2019/10/21
「竹内街道を少し歩いてみて」 健康
昨日(10月20日)、中学校時代の同窓会があった。
会場へは三国ヶ丘駅から歩くことにした。日本最古の街道、竹内街道の一部(三国ヶ丘周辺から金岡神社近辺まで)を歩く機会になった。
竹内街道は「日本遺産」に選定されているが、実際に歩いて見ると、道が分かりにくい。日本遺産になっていても、堺市などの取り組みの「熱心度」は低い気がした。
百舌鳥・古市古墳群が「世界遺産」になったので、竹内街道整備への意識が低いのだろう。まあ、しかたがないのかもしれない。
せめて竹内街道に面して建っている家々の住民たちが、街道をわかりやすく、美しくしていこうという意識が高まれば、市の予算がなくても竹内街道を「ロマンある道」に育てていけることであろう。何か、協力できることがあれば、機会を見てボランティアで活動したい。
歩くのにわかりやすい標示を増やしてほしいものである。
東海道53次などを歩いてみて感じたことであるが、旧街道を非常に大切にしている宿場と素っ気ない宿場との落差が大きい。500kmほどの東海道53次だから、市によって、旧街道への意識に違いがあって当然。「宿場および道」が観光資源としてとらえている市は保存などに力を入れているし、プランター植えの花などを並べている宿場もある。歩いていて、気持ちよかったし、街道のコースが分かりやすかった。
竹内街道はたったの28km。街道のある市がまとまって、竹内街道を美しい道にしてほしいものである。予算は少しでも構わない。できることから少しずつ取り組んでいただきたい。
何年か後に「竹内街道歩き」がブームになる日が来るかも・・・と、期待している。
堺市堺区黒土町 竹内街道の一里塚(標柱)が設置されている。
写真左には堺から池田方面までの「大阪中央環状線」があり、交通量が多い。この道は新しい道路であり、竹内街道ではない。竹内街道は右側の住宅地へ向かう道である。中百舌鳥駅方面へのバス道もあるが、その道でもない。
この地点で、竹内街道を間違わずに歩ける人は少ないだろう。住宅地へ入っていき、カーブしたり、S字型にくねっていることが多い。車一台が通れる狭い道が竹内街道なのである。(バスや大型トラックが入っていける広くて直線的な道は、古い時代の街道ではないことが多い。)
古い時代の石の標柱が残っていることが多い。赤い鳥居の左手に標柱が残っていた。
『万代八幡(もずはちまん、と読む)十三町』
万代=もづ という読みは、かなり古い時代の標示である。現代は、「百舌鳥八幡」と、表現されることがほとんどである。
竹内街道は日本最古の街道である。いつごろできたのか? 613年ごろ、とのことで。推古天皇の命令で設置されている。聖徳太子(=厩戸皇子。今の教科書では、聖徳太子とは教えない。)が推古天皇とともに活躍した時代に、竹内街道(難波・堺 ~ 竹内峠を越えて飛鳥方面へ)は造られた。
日本最古の「官道=国道1号線」。当時一番重要な道だった。遣隋使や遣唐使たちおよび大陸から大和朝廷に遣わされた渡来人たちも通った。
金岡神社近くの「金岡神社・頓宮 西之宮」 巨木=楠が植えられている。
*頓宮とは、神(霊)が移動する際の仮の宮。御旅所。ここでは、金岡神社の神輿が宿泊する地とみなされる。
現在は「楠塚公園」になっていた。
堺には5つの街道が通っていた。大阪湾に沿って、「紀州街道」。
やや海から離れているが、大阪湾沿いに「熊野街道」。
高野山に向かっての「西高野街道」(仁徳天皇陵古墳に接している道)。
そして、大小路が起点になっている「竹内街道」=地図では、柿色の道で、現在地の表記がある道。
同じく、堺から奈良へ向かう道の「長尾街道」。堺から奈良県の長尾神社へ向かう道。
会場へは三国ヶ丘駅から歩くことにした。日本最古の街道、竹内街道の一部(三国ヶ丘周辺から金岡神社近辺まで)を歩く機会になった。
竹内街道は「日本遺産」に選定されているが、実際に歩いて見ると、道が分かりにくい。日本遺産になっていても、堺市などの取り組みの「熱心度」は低い気がした。
百舌鳥・古市古墳群が「世界遺産」になったので、竹内街道整備への意識が低いのだろう。まあ、しかたがないのかもしれない。
せめて竹内街道に面して建っている家々の住民たちが、街道をわかりやすく、美しくしていこうという意識が高まれば、市の予算がなくても竹内街道を「ロマンある道」に育てていけることであろう。何か、協力できることがあれば、機会を見てボランティアで活動したい。
歩くのにわかりやすい標示を増やしてほしいものである。
東海道53次などを歩いてみて感じたことであるが、旧街道を非常に大切にしている宿場と素っ気ない宿場との落差が大きい。500kmほどの東海道53次だから、市によって、旧街道への意識に違いがあって当然。「宿場および道」が観光資源としてとらえている市は保存などに力を入れているし、プランター植えの花などを並べている宿場もある。歩いていて、気持ちよかったし、街道のコースが分かりやすかった。
竹内街道はたったの28km。街道のある市がまとまって、竹内街道を美しい道にしてほしいものである。予算は少しでも構わない。できることから少しずつ取り組んでいただきたい。
何年か後に「竹内街道歩き」がブームになる日が来るかも・・・と、期待している。
堺市堺区黒土町 竹内街道の一里塚(標柱)が設置されている。
写真左には堺から池田方面までの「大阪中央環状線」があり、交通量が多い。この道は新しい道路であり、竹内街道ではない。竹内街道は右側の住宅地へ向かう道である。中百舌鳥駅方面へのバス道もあるが、その道でもない。
この地点で、竹内街道を間違わずに歩ける人は少ないだろう。住宅地へ入っていき、カーブしたり、S字型にくねっていることが多い。車一台が通れる狭い道が竹内街道なのである。(バスや大型トラックが入っていける広くて直線的な道は、古い時代の街道ではないことが多い。)
古い時代の石の標柱が残っていることが多い。赤い鳥居の左手に標柱が残っていた。
『万代八幡(もずはちまん、と読む)十三町』
万代=もづ という読みは、かなり古い時代の標示である。現代は、「百舌鳥八幡」と、表現されることがほとんどである。
竹内街道は日本最古の街道である。いつごろできたのか? 613年ごろ、とのことで。推古天皇の命令で設置されている。聖徳太子(=厩戸皇子。今の教科書では、聖徳太子とは教えない。)が推古天皇とともに活躍した時代に、竹内街道(難波・堺 ~ 竹内峠を越えて飛鳥方面へ)は造られた。
日本最古の「官道=国道1号線」。当時一番重要な道だった。遣隋使や遣唐使たちおよび大陸から大和朝廷に遣わされた渡来人たちも通った。
金岡神社近くの「金岡神社・頓宮 西之宮」 巨木=楠が植えられている。
*頓宮とは、神(霊)が移動する際の仮の宮。御旅所。ここでは、金岡神社の神輿が宿泊する地とみなされる。
現在は「楠塚公園」になっていた。
堺には5つの街道が通っていた。大阪湾に沿って、「紀州街道」。
やや海から離れているが、大阪湾沿いに「熊野街道」。
高野山に向かっての「西高野街道」(仁徳天皇陵古墳に接している道)。
そして、大小路が起点になっている「竹内街道」=地図では、柿色の道で、現在地の表記がある道。
同じく、堺から奈良へ向かう道の「長尾街道」。堺から奈良県の長尾神社へ向かう道。
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