の筋肉に血液を送れなくなった冠動脈の代わりを果たしてくれる。だから執刀医は大切にあつかう・・・・・ 」
そうしてこの心臓が拍動する状態のまゝ動脈を縫い合わせる、オフポンプの冠動脈バイパス手術は、M・モンテネグロを訪ねた修治がアメリカから帰った半年後に、京都順正大学付属病院で行われた。
「 開始から約2時間、あれはじつに鮮やかで迅速な手さばきであった・・・・・秋子もこの施術には驚いたし、衝撃さえ覚えた・・・・・ 」
比江島修治は特別室のモニターでそれをじっとみつめながら、洋子の娘の動脈にうまく血流が流れはじめたことを確かめた。付き添う阿部秋子も千賀子も母洋子も感激の涙を眼に湛えていた。
「 あなたが、日本のエンペラーの手術をなさったドクターですか・・・・・ 」
と、術後にアメリカから医療視察に来日していたM・モンテネグロが問いかけると、高坂甚六は満面の笑みで「イエス」と答えた。その日は海外の医療関係者10名ほどが立合う国際医学会プログラムが組み込まれていた。それらの関係者にも甚六は同様の笑みを泛かべ、そして最後に通訳として同行した修治をチラリとみた。
「 あれは・・・、平常な親しい、いつもの笑みであった 」
同医療チームにいた工藤医師は、術後にそうしんみりと語るとまた付け加えて、中学校からの盟友であるその甚六は、手術中、頭を使っているのは10%ぐらい、90%は反射的に手を動かさないといけないという。
阿部秋子は手術後に、高坂甚六から経過説明を受けてはしきりに感心したかに笑みを零し、甚六の手を両手で握りしめてじつに嬉しそうであった。なるほど、そうだからこの男の眼の輝力は、一流のピアニストが感じさせる極限の眼光とよく似ているのだと修治には思えたのだ。それはピアニストが今弾いている楽譜を胸の芯で見ているように、外科医高坂甚六は、手術の先にある香織の命だけをまっすぐに見ていてくれた。
「 やはり彼は評判通りの外科医であった 」
と、術後に阿部秋子がそう思ったとき、そしてまた細やかで丁寧な仕事ぶりが執刀までの手筈を整えた修治にも改めて充分に伝わってきた。この一切のお膳立てを引き受けたのがM・モンテネグロなのであった。彼は日本一の執刀医を紹介してくれることを約束してくれていた。彼は国際医療リストを査定し高坂甚六を引き出してくれた。モンテネグロも医学博士なのだが、彼の専門は医療工学の研究開発であった。
「 何と精密な手捌きであろうか。ミリ単位での冷静沈着な命との攻防は、むしろ神々しくもある 」
と、M・モンテネグロはしきりにそんな言葉で賛辞していた。
「 手術があなたの娘さんに提供できる自分の真心のすべてであろうから僕は、そういう方向で今まで自分を追い込んできたのだ。手術では100%と患者と向き合うし、必要な準備は怠らず絶対に手抜きなどしない。今回もひたむきに香織さんに集中しますよ・・・・・」
と、手術前に高坂甚六は、こだわりを持って患者の命に突き進むのだと母親に言ってくれたのだ。だから、甚六を修治は推薦し、秋子や千賀子から甚六は指名され執刀を依頼された。何しろ阿部家は六(ろく)に賭けた。
彼は盟友の工藤から執刀医に推薦されたと聞くと「 他に誰がいるのだ、自分以外に引き受けて自分以上に結果をだせる心臓外科医はいないだろう 」と、逆に推薦者である修治を勇気づけるかに朗らかに笑った。そうして甚六は明言の通りに託されたバイパス手術を無事成功させてくれた。そして洋子の娘が麻酔からようやく目覚めたのが手術後三時間のことであった。
「 その娘は新しい生命の旅立ちを、新しい涙でもそこに汲み与えるかに、まず彼女がしたことは、最初に自身の涙をポトリぽとりと流したことだ。あれは単なる嬉しさと安堵だけの涙ではなかった。純水のごとく産まれ出る生命の水晶のように思われた・・・・・ 」
年齢は清原香織と同じだと聞いていたが、名さえ知らぬ娘の、この光景に修治は立ちあったのだ。その涙があまりにも純水すぎて修治の魂を直撃してしまっている。なぜ修治がその娘の名を知らないのかは、自身が名を知らぬまま行動を優先したことにあるのだが、少女がこの名をもつ花に変身して恋人を路傍で待つと幸せになるという伝説に因んでいるらしい。そこまでしか分からないが、それは百合、菊、桜、すみれ、あるいは洋花であるのかも知れない。ともかくも清原香織の親友なのであった。
この名さえ明確でない娘の涙から当時を浮かばせてみると、ロシアはひたすら荒涼とし、ひたすら広聊としていた。それはM・モンテネグロと出逢う少し前だが、どうにもクレムリンの復活祭の鐘の音を聞くうちに、これが自分の復活祭だと思えたのだ。リルケがそうであったからであろう。リルケはあの鐘の音について何度も書き綴っているのだが、その言葉の音感のようなものには凍てつくように鋭いものがある。ただその音を共有してくれる者が見つからない。そんな筆運びであった。それでもリルケからして、当時のロシアには新たに感じるものがあったのだ。そんな想いを重ねると、クレムリンの鐘の音は、修治には辛くて途中で聞くことを放棄したほどに、痛哭で神々しかった。それが尾を曳いていたせいもあるが、一度だけ出会った彼女の流した涙の純水には気が惹かれて、またそれが現在まで尾を曳いていた。
しかし今、そう思えた直後に比江島修治にとっての沖縄は、そこかしこが死ににくるための街なのだ。
「 あの~・・・・・、出羽洋子です。あっ、いいえ、あのときの洋子です・・・・・ 」
男の背後からのっそりと現れた影と声に、突然、お礼の言葉を付け加えられてみると、生命の危篤とは母親にとっても修治にとっても「いとわしいもの」で、二人して見つめた手術室の光景は、なんだか死に方と、生き方の見本のような細部観察で、繰り返す生死の感情の起伏をして成り立っている。陰から現れた女による「洋子」と名乗られた陽暉さに、ただ修治は唖然として驚いた。だから、そして御嶽(うたき)の祝女(のろ)によって祈り続けられる琉球とは、神々しくあって常に「神から遠のき、行きあうすべてのものたちからたえず否定されている」ような街だったのである。その神とは欺かざるモノで、今日の沖縄の重荷や苦痛とは、琉球の姿勢があまりにも神の天理に過敏で真摯であるということだ。
「 名も何も知らんと、やっぱり樽万はんはアホや。彼女の名、瑠璃いうんやわ。ルリマツリの(るり)、沖縄の花や・・・・・ 」
という、香織の声は、京都にいるときと同じで、沖縄の秋風を弾き陽気にはしゃいでいた。
このとき修治は初めて男の名が出羽五郎ということ知る。
三人は少し前に、出羽洋子のオバー知花(ちばな)千代の墓参りを済ませていた。 さらに三人は早朝すでに「浦添ようどれ」から聖護院六号を放ち終えていたのだが、そのことを修治が知るよしもない。
歩道橋の下でしばらく立ち話をしていた四人は、香織に拾わせたタクシーに乗ると、国際通りへと向かった。
覚醒をしたレナードは30年ぶりに朝をみた。
そして、妻を帽子と見まちがえた男がいた。
オリヴァー・サックスは、色のない島へ、と一人の博士を連れて旅行した。
「 これらは、いずれも興味深い話ではないか・・・・・! 」
一日に熟読して一冊、丸三日を費やした鷲羽(わしゅう)四郎は三冊目の本を閉じ終わると、喫茶処六道庵の二階窓越しに、五条茶わん坂詰の真向かいにある古書院「冬霞(ふゆがすみ)」の店構えをじっとみつめていた。
弁柄(べんがら)古民家の軒に五色幕(ごしきまく)をかけたその室礼(しつらい)はなるほど清水寺参道の遍智(へんち)な風情をかもし古都らしくある。だが名の「冬の霞」とは妙に密かである。
「 立春のとき、天子は青衣を着け、青玉を佩(お)び、百官を従えて自ら東郊に赴き、春を迎えた。同様に立夏となれば赤衣をまとい、南郊に夏を迎え、立秋には白衣をもって西郊に秋を、立冬には黒色の衣を着けて北郊に冬を迎えた。そして・・・・・黄衣は・・・・・ 」
五色幕に四郎はそう想い泛かべ院構えをみていると、まもなく店の主人が軒先に表われた。
藍染の着物に茜(あかね)だすきで袂(たもと)をあげたこの主人の名を音羽(おとわ)一郎という。しかし、茜だすきを外して帯を西陣の黄色い角帯に差し替えると、この男は音羽五玄(ごげん)となる。
「 よし・・・・・、金茶錦(きんちゃにしき)の帯に締め替えたぞ・・・・・!。予定通り六号はまもなく・・・・・ 」
香川高松にいる三郎から連絡が届いたようだ。六道庵の亭主・四郎は五玄になった男の姿をたしかめると、おもむろに席を立った。
そして一郎が五玄となった姿を眼に納めたとき、四郎もまたその名を鷲羽五学(ごがく)と入れ替えた。これと同じように、聖護院六号が四国山脈の中央構造線を超えたとき、八栗寺にいる白羽三郎は五真(ごしん)と、金剛福寺にいる笠羽二郎は五寿(ごじゅ)に、那覇にいる出羽五郎は五芳(ごほう)にと、これで五者それぞれが表名を、裏名へと差し替えたことになる。
事有れば異名を名乗るこの五人には、個別の表家業と、そして同業の裏稼業とがあった。
「 さて・・・・・、鳩舎へと向かうことにするか・・・・・。はて、あれは、本願の聲(こえ)か・・・・・! 」
と、聖護院六号の帰還を出迎えようと考えた音羽五玄は、ふと清水寺の朱(あか)い仁王楼門の方をすかさず振り向いた。鹿鳴(ろくめい)の聞こえ、耳にそう感じられた。鹿鳴は詩経に「ゆうゆうたる鹿鳴、野の蓬(よもぎ)を食む」と、宴に客をもてなす調べではある。その鹿は好んで仲間を呼び合うというが、しかしこの参道で何故(なぜ)。雌鹿の鳴くのは稀(まれ)、雄鹿は自分の縄張りを宣する時に鳴く。
「 仙人がしばしば乗騎(じょうき)とするのが白鹿なのだ・・・・・! 」
清水寺には鹿の伝説がある。鹿を捕えようとして音羽山(おとわやま)に入り込んだ坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、修行中の賢心(けんしん)に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮(えんしん)(賢心の後の名)より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。
後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷(えみし)平定を命じられた田村麻呂は若武者と老僧、若武者とは観音の使者である毘沙門天、老僧とは地蔵菩薩の化身なのであるが、この加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。その後、田村麻呂は延鎮(賢心)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀った、という。以上の縁起により、清水寺では東山山麓に草庵を結んで住した行叡(ぎょうえい)を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。この本願の啓示は鹿鳴の聞こえ方により兆される。
「 何事か・・・・・、火災のごとく、厄介な凶事の兆しでなければよいが・・・・・ 」
清水寺の伽藍は康平(こうへい)6年・1063年の火災以来、近世の寛永6年・1629年の焼失まで、記録に残るだけで9回の焼失を繰り返している。平安時代以来長らく興福寺の支配下にあったことから、興福寺と延暦寺のいわゆる「南都北嶺」の争いにもたびたび巻き込まれ、永万元年・1165年には延暦寺の僧兵の乱入によって焼亡した。現在の本堂は寛永6年の火災の後、寛永10年・1633年、徳川家光の寄進により再建されたものである。他の諸堂も多くはこの前後に再建されている。音羽五玄はしばしぽ~っと立っていた。
「 あるいは、どこぞの茶碗でも割れたか・・・・・! 」
坂道のゆるやかに続く茶わん坂は、東山にある清水焼発祥の地。弁慶と牛若丸が出会ったという五条大橋よりも東を五条坂、東大路通りから清水寺までの五条坂を上り、半ば右曲がりの小路を茶わん坂という。五重にそびえる八坂の塔に象徴され、八坂に結ばれるこの界隈は、産寧坂(さんねいざか)など、京都名所の清水寺近くという地の利の良さも相まって、八坂いずれの坂道も旅人らで賑わっている。しかし、この茶わん坂だけは、裏陰のごとく渋い表情の陶芸人家屋の立ち並ぶだけの地道さもあり、他の坂の賑わいとは無縁である。
普段、歩く人もまばらで閑静な坂道であるから、そこに茶碗一つを落としても、その割れ音は、明らかに聴き取れる響きをさせて坂道を上下に転がってくるものだ。茶碗とは限らぬが、しかし、五玄の耳はやはり何かの動く不審な気配を感じた。
「 それは鹿鳴であれ、茶碗の欠けた音であれ、これら微細な動きの一つ一つは、さしたることともない。が、これは次の大きな変化を予想させ何かを察知すべき蠢(うごめ)きと考えるべきなのだろう・・・・・ 」
そう想いつゝ店じまいを終えた音羽五玄は、松原通へと出た。そして20m後方にピタリとついて五玄の後を追う鷲羽五学がいた。
「 ピンゲラップ島・・・・・!、日本人にとって、なかなか興味深い島である・・・・・ 」
ピンゲラップ島は、先天性全色盲の人口比率が8%以上という特殊な島、色のない島へというミクロネシア紀行記にオリヴァー・サックスはそう書いていた。鷲羽五学はその記述に特別な執着を覚えた。興味深い情報は、興味深い人間が運んでくる。そして運ぶ人間の生活意識は興味深い環境から与えられる。これは五流友一郎が喰いついてきそな人物だと五学にはそう思えた。
その「 色のない島へ 」は、二つの紀行文で構成されている。1つは、ミクロネシア連邦のポンペイ島とコスラエ島の間に位置するピンゲラップ島への紀行記。もう一つは、ミクロネシアのグアム島でのチャモロ人固有の風土病を取材した紀行記である。
「 このオリヴァー・サックス教授は、コロンビア大学の脳神経科医、そしてエッセイストだ・・・・・。教授は、島民が「太陽の光」に順応できないので夜に活動するというが・・・・・!。そういう教授はロンドン生まれた・・・・・ 」
アメリカの教授陣を含む有識者たちがインテリジェンス・ピープルに背をむけて、地道な生身の男性に戻りたがっている。長すぎたベトナム戦争に疲れたアメリカが変わったのだ。「Events of 11 September(9月11日事件)」に揺すられグラウンド・ゼロ(爆心地)となったアメリカが変化したのだ。音羽五玄の背中を追う五学の眼には、カリスマが消えたアメリカが泛かんでいた。
こうして五玄と五学が聖護院六号の鳩舎へと急ぐころ、沖縄では、出羽五芳と洋子、清原香織の三人は磁場密度を調査するため修治と別れ旧久米村へと向かっていた。
そしてその三人と県庁前で別れた比江島修治は、一度ホテルの部屋に戻ると再び「 夕陽が沈むところに浄土があるというものだ 」と、そう念じながら旧知念村の斎場御嶽(せーふぁうたき)まで行くために、まず1Fのローソンに立ち寄り好みの夜食をみつくろうと、読みそびれていた朝刊を握りしめ、のんきに大あくびなどして待機していたが、最近までビール工場で働いていたというタクシードライバーに缶コーヒーを一本手渡しつつホテルを出た。盂蘭盆会の御嶽というもはどういう気配なのか。3つの拝所が集中する最奥部の三庫理(さんぐーい)まで来ると、クバの木を伝って琉球の創世神であるアマミクが降臨すると伝えられる、その日没の時間を静かに見計らっていた。
琉球の着物 3