鬼井江の世界(gooブログ)

在りし日のA君を思い浮かべながら、街道歩き。

 3月に亡くなられた(大学時代の友人)A君を思い浮かべて、西国街道歩き(前回の続き)をしてきました。A君のお住まいを訪問したことはなかったのですが、A君の住所(大阪府三島郡島本町広瀬)から、西国街道がお住いの近くを通っていることが推測できました。

 5月28日、(前回の西国街道歩きの中断地点=阪急箕面線の桜井駅近く)の西国街道地点から街道歩きを再スタートしました。向かう方向は、箕面市→茨木市→高槻市→島本町→京都方面へ。 本日(5月28日)は、とりあえず高槻市を目指して(日帰りで)歩くことにしました。

 桜井駅と牧落(まきおち)駅との中間部の線路を越えてしばらく歩いた地点に『牧落の高札場跡』がありました。この地は、西国街道と箕面街道とが交差する地に当たり、人々が多く集まり、高札場となったようです。

 高札場跡を過ぎると、西国街道は国道171号線に約400mほど重なりました。さすがに西国街道の国道部分は交通量が多く、旧街道の雰囲気はまったくなくなりました。国道と旧街道との重なり部分から、右手の細い道(西国街道)へ入ると、静かで車がほとんど通らない街並みになりました。いい雰囲気の街道歩きができました。

 箕面市萱野という地に、『萱野三平旧邸』が保存されていました。赤穂事件に詳しくない私は、「萱野(かやの)三平」という人物をまったく知らなかったので、説明板をしっかり読みました。説明板から、わかったこと。それは、忠臣蔵で「赤穂浪士48番目の義士」の生きざま、死にざまでした。赤穂浪士47士は、有名ですが、「48番目の義士」について、まったく知りませんでした。一言、「自刃に至るまでの日々はどんなに苦しかったことだろう・・・。江戸時代、こんな人生もあったのだ・・・悲しい・・・」。

 説明板を読んで、「こういう人もいたんだなあ・・・」と考えさせられました。(説明板の写真を参照してください)萱野三平氏の生きざま、死にざま・・・。三平氏の父は、自刃した息子をどう思ったのであろうか? 

 萱野三平旧邸は立派な建物で、保存されていました。「赤穂浪士48番目の義士」の生誕・終焉の地が箕面市で、28歳で自刃したことは、心にしみました。(自刃以外の方法はなかったのだろうか・・・)

 

 萱野三平旧邸前で歴史を振り返った後、街道歩きを続けました。街道沿いに箕面墓地公園がありました。休憩用のベンチがあり、少し休憩しました。箕面市の西国街道歩き後、大阪モノレール・豊川駅の下をくぐると、茨木市に入っていました。2kmほど歩いた地点に茨木市・郡山宿本陣(国の史跡指定)がありました。りっぱな建物で中に入ってみたかったのですが、コロナの影響でしょうか、「見学不可」になっていました。まだ西国街道(京都~西宮)すべてを歩いていませんが、「こんな立派な本陣が残っているとは!」と感動した建物でした。現存の建物として、すばらしい! 「国の史跡」指定に納得しました。

 歴史に興味があるA君は、この郡山宿本陣を見学したことがあったのだろうか? と、ふと思いました。島本町と茨木市では少し離れているかな? 本陣の建物を見ながら(A君と歴史に関する話をしたかったなあ・・・)と思いました。

 (ここから続きです。)

 郡山宿本陣(外観)を見学後、西国街道歩きを続けました。新豊川橋の信号で、国道171号線をクロスするように跨ぎ、街道筋を歩いていきました。街道から少し離れたところに、ラーメン店があったので、昼食をとることにしました。店を出たときの時刻は午後1時になっていました。街道筋に戻り、高槻市方面へ。

 太田茶臼山古墳に近い街道筋を歩いていた時、(見に行ってみようか・・・)と思った次第です。持っていた資料によると、「5世紀中頃に築造された全長226m」とのことで、ちょっと寄り道することにしました。「継体天皇陵」とみなされているので、中に入ることはできませんでした。最大幅30mもある濠をもった大きな古墳でした。濠を写真に収め、街道筋に戻りました。

 藍野大学の前を通過後、街道筋がわかりにくくなって、(地図を見ながら歩いていたのですが…)街道ではない道を歩いていたようでした。それに気づいたのは、三島高校の校舎が右手に見えなければならないのに、左手に見える道を歩いていたからでした。(歩くコースを間違えているなあ・・・)と、地図を手にもって座り込んでいた時、自転車に乗った若いご婦人が声をかけてくれました。

 「西国街道歩きをしている方ですか? 私もその地図を見て歩いたことがありますよ!」と。

 「ええ、おっしゃる通り、西国街道歩きの道を間違ったのかなあ? と思って、地図を見直していた所でした」と返答しました。 

 そのご婦人いわく、「この道を真っすぐ行って、信号のある所で、右に曲がった道が西国街道ですよ。」と親切に教えてくださいました。そして、最後に、「街道歩き、頑張ってください! 高槻駅までは道なりに行けますから!」と、励ましてくれました。持っていた「地図」が縁で、声をかけてくれたようです。

 西国街道一人歩きの老人(私)が、へたり込んで「地図」を眺めている姿に、声をかけてくれたようでした。感謝。

 ご婦人の案内のおかげで「西国街道」の道筋に戻ることができました。しばらく街道筋を歩いていくと、芥川にかかった橋がありました。「芥川橋」を渡りきったところが(高槻市)芥川宿の西の入り口でした。芥川(淀川の支流)は天井川(水面の標高が高く、洪水をおこしやすい川)で、土手を高くして洪水から守る構造になっていました。芥川宿内に水が流れ込まないようにするため、土手の石積みの門にしっかりとした板をはめ込むようになっていました。現在なら、鉄製の門扉にするところですが、江戸時代のことですから戸板をはめ込む仕組みにしたのでしょう。戸板をはめ込む溝が残っていました。天井川が氾濫したら被害は大きいでしょうから、芥川宿地域を守ろうとしたようです。芥川宿(西の入り口)の石垣の溝をしげしげとみて、歴史を実感した次第です。

 芥川と言えば、高校時代の友人T君の「活動場所」だと聞いています。T君は、(退職後かな?)趣味で、カワセミや野鳥を撮影しています。その写真のすごいこと! カワセミの様子を何百枚、何千枚?も撮っているようで、まさにプロ級のレベルだと感心しています。カワセミ写真群などの中から何枚かの写真(カワセミや野鳥の写真)を月に一度、メールで送ってくれています。(カワセミが餌をくわえた瞬間など、見事な写真です。)まさに、「カワセミ撮影のプロ」だなあ、と思います。T君、いつもありがとうございます。この場でお礼申し上げます。

 そのT君たちのグループは、芥川のごみ拾いを定期的にされているようです。芥川橋の上から見える範囲で河川敷などを見ましたが、「ごみのない川・河川敷」でした。T君らの活動もあって、美しい川・河川敷が保たれているようでした。(私は堺市・大和川河川敷のごみ拾いを年に一度ぐらいしか参加できていませんが・・・。近年の大和川は、それなりにきれいになってきたようです。昔は「日本一汚い1級河川」の悪評価でしたが・・・)

 芥川宿の西の入り口から街道歩きをゆっくりとしましたが、残念ながら「芥川宿本陣」の建物は残っていませんでした。江戸時代・天保期には、本陣をはじめ旅籠屋が33軒もあったようですが、現在はそれらしき建物は少なかったようです。ですが、宿場の面影はありました。芥川一里塚が保存され、その近くの建物などに「宿場の雰囲気」を感じました。

 

 本日の(日帰り)西国街道歩きは芥川宿一里塚で終えることにしました。JR高槻駅が近い地点だったからです。

 次回は、島本駅近く・A君の住まいのある「三島郡島本町広瀬」地区を訪れ、西国街道筋を最終地点(=京都市南区・東寺)まで歩こうと思っています。

 今回の西国街道歩き旅の報告はここまでです。(今回の日帰り歩き旅 歩数=31805歩 約18kmでした。)

 

牧落(まきおち)の高札場跡

箕面市 西国街道の一部

萱野三平旧邸

説明板より 萱野三平は「48番目の義士」でありながら、同志を去り、討ち入り前に悩んだ末に自刃した義士でした。

茨木市 郡山宿本陣(椿の本陣)がしっかりと残っていました。現存する宿帳に、赤穂藩主浅野内匠頭の記録があるようです。見学したかったなあ・・・残念。江戸時代、諸国の大名たちがこの本陣を利用したことであろう。

 

太田茶臼山古墳(継体天皇陵) 鳥居の向こうが濠になっていて、入って行けない。

高槻市には素晴らしい古墳や遺跡が複数あります。特に(今回は訪れていませんが)今城塚古墳は有名な古墳です。私はこちらの古墳を3回訪れています。現在、こちらの古墳を中心に、約9haの緑豊かな古墳公園=「いましろ大王の杜」になっています。今城塚古墳(国の史跡)は、淀川流域最大の前方後円墳で、継体天皇の墓はこちらの古墳だという説が有力です。私も今城塚古墳が継体天皇陵だと思っています。大山古墳(伝 仁徳天皇陵)は世界一大きいですが、こちらの今城塚古墳および歴史館の資料や展示は見事です。ぜひ、歴史に興味がある方は、こちらを訪れてみてください。おすすめです。宮内庁に「天皇陵と認定されていない古墳」ですので、中に入れます。そして、おもしろく、勉強になりますよ。A君は(島本町から近い)ここを訪れていたかな? (もう彼とは話ができない・・・)

 

淀川の支流=芥川に架かっている「芥川橋」 この橋を渡った先が「芥川宿」(西の入り口)

芥川橋の上から 上流方面を写す(しっかりとした土手の堤防でした。)天井川ゆえに、土手が弱いと氾濫がおこりやすいですから。

土手の真上の位置からの写真 両脇の石垣に戸板を入れる溝があり、戸板を複数枚入れ込んで(土手を越えた)洪水を防ぐようになっていました。戸板を入れ込む溝も写っていますが・・・少しわかりにくいかも? この下り坂から先が芥川宿中心部へ向かいます。写真手前は芥川橋です。 この坂は、西国街道です。)

ちょっと雰囲気のある家もありましたが、現代的な家が多かったです。(高層ビルは、高槻駅周辺のビルらしい)

芥川一里塚 石碑が残っていました。ここで、左に曲がり、街道が続いていました。

今回の歩きは、この地点で終了としました。

次回は、この続きの西国街道を京都・東寺まで歩くぞ!

 

 

 

 

 

コメント一覧

サンドラブロク
今日は、7月3日です。この西国街道歩き旅を初めて読みました。若い女性が、声をかけてくれたので、正しいルートに戻れたんですね。よかったですね。それにしても丈夫な足腰をお持ちですね、
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