2018/2/18
「桃太郎伝説の背後にあるものは?(その1)」 古代への好奇心
今日は、(私のペンネームに少しだけ関連する)「鬼」について考えてみたい。
「鬼」はおもしろいですよ。
以下、ネットの資料より(内容のコピーと補足です)
【 日本の鬼は、いつどこから生まれたのだろうか? 】
●日本書紀に記された鬼
現代にまで残る日本で最も古いとされる文献は「古事記」と「日本書紀」。
その日本書紀の記事に「彼嶋之人言非人也 亦言鬼魅不敢近之」(その島の人は人ではないと言う。また鬼と言われていて敢えて近づかない)、
「有人占云是邑人必為魅鬼所迷惑」(ある人が占いをしてこう言った。必ず鬼のために惑わされると)というものがある。
ここに出てくる「鬼魅」「魅鬼」がオニと読まれているそうだ。これは当時、佐渡島に渡って留まっていた粛慎人(満州に住んでいたといわれるツングース系の民族)のことを鬼と呼んでいる。
つまり、満州に住んでいた外国人(ツングース系の中国人?)= 鬼
中国でも、鬼という文字は異民族や死者の霊魂を示すそうだ。だから、この日本書紀の記事では自分たちとは異なる民を古来より「オニ」と呼んでいて、そこに「鬼」という漢字をあてたということになる。
だから、「古代日本の鬼」とは、妖怪の一員としての鬼ということではなく、自分たちが住んでいる村などの社会の外にいて、自分たちとは異なる文化や習慣を持っているような人たちのことを指していたことになる。
自分たち(日本人)とは異なる文化や習慣を持っている人たち=外国人(古代の渡来人)が「鬼」の扱いを受けることになったようだ。
大陸(主に朝鮮半島)からやってきた渡来人=「鬼」
また、日本書紀の斉明天皇の葬儀(西暦661年)の記事に
「是夕 於朝倉山上有鬼 着大笠臨視喪儀 衆皆嗟怪」(その日の夕方、筑紫の朝倉山の上に鬼がいた。大笠を着て葬儀を覗き見ていたので人々はみな怪しんだ)というものがある。
斉明天皇は当時、唐と新羅に滅ぼされた百済を救うために、現在の福岡県朝倉郡朝倉町にあった筑紫の朝倉宮にいてそこで亡くなったのですが、この「葬儀を覗き見ていた鬼」がいたという内容である。
この鬼については「山の民」であるとか「百済からの移民」であるとか諸説があるようですが、葬儀には似つかわしくない「大笠」つまり大きな箕笠をかぶっていたのは、外の世界からやってきた「稀人(客人・まれびと)」の姿を表しているとも言える。
「まれびと」は自分たちの世界とは違う異界からやってきた「神または神の使いのような存在の旅人」であり、大笠を身につけているというのはその旅人としての象徴ということになる。
古代の日本では
異界からやってくる神のような存在=「鬼」
現代においても、秋田に伝わるナマハゲの鬼が身につけているのも箕笠である。この装束は、決して偶然ではないようだ。日本書紀の記載内容と符合している。
秋田のナマハゲの「鬼」=異界からやってくる神のような存在 ということになる。
以上、ネット情報をコピーし、私なりに補足したものです。
次に桃太郎伝説における「鬼」について、考えてみたい。
*この続きは(その2)へ
「鬼」はおもしろいですよ。
以下、ネットの資料より(内容のコピーと補足です)
【 日本の鬼は、いつどこから生まれたのだろうか? 】
●日本書紀に記された鬼
現代にまで残る日本で最も古いとされる文献は「古事記」と「日本書紀」。
その日本書紀の記事に「彼嶋之人言非人也 亦言鬼魅不敢近之」(その島の人は人ではないと言う。また鬼と言われていて敢えて近づかない)、
「有人占云是邑人必為魅鬼所迷惑」(ある人が占いをしてこう言った。必ず鬼のために惑わされると)というものがある。
ここに出てくる「鬼魅」「魅鬼」がオニと読まれているそうだ。これは当時、佐渡島に渡って留まっていた粛慎人(満州に住んでいたといわれるツングース系の民族)のことを鬼と呼んでいる。
つまり、満州に住んでいた外国人(ツングース系の中国人?)= 鬼
中国でも、鬼という文字は異民族や死者の霊魂を示すそうだ。だから、この日本書紀の記事では自分たちとは異なる民を古来より「オニ」と呼んでいて、そこに「鬼」という漢字をあてたということになる。
だから、「古代日本の鬼」とは、妖怪の一員としての鬼ということではなく、自分たちが住んでいる村などの社会の外にいて、自分たちとは異なる文化や習慣を持っているような人たちのことを指していたことになる。
自分たち(日本人)とは異なる文化や習慣を持っている人たち=外国人(古代の渡来人)が「鬼」の扱いを受けることになったようだ。
大陸(主に朝鮮半島)からやってきた渡来人=「鬼」
また、日本書紀の斉明天皇の葬儀(西暦661年)の記事に
「是夕 於朝倉山上有鬼 着大笠臨視喪儀 衆皆嗟怪」(その日の夕方、筑紫の朝倉山の上に鬼がいた。大笠を着て葬儀を覗き見ていたので人々はみな怪しんだ)というものがある。
斉明天皇は当時、唐と新羅に滅ぼされた百済を救うために、現在の福岡県朝倉郡朝倉町にあった筑紫の朝倉宮にいてそこで亡くなったのですが、この「葬儀を覗き見ていた鬼」がいたという内容である。
この鬼については「山の民」であるとか「百済からの移民」であるとか諸説があるようですが、葬儀には似つかわしくない「大笠」つまり大きな箕笠をかぶっていたのは、外の世界からやってきた「稀人(客人・まれびと)」の姿を表しているとも言える。
「まれびと」は自分たちの世界とは違う異界からやってきた「神または神の使いのような存在の旅人」であり、大笠を身につけているというのはその旅人としての象徴ということになる。
古代の日本では
異界からやってくる神のような存在=「鬼」
現代においても、秋田に伝わるナマハゲの鬼が身につけているのも箕笠である。この装束は、決して偶然ではないようだ。日本書紀の記載内容と符合している。
秋田のナマハゲの「鬼」=異界からやってくる神のような存在 ということになる。
以上、ネット情報をコピーし、私なりに補足したものです。
次に桃太郎伝説における「鬼」について、考えてみたい。
*この続きは(その2)へ
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2017/12/26
「岡山県・造山(つくりやま)古墳見学」 古代への好奇心
寒い風が吹きつける中、造山古墳などを日帰りで見学してきた。
岡山からのJR支線・桃太郎線の吉備津駅からスタートして、吉備津神社・楯築(たてつき)遺跡・造山古墳などを歩いて見て回ってきた。総歩数は29000歩余り。約18km歩いてきたようだ。
吉備津神社の本殿・拝殿は見事な建築物で、国宝に指定されている。しかし、私の関心は神社ではないので、それほど(国宝とはいえ)感動しなかった。本殿南にある360mの廻廊を歩いたときは「長いなあ・・・これはいい廻廊だ」と思えたが…。
吉備津神社よりも、「楯築遺跡」の方が感動させられた。この日、遺跡の頂上にはたった一人(見学者は私のみ)だけの「寂しい遺跡」だったが・・・。謎めいた「ストーンサークル」がある頂上の雰囲気が、古代への想像を湧き立ててくれた。背丈以上の大きさのある複数の石を何度も何度もさわったり、写真に撮ったり…。
弥生時代後期(3世紀)の古墳としては、日本最大級だとのこと。全長約80m、円丘部直径40mだから、「古墳時代の巨大古墳群」と比べれば小さい。しかし、古墳時代以前の古墳なのだ。
頂上部に背丈以上の大きな石が6、7個サークル状に置かれている。どういう意味・暗示を示しているのだろうか? 考古学者たちも結論をだしていないようだ。
不思議な古墳だった。こういう古墳を見たのは初めてだった。(全国探せば、他にもあるのかもしれないが・・・。古墳知識のあまりない私。)
日本で4番目に大きい古墳は岡山県吉備地方にある「造山古墳」。この近くに同じ読み方をする「作山古墳」があるとのことだった。どちらも「つくりやまこふん」だが、区別するときは「ぞうざんこふん」・「さくざんこふん」の呼び方をするそうだ。
今回、「さくざん」古墳へは時間がなくて行くことができなかった。
全国に古墳は約15万基あるのだが、九州や近畿地方に多いことは周知のこと。しかし、岡山県に巨大な古墳が多い点はあまり知られていないようだ。古墳について近年興味を持ち出した私も、岡山県の古墳群のすごさは認識できていなかった。
造山古墳の階段を登っていき、頂上部を歩きまわったことによって、岡山県の古墳群パワーのすごさを実感することができた。見て回った古墳はたったの2カ所だったが、それだけでも吉備の豪族(吉備氏?)のすごさを想像することができた。
古代において、鉄が朝鮮半島から日本海沿いの出雲地方などの伝わり、そして中国山地にも伝わり、川を利用して(船が山を越えて)吉備地方に伝わったのであろう。
吉備地方において大量の「鉄」が加工された時代があったに違いない。大量の鉄が船の利用で中国山地を越えてていったようだ。鉄の加工によって、武器や農具を作り繁栄したであろう吉備地方。古墳時代以前には「吉備王国」の時代があったにちがいない。その中心となった豪族の一人の墓が巨大古墳(=造山古墳)に違いない。(と、私は勝手に想像した。)
「船が山を通る」方法があったということを、長野正孝氏の書物によって教えられた。
日本海から中国山地を越えるために「川の利用」がもちろん必要であった。
その知恵は朝鮮半島の人々によってもたらされたのであろう。地元の日本人と外国人が協力して、鉄を運ぶ方法をあみ出して、中国山地を越えたことであろう。
あれこれと古代の様子を想像しながら、吉備地方を味わうことができ、たのしい古墳見て歩きになりました。
「吉備津神社」の「津」の意味は、「港」ということだから、吉備港は「船や人」が集まるところだったはず。その近くに「川」か「湖」・「海(瀬戸内海)」があったはず。
ちなみに、3世紀ごろの岡山県の海岸線は現在の山陽新幹線のラインだということだから、吉備津神社は海に近かったことになる。さて、この想像は当たっているかな?
古代において、「足守川」の河口(瀬戸内海河口)付近に位置しているのが、「楯築遺跡・墳墓」ということになる。
3世紀、楯築遺跡は、まさに「瀬戸内海に面する港の役割をする位置」にあるのだ。
以上、学者ではない素人の考えたことなので、単なる妄想かもしれないが、「楽しい気分になる」ものです。
来年も青春18切符利用で、「中山道歩き」や「古墳見て歩き」などを楽しみたい。
吉備津神社 本殿・拝殿
廻廊(途中から撮影。全体は写せなかった。長いですね。)
楯築遺跡(頂上部ストーンサークルの一部)
この石の厚みは薄いが、高さは3mほど
古墳群のある地域 吉備地方には古墳が多い。
造山古墳 全景(前方後円墳) 写真右手が後円部
後円部頂上から眺めている。前方部など古墳の上部には、草と木々があり、形がわかりにくい。しかし、立ち入りでき、登れる古墳としては、日本一。全長約350mの古墳なので、やはり大きかったですね。
後円部は平らだった。戦国時代の毛利軍が、この古墳の後円部を削って、「陣地」としていたらしい。高い場所を「有効利用」したようだ。戦争においては、「古墳の文化財性」などは無視したのだろう。この地は、秀吉によって水攻めされた備中高松城の近く。戦国時代においては、破壊(陣地として利用)された古墳もあったようだ。この古墳は「天皇の墓」ではなく、吉備地方の豪族の墓だったのだろう。天皇の墓だったら、削られなかったかもしれない。
階段があり、そこから古墳側面を撮影。下に写っている家々から、古墳の規模を想像できるかも…。日本で4番目に大きい古墳です。吉備にはすごく力のある人がいたことを証明している古墳だった。
古墳見て歩き、おもしろかったですよ。 よかった!
岡山からのJR支線・桃太郎線の吉備津駅からスタートして、吉備津神社・楯築(たてつき)遺跡・造山古墳などを歩いて見て回ってきた。総歩数は29000歩余り。約18km歩いてきたようだ。
吉備津神社の本殿・拝殿は見事な建築物で、国宝に指定されている。しかし、私の関心は神社ではないので、それほど(国宝とはいえ)感動しなかった。本殿南にある360mの廻廊を歩いたときは「長いなあ・・・これはいい廻廊だ」と思えたが…。
吉備津神社よりも、「楯築遺跡」の方が感動させられた。この日、遺跡の頂上にはたった一人(見学者は私のみ)だけの「寂しい遺跡」だったが・・・。謎めいた「ストーンサークル」がある頂上の雰囲気が、古代への想像を湧き立ててくれた。背丈以上の大きさのある複数の石を何度も何度もさわったり、写真に撮ったり…。
弥生時代後期(3世紀)の古墳としては、日本最大級だとのこと。全長約80m、円丘部直径40mだから、「古墳時代の巨大古墳群」と比べれば小さい。しかし、古墳時代以前の古墳なのだ。
頂上部に背丈以上の大きな石が6、7個サークル状に置かれている。どういう意味・暗示を示しているのだろうか? 考古学者たちも結論をだしていないようだ。
不思議な古墳だった。こういう古墳を見たのは初めてだった。(全国探せば、他にもあるのかもしれないが・・・。古墳知識のあまりない私。)
日本で4番目に大きい古墳は岡山県吉備地方にある「造山古墳」。この近くに同じ読み方をする「作山古墳」があるとのことだった。どちらも「つくりやまこふん」だが、区別するときは「ぞうざんこふん」・「さくざんこふん」の呼び方をするそうだ。
今回、「さくざん」古墳へは時間がなくて行くことができなかった。
全国に古墳は約15万基あるのだが、九州や近畿地方に多いことは周知のこと。しかし、岡山県に巨大な古墳が多い点はあまり知られていないようだ。古墳について近年興味を持ち出した私も、岡山県の古墳群のすごさは認識できていなかった。
造山古墳の階段を登っていき、頂上部を歩きまわったことによって、岡山県の古墳群パワーのすごさを実感することができた。見て回った古墳はたったの2カ所だったが、それだけでも吉備の豪族(吉備氏?)のすごさを想像することができた。
古代において、鉄が朝鮮半島から日本海沿いの出雲地方などの伝わり、そして中国山地にも伝わり、川を利用して(船が山を越えて)吉備地方に伝わったのであろう。
吉備地方において大量の「鉄」が加工された時代があったに違いない。大量の鉄が船の利用で中国山地を越えてていったようだ。鉄の加工によって、武器や農具を作り繁栄したであろう吉備地方。古墳時代以前には「吉備王国」の時代があったにちがいない。その中心となった豪族の一人の墓が巨大古墳(=造山古墳)に違いない。(と、私は勝手に想像した。)
「船が山を通る」方法があったということを、長野正孝氏の書物によって教えられた。
日本海から中国山地を越えるために「川の利用」がもちろん必要であった。
その知恵は朝鮮半島の人々によってもたらされたのであろう。地元の日本人と外国人が協力して、鉄を運ぶ方法をあみ出して、中国山地を越えたことであろう。
あれこれと古代の様子を想像しながら、吉備地方を味わうことができ、たのしい古墳見て歩きになりました。
「吉備津神社」の「津」の意味は、「港」ということだから、吉備港は「船や人」が集まるところだったはず。その近くに「川」か「湖」・「海(瀬戸内海)」があったはず。
ちなみに、3世紀ごろの岡山県の海岸線は現在の山陽新幹線のラインだということだから、吉備津神社は海に近かったことになる。さて、この想像は当たっているかな?
古代において、「足守川」の河口(瀬戸内海河口)付近に位置しているのが、「楯築遺跡・墳墓」ということになる。
3世紀、楯築遺跡は、まさに「瀬戸内海に面する港の役割をする位置」にあるのだ。
以上、学者ではない素人の考えたことなので、単なる妄想かもしれないが、「楽しい気分になる」ものです。
来年も青春18切符利用で、「中山道歩き」や「古墳見て歩き」などを楽しみたい。
吉備津神社 本殿・拝殿
廻廊(途中から撮影。全体は写せなかった。長いですね。)
楯築遺跡(頂上部ストーンサークルの一部)
この石の厚みは薄いが、高さは3mほど
古墳群のある地域 吉備地方には古墳が多い。
造山古墳 全景(前方後円墳) 写真右手が後円部
後円部頂上から眺めている。前方部など古墳の上部には、草と木々があり、形がわかりにくい。しかし、立ち入りでき、登れる古墳としては、日本一。全長約350mの古墳なので、やはり大きかったですね。
後円部は平らだった。戦国時代の毛利軍が、この古墳の後円部を削って、「陣地」としていたらしい。高い場所を「有効利用」したようだ。戦争においては、「古墳の文化財性」などは無視したのだろう。この地は、秀吉によって水攻めされた備中高松城の近く。戦国時代においては、破壊(陣地として利用)された古墳もあったようだ。この古墳は「天皇の墓」ではなく、吉備地方の豪族の墓だったのだろう。天皇の墓だったら、削られなかったかもしれない。
階段があり、そこから古墳側面を撮影。下に写っている家々から、古墳の規模を想像できるかも…。日本で4番目に大きい古墳です。吉備にはすごく力のある人がいたことを証明している古墳だった。
古墳見て歩き、おもしろかったですよ。 よかった!
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タグ: 古墳見学
2017/12/25
「古代史への関心」 古代への好奇心
堺観光ボランティアガイドをするようになって、約4年足らず。
仁徳天皇陵古墳(教科書では「大山古墳」と書かれている)拝所前でガイドする回数が一番多い。ガイドを担当する場所は(旧堺市内に)10箇所ほどあるのだが、観光客が多く訪れる箇所に配置につくことが当然多くなる。
仁徳天皇陵古墳(などの百舌鳥古墳群や古市古墳群)が世界文化遺産の国内推薦に決定してから、観光客が増加してきた。
観光客の増加に伴って、我々ボランティアガイドも忙しくなってきた。
ガイド活動ではほんの少ししか貢献できていない私ですが、「古墳への好奇心」は強くなってきたようです。古代史への関心もわくようになってきました。ボランティアガイドをするまでは、まったく「好奇心がわかない分野」でしたが、ボランティア仲間の影響で、少しずつ「古墳への関心」が高まってきました。
「実際に古墳を見て回る」おもしろさも味わえるようになってきました。実際の古墳を歩いて見て回るのは、結構おもしろいですね。
東海道歩きや中山道歩きももちろんおもしろいのですが、「古墳見て歩き」もおもしろい。(人間、高齢者になっても「変化」が起こるものですね。)
そのきっかけは、長野正孝氏の『古代史の謎は「鉄」で解ける』という本を読んで、「なるほど!」と思ったこと。古代史への知的好奇心がくすぐられました。さらにボランティア活動仲間の影響もあって…。
さて、前置きが長くなりました。
明日、青春18切符利用で、岡山県の古墳を見に行く予定です。いつもは古代史の勉強ではリーダー的存在の方々に連れてもらっているのですが、明日は一人で出かけます。
「造山(つくりやま)古墳=日本で4番目に大きい古墳」を見てから、一番上まで登ってくる予定です。中に入れる古墳としては、日本一大きな古墳だそうです。
ちなみに、大きさ№1(仁徳天皇陵古墳)・№2(応神天皇陵古墳)・№3(履中天皇陵古墳)の古墳は、すべて中に入れません。
時間があれば、近くの古墳や神社にも行ってみる予定。なにぶん、日帰りですので、何カ所行けるかな?・・・。
仁徳天皇陵古墳(教科書では「大山古墳」と書かれている)拝所前でガイドする回数が一番多い。ガイドを担当する場所は(旧堺市内に)10箇所ほどあるのだが、観光客が多く訪れる箇所に配置につくことが当然多くなる。
仁徳天皇陵古墳(などの百舌鳥古墳群や古市古墳群)が世界文化遺産の国内推薦に決定してから、観光客が増加してきた。
観光客の増加に伴って、我々ボランティアガイドも忙しくなってきた。
ガイド活動ではほんの少ししか貢献できていない私ですが、「古墳への好奇心」は強くなってきたようです。古代史への関心もわくようになってきました。ボランティアガイドをするまでは、まったく「好奇心がわかない分野」でしたが、ボランティア仲間の影響で、少しずつ「古墳への関心」が高まってきました。
「実際に古墳を見て回る」おもしろさも味わえるようになってきました。実際の古墳を歩いて見て回るのは、結構おもしろいですね。
東海道歩きや中山道歩きももちろんおもしろいのですが、「古墳見て歩き」もおもしろい。(人間、高齢者になっても「変化」が起こるものですね。)
そのきっかけは、長野正孝氏の『古代史の謎は「鉄」で解ける』という本を読んで、「なるほど!」と思ったこと。古代史への知的好奇心がくすぐられました。さらにボランティア活動仲間の影響もあって…。
さて、前置きが長くなりました。
明日、青春18切符利用で、岡山県の古墳を見に行く予定です。いつもは古代史の勉強ではリーダー的存在の方々に連れてもらっているのですが、明日は一人で出かけます。
「造山(つくりやま)古墳=日本で4番目に大きい古墳」を見てから、一番上まで登ってくる予定です。中に入れる古墳としては、日本一大きな古墳だそうです。
ちなみに、大きさ№1(仁徳天皇陵古墳)・№2(応神天皇陵古墳)・№3(履中天皇陵古墳)の古墳は、すべて中に入れません。
時間があれば、近くの古墳や神社にも行ってみる予定。なにぶん、日帰りですので、何カ所行けるかな?・・・。
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