2018/3/2
「桃太郎伝説の背後にあるものは?(その3続き)」 古代への好奇心
前回のブログ(その3)の続きです。
鬼退治伝説は日本各地にあるのだが、一番古いと言われているのは、鳥取県に伝わっている「鬼退治伝説」である。鳥取県の伯耆(ほうき)地方の溝口町に「鬼住山(きずみやま)」がある。日本海に流れ込んでいる日野川(鳥取三大河川の一つ)がこの山の近くを流れている。そして、日野川上流部には(先述の)「船通山」がある。
この「鬼住山」が舞台の「鬼退治伝説」が日本最古の「鬼」にまつわる伝説のようだ。
「鬼=渡来人」だという観点からすると、最古だとみなして間違いないだろう。
現在、北朝鮮の漁船が漂流した結果、日本海側沿岸部に流れ着いている。弥生時代にしろ、古墳時代にしろ、「対馬海流の流れ」は変わらない。
北朝鮮の船(エンジンが故障すれば)は沿海部を離れると、リマン海流の流れに漂って南下するが、対馬海流とぶつかる海域で、東へ向かう。能登半島方面へ流れていくことになる。古代においても、同じように船が流されていったであろう。
能登半島に至るまでに、出雲や伯耆、丹後などで上陸した渡来人たちを想像することができる。いったい何万人の渡来人たちが日本にやってきたのであろうか?
朝鮮半島から渡ってきた渡来人たちは、出雲(古代は島だった)地方で上陸し、日野川を利用して伯耆地方(現在の溝口町近辺)の内陸部を目指し、日野川近くの山に住み着いたのだろう。
この地に住み着いた渡来人はすでに住んでいた日本人住民たちとうまく調和できなかったらしい。住民たちと調和できなかった「渡来人」は「鬼」扱いされ、疎んじられることになったにちがいない。
渡来人にもいろいろなタイプの人がいたに違いない。朝鮮半島に住んでいられなくなって、新天地を求めて日本に来た人もいただろう。日本人たちとうまくやっていかれず、悪行を働く人もいたに違いない。何万人もの正しい行動をする渡来人が住み着いて、うまく調和していけても、中には少数ながらも、悪いことをする人間がいるものだ。
その少数の渡来人をもって、「渡来人は悪いことをする奴らだから」懲らしめてやらねばならない。
「鬼退治」に発生である。日本各地に「鬼退治伝説」があるが、各地にあって、不思議ではない。「いじめ」は現在になっても延々と続いている。要するに「自分たちとは違う存在=異質なもの」への排除・いじめである。
時の権力者(古代における権力者=大和朝廷)が武力をもって退治する場合、権力者が勝つようになっている。まさに「鬼退治」の正当性の実力行使である。
鬼は「悪い奴だ」という意識が刷り込まれていった。
しかし、鬼は本当に「悪い奴ら」ばかりだったのであろうか?
一部の人が悪いだけなのに、全体が悪いように意識づけられる。この問題は歴史を経ても解消されていない。
(しばらく中断していましたが、ここから続きです。)
日本最古(約1800年前)の鳥取県・溝口町に伝わる「鬼退治伝説」とは、どういう話なのか、簡単に説明してみよう。(ネット上の資料による)
第7代天皇・孝霊天皇が、伯耆の国(現在の鳥取県西部)に来た時に、鬼住山に鬼の兄弟を頭とする鬼の集団がいて人々を大いに悩ませていた。そのことを聞いた孝霊天皇の軍隊が鬼たちを退治したという伝説である。
【 孝霊(こうれい)天皇の軍勢は、まず鬼住山の隣にある笹苞山(さすとやま)という山に陣を築いて、地元の人たちから献上された笹巻き団子を三つ置いて鬼たちを誘い出すことに成功し、鬼の兄弟のうちの弟を倒します。しかし、兄は激しく抵抗したので、戦いは膠着してしまいます。
孝霊天皇は「笹の葉を刈って山のように積み上げれば鬼たちは降参する」という夢を見ます。そして、そのようにすると、笹の葉は鬼住山に飛んで行って鬼たちの身体にまとわりつき、孝霊天皇の軍は笹の葉に火をつけて勝利をおさめます。
敗れた兄の鬼(鬼集団の頭)は命乞いをし、天皇の配下となって、北の守りとなることを約束した。】
という話である。
考古学者などは、10代までの天皇の実在性を史実としてとらえていない。第7代孝霊天皇についても「歴史上の実在性」は証明されていない。私も想像上の天皇だったと思っている。
大和朝廷の正当性を主張するために、神話や伝記などに登場させたのであろう。「日本書紀」や「古事記」には登場する天皇ではある。
伯耆の国の「鬼退治伝説」において、「鬼は悪い奴ら」の設定になっている。鬼は「人々を悩ませる異質な存在」として扱われている。
弥生時代末期において、渡来人が朝鮮半島からやってきていた。その渡来人が、大和朝廷の全国制覇において、「抵抗勢力」として従わないとき、『大和朝廷に反旗を翻す渡来人集団=鬼たち』という設定になっていったことであろう。
大和朝廷=正義
朝廷に反抗する人々=悪い奴ら=渡来人たちも怪しい → 「鬼」扱い。
ほとんどの「鬼退治伝説」の背後にあるものは、この図式に当てはめることができるであろう。
「異質な存在は鬼扱いする気質」が多くの日本人の心に植え付けられていくことになったわけである。
「和をもって尊し」は、日本人の素晴らしい気質であるが、そのマイナス面もある。異質なものを排除しようとする面が強くなりすぎると、「個」の存在価値をないがしろにしていくマイナス面が強くなる。
周りを気にして、周りに合わせようとばかりする生き方。(目立つ場では、自分の意見は言わない、など。)
周りからどう見られるか、どう思われるかばかり気になって、「自分=個性」喪失の人生。
それらは、現在日本が抱える大きな問題である。人の目ばかり気になって…「孤独に生きる力」を喪失している大人や子どもたち。特に学校現場は悲惨な現実を抱えている。子どものいじめ問題の背後にあるものの起源も、鬼退治伝説の発生と関係しているのだと、私には思われる。
「桃太郎伝説の背後にあるもの」についても、次の(その4)でまとめてみたい。
以上(その3・その3続き)はここまでです。
鬼退治伝説は日本各地にあるのだが、一番古いと言われているのは、鳥取県に伝わっている「鬼退治伝説」である。鳥取県の伯耆(ほうき)地方の溝口町に「鬼住山(きずみやま)」がある。日本海に流れ込んでいる日野川(鳥取三大河川の一つ)がこの山の近くを流れている。そして、日野川上流部には(先述の)「船通山」がある。
この「鬼住山」が舞台の「鬼退治伝説」が日本最古の「鬼」にまつわる伝説のようだ。
「鬼=渡来人」だという観点からすると、最古だとみなして間違いないだろう。
現在、北朝鮮の漁船が漂流した結果、日本海側沿岸部に流れ着いている。弥生時代にしろ、古墳時代にしろ、「対馬海流の流れ」は変わらない。
北朝鮮の船(エンジンが故障すれば)は沿海部を離れると、リマン海流の流れに漂って南下するが、対馬海流とぶつかる海域で、東へ向かう。能登半島方面へ流れていくことになる。古代においても、同じように船が流されていったであろう。
能登半島に至るまでに、出雲や伯耆、丹後などで上陸した渡来人たちを想像することができる。いったい何万人の渡来人たちが日本にやってきたのであろうか?
朝鮮半島から渡ってきた渡来人たちは、出雲(古代は島だった)地方で上陸し、日野川を利用して伯耆地方(現在の溝口町近辺)の内陸部を目指し、日野川近くの山に住み着いたのだろう。
この地に住み着いた渡来人はすでに住んでいた日本人住民たちとうまく調和できなかったらしい。住民たちと調和できなかった「渡来人」は「鬼」扱いされ、疎んじられることになったにちがいない。
渡来人にもいろいろなタイプの人がいたに違いない。朝鮮半島に住んでいられなくなって、新天地を求めて日本に来た人もいただろう。日本人たちとうまくやっていかれず、悪行を働く人もいたに違いない。何万人もの正しい行動をする渡来人が住み着いて、うまく調和していけても、中には少数ながらも、悪いことをする人間がいるものだ。
その少数の渡来人をもって、「渡来人は悪いことをする奴らだから」懲らしめてやらねばならない。
「鬼退治」に発生である。日本各地に「鬼退治伝説」があるが、各地にあって、不思議ではない。「いじめ」は現在になっても延々と続いている。要するに「自分たちとは違う存在=異質なもの」への排除・いじめである。
時の権力者(古代における権力者=大和朝廷)が武力をもって退治する場合、権力者が勝つようになっている。まさに「鬼退治」の正当性の実力行使である。
鬼は「悪い奴だ」という意識が刷り込まれていった。
しかし、鬼は本当に「悪い奴ら」ばかりだったのであろうか?
一部の人が悪いだけなのに、全体が悪いように意識づけられる。この問題は歴史を経ても解消されていない。
(しばらく中断していましたが、ここから続きです。)
日本最古(約1800年前)の鳥取県・溝口町に伝わる「鬼退治伝説」とは、どういう話なのか、簡単に説明してみよう。(ネット上の資料による)
第7代天皇・孝霊天皇が、伯耆の国(現在の鳥取県西部)に来た時に、鬼住山に鬼の兄弟を頭とする鬼の集団がいて人々を大いに悩ませていた。そのことを聞いた孝霊天皇の軍隊が鬼たちを退治したという伝説である。
【 孝霊(こうれい)天皇の軍勢は、まず鬼住山の隣にある笹苞山(さすとやま)という山に陣を築いて、地元の人たちから献上された笹巻き団子を三つ置いて鬼たちを誘い出すことに成功し、鬼の兄弟のうちの弟を倒します。しかし、兄は激しく抵抗したので、戦いは膠着してしまいます。
孝霊天皇は「笹の葉を刈って山のように積み上げれば鬼たちは降参する」という夢を見ます。そして、そのようにすると、笹の葉は鬼住山に飛んで行って鬼たちの身体にまとわりつき、孝霊天皇の軍は笹の葉に火をつけて勝利をおさめます。
敗れた兄の鬼(鬼集団の頭)は命乞いをし、天皇の配下となって、北の守りとなることを約束した。】
という話である。
考古学者などは、10代までの天皇の実在性を史実としてとらえていない。第7代孝霊天皇についても「歴史上の実在性」は証明されていない。私も想像上の天皇だったと思っている。
大和朝廷の正当性を主張するために、神話や伝記などに登場させたのであろう。「日本書紀」や「古事記」には登場する天皇ではある。
伯耆の国の「鬼退治伝説」において、「鬼は悪い奴ら」の設定になっている。鬼は「人々を悩ませる異質な存在」として扱われている。
弥生時代末期において、渡来人が朝鮮半島からやってきていた。その渡来人が、大和朝廷の全国制覇において、「抵抗勢力」として従わないとき、『大和朝廷に反旗を翻す渡来人集団=鬼たち』という設定になっていったことであろう。
大和朝廷=正義
朝廷に反抗する人々=悪い奴ら=渡来人たちも怪しい → 「鬼」扱い。
ほとんどの「鬼退治伝説」の背後にあるものは、この図式に当てはめることができるであろう。
「異質な存在は鬼扱いする気質」が多くの日本人の心に植え付けられていくことになったわけである。
「和をもって尊し」は、日本人の素晴らしい気質であるが、そのマイナス面もある。異質なものを排除しようとする面が強くなりすぎると、「個」の存在価値をないがしろにしていくマイナス面が強くなる。
周りを気にして、周りに合わせようとばかりする生き方。(目立つ場では、自分の意見は言わない、など。)
周りからどう見られるか、どう思われるかばかり気になって、「自分=個性」喪失の人生。
それらは、現在日本が抱える大きな問題である。人の目ばかり気になって…「孤独に生きる力」を喪失している大人や子どもたち。特に学校現場は悲惨な現実を抱えている。子どものいじめ問題の背後にあるものの起源も、鬼退治伝説の発生と関係しているのだと、私には思われる。
「桃太郎伝説の背後にあるもの」についても、次の(その4)でまとめてみたい。
以上(その3・その3続き)はここまでです。
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2018/2/24
「桃太郎伝説の背後にあるものは?(その3)」 古代への好奇心
「鬼」の話に戻ります。
古代日本の鬼とは、(その1)で述べたように、「日本人とは異なる文化や習慣を持っている人たち=朝鮮半島などからやってきた渡来人」のことであった。
渡来人(鬼扱いされた人々)によって、高度な文化(特に鉄の加工技術・造船技術・製塩方法など)が日本に伝えられている。実際に渡来人が住み着いた地方は繁栄し、王国を形成していったようだ。
その一例が、「吉備王国」であろう。弥生時代末期~古墳時代前期、吉備地方は栄えている。その証拠も遺跡として残されている。
渡来人が吉備地方に住み着いたルートは、日本海ルートで出雲地方に到着し、中国山地を越えて南下したに違いない。(この地方の地図をよく見ると、「船通山(1142m)」という山があるのだ。名前のいわれに、渡来人が関係しているかもしれない。「船が通う山」ということから考えて、そういうことができる技術・技能があったのは、渡来人たちに違いない・・・?)
日本海に流れ込んでいる川を利用して、上流の中国山地に向かう。川が途切れたら、船を上げ、陸路を移動させ、(乗ってきた船を陸路では、大勢の人力または馬利用で引っ張って移動させ)瀬戸内海へ下っていく川を利用して吉備地方へ船(多量の鉄鋌の載せている)で移動していった。と、私は勝手に想像している。
渡来人の中には騎馬民族もいたにちがいない。船を陸路では馬利用で引っ張って動かす技術もあったに違いない。出雲と吉備は近いのだ。中国山地越えに利用できた川も複数(たとえば、日野川や高梁川など)ある。それらの川は今も流れている。
なぜ船で中国山地を越えなければならなかったのであろうか?
馬利用でも越えられただろうが、運搬できる鉄鋌(てってい=朝鮮半島から運んできた鉄の板。この鉄の板を加工して武器や農具を製造した。)は、ごくわずかで、船利用こそ多量の鉄鋌を運ぶことができたにちがいない。
この時代、日本では鉄はまだ生産できていなかった。輸入品の鉄鋌の確保が権力者にとって最重要なことであった。王国形成には「鉄鋌の確保」と金属加工技術者の存在が必要であった。
鳥取県(伯耆地方)と吉備地方を結ぶ鉄道として、JR伯備線がある。この伯備線ルート近辺が日本海と瀬戸内海をつなぐ、つまり「朝鮮半島と吉備地方を船でつなぐルート」になったと想像できる。
「船の陸路コースはJR伯備線が手掛かりになるかも…?」なんて、勝手に地図を見て想像している私。
(こういう想像をするのは、楽しいですね。)
(この続きは後日に)
古代日本の鬼とは、(その1)で述べたように、「日本人とは異なる文化や習慣を持っている人たち=朝鮮半島などからやってきた渡来人」のことであった。
渡来人(鬼扱いされた人々)によって、高度な文化(特に鉄の加工技術・造船技術・製塩方法など)が日本に伝えられている。実際に渡来人が住み着いた地方は繁栄し、王国を形成していったようだ。
その一例が、「吉備王国」であろう。弥生時代末期~古墳時代前期、吉備地方は栄えている。その証拠も遺跡として残されている。
渡来人が吉備地方に住み着いたルートは、日本海ルートで出雲地方に到着し、中国山地を越えて南下したに違いない。(この地方の地図をよく見ると、「船通山(1142m)」という山があるのだ。名前のいわれに、渡来人が関係しているかもしれない。「船が通う山」ということから考えて、そういうことができる技術・技能があったのは、渡来人たちに違いない・・・?)
日本海に流れ込んでいる川を利用して、上流の中国山地に向かう。川が途切れたら、船を上げ、陸路を移動させ、(乗ってきた船を陸路では、大勢の人力または馬利用で引っ張って移動させ)瀬戸内海へ下っていく川を利用して吉備地方へ船(多量の鉄鋌の載せている)で移動していった。と、私は勝手に想像している。
渡来人の中には騎馬民族もいたにちがいない。船を陸路では馬利用で引っ張って動かす技術もあったに違いない。出雲と吉備は近いのだ。中国山地越えに利用できた川も複数(たとえば、日野川や高梁川など)ある。それらの川は今も流れている。
なぜ船で中国山地を越えなければならなかったのであろうか?
馬利用でも越えられただろうが、運搬できる鉄鋌(てってい=朝鮮半島から運んできた鉄の板。この鉄の板を加工して武器や農具を製造した。)は、ごくわずかで、船利用こそ多量の鉄鋌を運ぶことができたにちがいない。
この時代、日本では鉄はまだ生産できていなかった。輸入品の鉄鋌の確保が権力者にとって最重要なことであった。王国形成には「鉄鋌の確保」と金属加工技術者の存在が必要であった。
鳥取県(伯耆地方)と吉備地方を結ぶ鉄道として、JR伯備線がある。この伯備線ルート近辺が日本海と瀬戸内海をつなぐ、つまり「朝鮮半島と吉備地方を船でつなぐルート」になったと想像できる。
「船の陸路コースはJR伯備線が手掛かりになるかも…?」なんて、勝手に地図を見て想像している私。
(こういう想像をするのは、楽しいですね。)
(この続きは後日に)
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2018/2/20
「桃太郎伝説の背後にあるものは?(その2)」 古代への好奇心
「鬼=渡来人」は悪い奴だったのか? そうではなかったはずなのに…。
古代において、渡来人は素晴らしい技術や文化をもたらした。日本が弥生時代・古墳時代には「倭(わ)」と呼ばれてたいた。日本人=倭人と呼ばれれていた時代、日本は統一されず、各地の実力者(豪族たち)によって勢力争いが起こっていた。「倭国大乱」の時代があった。
話は「鬼の話」から少し脱線していますが・・・。関係する話なので、お付き合いをよろしく。
3世紀ごろ、倭国大乱を一応平定したのは卑弥呼であり、邪馬台国女王ということになっている。中国の歴史資料によって、「卑弥呼」・「邪馬台国」という存在が歴史に刻まれている。(古代中国の文化は素晴らしい!)
しかし、邪馬台国がどこにあったのかということは(現在に至っても)確定されていない。ほとんどの学者は「畿内説」または「九州説」らしいが、考古学に全く素人の私は別のところだと推定している。確たる根拠はない。素人の勘である。
では、邪馬台国はどこにあったのか?
広い範囲では、中国地方の日本海側沿岸から京都の丹後半島までの間にあったと推定している。
狭めれば、出雲地方(古代は島だった)・鳥取県日本海沿岸部地域・丹後半島西側地域のうちのどこかであったと推定している。もっと絞り込めば、丹後半島西部の「間人(たいざ)」近辺だったと推定している。間人は聖徳太子の母の出身地で、その一帯は相当な豪族が治めていたにと考えられる。
間人近辺を推定する理由は・・・?
『古代史の謎は「海路」で解ける』(長野正孝著)の書物を読んで影響を受け、この本の内容を信じ、支持したからである。
* 以下、長野正孝氏の著書について、友人たちに紹介・評価した文章(鬼井江メモ・一部加筆あり)です。
「卑弥呼の時代、瀬戸内海を航行できる船乗りはいなかった。」という長野氏の主張に賛成である。
『日本書紀』(720年に編纂)をまとめた舎人親王は、瀬戸内海の恐ろしさを知らなかった。だから、瀬戸内海における航行の難しさの実態を知らなかったがゆえに、歴史を脚色(時の政権の都合のいいように、想像しただけで、証拠や根拠がなくても記述すること)できたのであろう。
瀬戸内海は現代に至っても、航行が難しい海。まして、エンジンがなかった時代はなおさら難しかった。九州北部海域から大阪湾までの瀬戸内海を、人力で舟をこぎ、潮の流れを把握し、その流れにうまく乗り、風をうまくつかんで航行する技術は、卑弥呼の時代(2~3世紀)に確立していなかった。(と、船の専門家である長野氏は述べておられるが、その意見に大賛成している私。)
瀬戸内海航行の難しさ(5世紀になるまでは不可能だったという実態)がわかっておれば、「歴史上の脚色」はできなかったにちがいない。しかし、舎人親王は(卑弥呼の時代でも)瀬戸内海の西端(九州)から東端(大阪湾)まで航行できたことにしてしまったのだ。
この歴史的脚色が、現代にまで悪影響している。
日本書紀と古事記の記述内容を信じた人々は、「記紀などの古書」を信奉する学者などの論文・書物の影響もあり、ますます日本書紀や古事記の記述内容を真実だと思い込んでいくことになる。その悪影響は明治以後になっても続いている。記述内容で、自分たちにとって都合の良い部分をつなぎ合わせたり、不都合な部分は無視するなどして、論の正当性を主張するようになっていったようだ。
初代天皇から10代目ぐらいまでの天皇は、実在したかどうかわからないにもかかわらず、「天皇の古墳」と認定された古墳・遺跡は(原則として、宮内庁が)発掘させないようになっている。たぶん、このことも日本書紀や古事記の存在・記述内容が関係しているのだろう。(と、私は勝手に思っている。)
しかし、現代になり、古い書物や文献だけにに頼らずに、遺跡や古墳の発掘・科学的測定・違う視点からの検討・新しい検証方法などが行われるようになって、それらを根拠に論文が書かれるれるようになってきた。(江戸時代までは、書物・文献などの記述内容が中心だったし、戦前までその傾向が強かったようだ。)
その結果、「記紀の内容は真実ではなかった」ということがはっきりしてきた。多くの学者が論理的かつ科学的に考古学論文を書くようになってきたようだ。150年ほど前までの「記紀内容」への評価は激変したと言えるであろう。
古事記は、特に「神話の世界」という評価に変わった。
瀬戸内海が九州(関門海峡)から大阪湾に航行できるようになったのは、長野氏によると、5世紀のことである。21代天皇・雄略帝の尽力によるとのことである。(私はこの説を信用している。)
だから、「神武東征」(推定3世紀ごろ?)において、瀬戸内海を船で東へ進んだという「東征コース」は、当時の船の構造から考えても、ありえないことになる。また、神功皇后が九州から(大阪の)住吉へ、瀬戸内海を通って、凱旋帰還したということもありえないことである。どちらも作り話であり、「神話」・「説話」だということになる。
日本建国の超英雄(東征の結果、橿原の地で初代天皇に即位した)神武天皇や神功皇后は瀬戸内海を通ったことになっているが、それは事実に反することなのである。
古事記や日本書紀を書いた人々は、作り話が旨かった。多くの学者たちはそのうまさに騙されたわけである。
古代史の研究において、現在に至ってもその悪影響は尾を引いている。瀬戸内海を船で通れたはずだと信じている人たちが今も多いようだ・・・。
古代史研究においては、「記紀ありき」の一派が評価され、邪馬台国畿内説とも相まって、評価されていったようだ。
しかし、私は全く評価していない。
占い師(シャーマン)である卑弥呼がシャーマンの第一人者として、倭国大乱の時代に評価された。何を占ったのだろうか? 当時、一番心配なことは何だったのだろうか?
おそらく「航海の安全」を占うことだった。卑弥呼の時代、一番危険な航海は「朝鮮半島へ渡る航路」であった。日本海航路で朝鮮半島へ渡ることは命がけであった。遭難も多かったに違いない。出航できる季節と気象・台風などの嵐の発生度・対馬海流の流れ・潮の干満や流れなど、すべての知識を踏まえて「航海の安全」のために、占う能力が必要であった。その能力において、まさに「シャーマンの第一人者」として邪馬台国の女王として力も与えられたようだ。
「日本で一番当たる占い師=卑弥呼」の下に「倭国大乱」は治まったようだ。
男たち豪族の力づくだけではまとまらなかった国家が、卑弥呼によってまとまったのは「航海安全」占い能力ゆえであったにちがいない。卑弥呼の気象予報能力などが劣化していったとき、彼女は「霊力」がなくなったとみなされ、ひっそりと殺されたのかもされない。占い師は国々にいただろう。港があるところに、シャーマンがいた。当たらないシャーマンは殺され、始末される時代だったに違いない。
卑弥呼が大活躍した場所は(朝鮮半島と海でつながる)日本海沿岸部地域だったにちがいない。そうとしか思えない。海外貿易において、日本海沿岸部は朝鮮半島と隣り合わせなのである。九州北部が朝鮮半島に一番近いので、邪馬台国九州説が押されるのだが、「魏志倭人伝」に書かれた場所は、九州とは読み取れない。私は九州とは思えない。魏志倭人伝に邪馬台国の位置が書かれているのだが、今の地図を踏まえて推定すると九州よりもはるか南方の地に至ってしまうようだ。
対馬海流を踏まえて魏志倭人伝の記述から予想したところ、日本海沿岸部ということになってしまう。まったく、私の勝手な推定だ…。(ちなみに、長野氏は邪馬台国推定地をはっきりと書いていない。)(一方、私は素人で、考古学については「勘」だけが頼りで、楽しんでいる。だから、このブログであれこれと書けるのだろう。)
私の想像を繰り返し述べると、卑弥呼が活躍した場所は日本海沿岸部地域であっただろう、ということである。
出雲地方・伯耆(鳥取県西部)・丹後半島の西部(間人近辺)などの地域に絞られる。この点については、すでに述べた。
卑弥呼の時代の船は構造的に遠距離航行は無理だった。尺取り虫が移動するように港々をつないで航行しなければならなかった。下関方面から丹後半島西部までは小さな港をつなぎながら、航行することは可能だったようだ。しかし、丹後半島は先端部(経ヶ岬)を回って東側に一気に航行できない、と船の専門家は考えている。丹後半島には絶壁が多く、小さな港さえなかったから、「卑弥呼の時代における航行不能地」だったのだ。
応神天皇(15代天皇)が活躍した時代には、船の構造が進歩し遠距離航海ができるようにようになっている。その結果、船は丹後半島を大きく回って航行できるようになり、敦賀が栄えている。敦賀近辺の多くの神社は応神天皇を祭っている。「日本の中心は敦賀だった」という時代があったのである
「丹後王国」の時代の次は「敦賀王国」だったと考えられる。古代における覇権を握るポイントは、「鉄=朝鮮半島からの輸入品」を押さえることにあった。
「(古代は)鉄を制する者が日本を制する」のであった。
朝鮮半島からの輸入品である鉄を制した地域は「王国」となり、栄えていったのだ。
船の構造の進化に伴って、「王国」も変化していくことになった。
大和朝廷が「鉄を制したことによって」日本を統一することができたという点では、どの学者も共通見解らしい。第15代・応神天皇~第21代・雄略天皇の時代に日本の統一が固まっていったのだろう。(諸説あるらしいが・・・)
私個人としては、日本海航路の古代の港の発掘は進んでいない気がする。島根県や鳥取県・兵庫県や京都府の北部・さらに若狭湾周辺は人口減が大きい地域。住宅建設などで、「古代の港」「古代の住居跡」などが発見される確率は低いところである。
九州やヤマト中心の「古代研究」は多いが、「日本海沿岸部地域」の調査・発掘・研究は少ないようだ。もっとも、近年には「古代遺跡の大発見」が日本海沿岸部地域でもなされてきているが…。今後は、もっともっと日本海沿岸部に力を入れてほしいものだ。
以上、『鬼井江のメモ』でした。(その2)はここまでとします。
鬼の話から、脱線しすぎましたが、(その3)で元に戻します。
次の(その3)も長くなるかもしれませんが、ブログ訪問よろしくお願いいたします。
古代において、渡来人は素晴らしい技術や文化をもたらした。日本が弥生時代・古墳時代には「倭(わ)」と呼ばれてたいた。日本人=倭人と呼ばれれていた時代、日本は統一されず、各地の実力者(豪族たち)によって勢力争いが起こっていた。「倭国大乱」の時代があった。
話は「鬼の話」から少し脱線していますが・・・。関係する話なので、お付き合いをよろしく。
3世紀ごろ、倭国大乱を一応平定したのは卑弥呼であり、邪馬台国女王ということになっている。中国の歴史資料によって、「卑弥呼」・「邪馬台国」という存在が歴史に刻まれている。(古代中国の文化は素晴らしい!)
しかし、邪馬台国がどこにあったのかということは(現在に至っても)確定されていない。ほとんどの学者は「畿内説」または「九州説」らしいが、考古学に全く素人の私は別のところだと推定している。確たる根拠はない。素人の勘である。
では、邪馬台国はどこにあったのか?
広い範囲では、中国地方の日本海側沿岸から京都の丹後半島までの間にあったと推定している。
狭めれば、出雲地方(古代は島だった)・鳥取県日本海沿岸部地域・丹後半島西側地域のうちのどこかであったと推定している。もっと絞り込めば、丹後半島西部の「間人(たいざ)」近辺だったと推定している。間人は聖徳太子の母の出身地で、その一帯は相当な豪族が治めていたにと考えられる。
間人近辺を推定する理由は・・・?
『古代史の謎は「海路」で解ける』(長野正孝著)の書物を読んで影響を受け、この本の内容を信じ、支持したからである。
* 以下、長野正孝氏の著書について、友人たちに紹介・評価した文章(鬼井江メモ・一部加筆あり)です。
「卑弥呼の時代、瀬戸内海を航行できる船乗りはいなかった。」という長野氏の主張に賛成である。
『日本書紀』(720年に編纂)をまとめた舎人親王は、瀬戸内海の恐ろしさを知らなかった。だから、瀬戸内海における航行の難しさの実態を知らなかったがゆえに、歴史を脚色(時の政権の都合のいいように、想像しただけで、証拠や根拠がなくても記述すること)できたのであろう。
瀬戸内海は現代に至っても、航行が難しい海。まして、エンジンがなかった時代はなおさら難しかった。九州北部海域から大阪湾までの瀬戸内海を、人力で舟をこぎ、潮の流れを把握し、その流れにうまく乗り、風をうまくつかんで航行する技術は、卑弥呼の時代(2~3世紀)に確立していなかった。(と、船の専門家である長野氏は述べておられるが、その意見に大賛成している私。)
瀬戸内海航行の難しさ(5世紀になるまでは不可能だったという実態)がわかっておれば、「歴史上の脚色」はできなかったにちがいない。しかし、舎人親王は(卑弥呼の時代でも)瀬戸内海の西端(九州)から東端(大阪湾)まで航行できたことにしてしまったのだ。
この歴史的脚色が、現代にまで悪影響している。
日本書紀と古事記の記述内容を信じた人々は、「記紀などの古書」を信奉する学者などの論文・書物の影響もあり、ますます日本書紀や古事記の記述内容を真実だと思い込んでいくことになる。その悪影響は明治以後になっても続いている。記述内容で、自分たちにとって都合の良い部分をつなぎ合わせたり、不都合な部分は無視するなどして、論の正当性を主張するようになっていったようだ。
初代天皇から10代目ぐらいまでの天皇は、実在したかどうかわからないにもかかわらず、「天皇の古墳」と認定された古墳・遺跡は(原則として、宮内庁が)発掘させないようになっている。たぶん、このことも日本書紀や古事記の存在・記述内容が関係しているのだろう。(と、私は勝手に思っている。)
しかし、現代になり、古い書物や文献だけにに頼らずに、遺跡や古墳の発掘・科学的測定・違う視点からの検討・新しい検証方法などが行われるようになって、それらを根拠に論文が書かれるれるようになってきた。(江戸時代までは、書物・文献などの記述内容が中心だったし、戦前までその傾向が強かったようだ。)
その結果、「記紀の内容は真実ではなかった」ということがはっきりしてきた。多くの学者が論理的かつ科学的に考古学論文を書くようになってきたようだ。150年ほど前までの「記紀内容」への評価は激変したと言えるであろう。
古事記は、特に「神話の世界」という評価に変わった。
瀬戸内海が九州(関門海峡)から大阪湾に航行できるようになったのは、長野氏によると、5世紀のことである。21代天皇・雄略帝の尽力によるとのことである。(私はこの説を信用している。)
だから、「神武東征」(推定3世紀ごろ?)において、瀬戸内海を船で東へ進んだという「東征コース」は、当時の船の構造から考えても、ありえないことになる。また、神功皇后が九州から(大阪の)住吉へ、瀬戸内海を通って、凱旋帰還したということもありえないことである。どちらも作り話であり、「神話」・「説話」だということになる。
日本建国の超英雄(東征の結果、橿原の地で初代天皇に即位した)神武天皇や神功皇后は瀬戸内海を通ったことになっているが、それは事実に反することなのである。
古事記や日本書紀を書いた人々は、作り話が旨かった。多くの学者たちはそのうまさに騙されたわけである。
古代史の研究において、現在に至ってもその悪影響は尾を引いている。瀬戸内海を船で通れたはずだと信じている人たちが今も多いようだ・・・。
古代史研究においては、「記紀ありき」の一派が評価され、邪馬台国畿内説とも相まって、評価されていったようだ。
しかし、私は全く評価していない。
占い師(シャーマン)である卑弥呼がシャーマンの第一人者として、倭国大乱の時代に評価された。何を占ったのだろうか? 当時、一番心配なことは何だったのだろうか?
おそらく「航海の安全」を占うことだった。卑弥呼の時代、一番危険な航海は「朝鮮半島へ渡る航路」であった。日本海航路で朝鮮半島へ渡ることは命がけであった。遭難も多かったに違いない。出航できる季節と気象・台風などの嵐の発生度・対馬海流の流れ・潮の干満や流れなど、すべての知識を踏まえて「航海の安全」のために、占う能力が必要であった。その能力において、まさに「シャーマンの第一人者」として邪馬台国の女王として力も与えられたようだ。
「日本で一番当たる占い師=卑弥呼」の下に「倭国大乱」は治まったようだ。
男たち豪族の力づくだけではまとまらなかった国家が、卑弥呼によってまとまったのは「航海安全」占い能力ゆえであったにちがいない。卑弥呼の気象予報能力などが劣化していったとき、彼女は「霊力」がなくなったとみなされ、ひっそりと殺されたのかもされない。占い師は国々にいただろう。港があるところに、シャーマンがいた。当たらないシャーマンは殺され、始末される時代だったに違いない。
卑弥呼が大活躍した場所は(朝鮮半島と海でつながる)日本海沿岸部地域だったにちがいない。そうとしか思えない。海外貿易において、日本海沿岸部は朝鮮半島と隣り合わせなのである。九州北部が朝鮮半島に一番近いので、邪馬台国九州説が押されるのだが、「魏志倭人伝」に書かれた場所は、九州とは読み取れない。私は九州とは思えない。魏志倭人伝に邪馬台国の位置が書かれているのだが、今の地図を踏まえて推定すると九州よりもはるか南方の地に至ってしまうようだ。
対馬海流を踏まえて魏志倭人伝の記述から予想したところ、日本海沿岸部ということになってしまう。まったく、私の勝手な推定だ…。(ちなみに、長野氏は邪馬台国推定地をはっきりと書いていない。)(一方、私は素人で、考古学については「勘」だけが頼りで、楽しんでいる。だから、このブログであれこれと書けるのだろう。)
私の想像を繰り返し述べると、卑弥呼が活躍した場所は日本海沿岸部地域であっただろう、ということである。
出雲地方・伯耆(鳥取県西部)・丹後半島の西部(間人近辺)などの地域に絞られる。この点については、すでに述べた。
卑弥呼の時代の船は構造的に遠距離航行は無理だった。尺取り虫が移動するように港々をつないで航行しなければならなかった。下関方面から丹後半島西部までは小さな港をつなぎながら、航行することは可能だったようだ。しかし、丹後半島は先端部(経ヶ岬)を回って東側に一気に航行できない、と船の専門家は考えている。丹後半島には絶壁が多く、小さな港さえなかったから、「卑弥呼の時代における航行不能地」だったのだ。
応神天皇(15代天皇)が活躍した時代には、船の構造が進歩し遠距離航海ができるようにようになっている。その結果、船は丹後半島を大きく回って航行できるようになり、敦賀が栄えている。敦賀近辺の多くの神社は応神天皇を祭っている。「日本の中心は敦賀だった」という時代があったのである
「丹後王国」の時代の次は「敦賀王国」だったと考えられる。古代における覇権を握るポイントは、「鉄=朝鮮半島からの輸入品」を押さえることにあった。
「(古代は)鉄を制する者が日本を制する」のであった。
朝鮮半島からの輸入品である鉄を制した地域は「王国」となり、栄えていったのだ。
船の構造の進化に伴って、「王国」も変化していくことになった。
大和朝廷が「鉄を制したことによって」日本を統一することができたという点では、どの学者も共通見解らしい。第15代・応神天皇~第21代・雄略天皇の時代に日本の統一が固まっていったのだろう。(諸説あるらしいが・・・)
私個人としては、日本海航路の古代の港の発掘は進んでいない気がする。島根県や鳥取県・兵庫県や京都府の北部・さらに若狭湾周辺は人口減が大きい地域。住宅建設などで、「古代の港」「古代の住居跡」などが発見される確率は低いところである。
九州やヤマト中心の「古代研究」は多いが、「日本海沿岸部地域」の調査・発掘・研究は少ないようだ。もっとも、近年には「古代遺跡の大発見」が日本海沿岸部地域でもなされてきているが…。今後は、もっともっと日本海沿岸部に力を入れてほしいものだ。
以上、『鬼井江のメモ』でした。(その2)はここまでとします。
鬼の話から、脱線しすぎましたが、(その3)で元に戻します。
次の(その3)も長くなるかもしれませんが、ブログ訪問よろしくお願いいたします。