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「考えること」と「感じること」
そのふたつをはっきりと区別できるのかどうかも、私にはよく分かりませんけれど・・・
先日観た、プレゼンテーションの番組では、ご自身が脳卒中の発作に見舞われた際のことを
脳科学者として語っていらっしゃる方のお話が、とても興味深く感じました。
いわゆる「右脳と左脳」には、それぞれの機能があり、違う役割を担っているらしく
おそらく、そのどちらもが大切な働きを持っていて、両方があって協働しているからこそ
人が人としての生活を送ることに、大いに寄与しているのでしょう。
人それぞれの得意不得意も、その脳の特性や状態によって、色々なんだろうなぁと思います。
まぁまぁ、そんなことを理屈っぽく考えてみるのも面白いですけれど
人が、何かを決めて行動する際なども、そんな理屈だけではなくて
言葉にもできないような「感情や気持ち」に拠るところも多いのかもしれませんね。
ところで、お話は変わりますけれど・・・
先日、朝の連続テレビ小説「カーネーション」の脚本を書いた渡辺あやさんの新聞記事のなかに
「書くことがただ好きなんですが(中略)自分と登場人物の間で起きた純度の高い振動が役者の肉体を通じて他の人々にも広がっていく。私自身、それですごく解放されるし、見る人も自意識に閉じ込められていた感情を一緒に解放できればいい。そう願っています。」とありました。
そして、これまで映画などの作品に関わって
「・・・死や老いという課題について、作品を通じて取り組んでいます。」とのこと。
「カーネーション」も、そんな視点が反映されていたのかなぁと想いました。
ということで、いくつかの興味が広がって
先日、DVDを借りて映画「ジョゼと虎と魚たち」と「メゾン・ド・ヒミコ」
(他には「プール」と「恋する宇宙」という取り合わせで…)を観ました。
そうとなると、田辺聖子さんの原作も無性に気になって、収められている全集を借りました。
私は、最近小説を読むことも少ないのですけれど
最後の解説で、田辺聖子さんが書いていらっしゃることに、フムと合点がいきました。(以下引用)
『(前略)オトナでも困る、コドモでも困る、ということである。
オトナというのは、(何でも分かってしまう癖)のある人という意味で使っている。
…短編小説は、名の如く「小説」小なる説であるから、大所高所の見かたは不要であって、偏狭でよい。
我利我欲の解放を主張すべきである。
次いで、”コドモ”でもいけない、というのは、我利我欲の依ってきたるところを、諄々と説き去り、説き来って、
〈なるほど、そこもあるか〉と相手にいわせるのが大事だからである。(中略)
ここはやはり、一人漫才できるほどの、度胸と器量がなくては叶わぬ。・・・
一人漫才は、疎漏が多い。
而して、聞く側としては、おのずとわがあたまで補い、やっと辻褄を合わせて聞くことができる。(だろうと思う)
短編も読者参加の余地があらまほしい。
おのおのの人生経歴に従い、短編を読んでわが想像で補う。それをゆるしてくれる包容力のあるもので、あらまほしい。」
「小説」って、こんなふうにして、ヒトの想像力を借りて、様々な場面を描き出し
その中で、身体を持ち血の通った登場人物が語りだし、動きだし
そして、読むヒトの心を揺さぶるものなんですね・・・
さらには、短い小説から、映像作品が生み出されたり
脚本家の描き出すセリフから、面白いドラマが創られるんですね。
作る人、語る人、演ずる人があって、
さらに、その作品を受け取リ、感じる人があって、そんな世界が成り立っているんだなぁと想いました。
19:24 from Twitter for iPhone ☆RT @LPattern: 「右脳と左脳のスイッチ」? 論理と感覚、その両方が必要だ。【ラーニング・パターン】 tinyurl.com/LPattern22 pic.twitter.com/13rwgOUx19:56 from Twitter for iPhone 色々なサポートに少しでもつながれると、いいですね~私も、お話を伺ってうれしく感じました。RT @asboyum @midorinrinEX そうですね~通級の先生も、保護者のケアが…ともおっしゃてくれていたので嬉しいです?20:00 from モバツイ / www.movatwi.jp 今日は一日中、本や小説や物語のことを考えながら過ごす。ダニエル・キイスと田辺聖子全集16巻お目当ては… twitpic.com/9dnv4s
23:02 from Twitter for iPhone わぁ~再放送は…毎週火曜 午後4時~4時59分(再)毎週水曜 午前8時~8時59分(再)RT @NHK_BS_Premium: NHK BSプレミアム 21:00 極上美の饗宴「希望へ続く道~東山魁夷の東北~」 nhk.jp/gokujou #nhkbspby LittleRing on Twitter
そのふたつをはっきりと区別できるのかどうかも、私にはよく分かりませんけれど・・・
先日観た、プレゼンテーションの番組では、ご自身が脳卒中の発作に見舞われた際のことを
脳科学者として語っていらっしゃる方のお話が、とても興味深く感じました。
いわゆる「右脳と左脳」には、それぞれの機能があり、違う役割を担っているらしく
おそらく、そのどちらもが大切な働きを持っていて、両方があって協働しているからこそ
人が人としての生活を送ることに、大いに寄与しているのでしょう。
人それぞれの得意不得意も、その脳の特性や状態によって、色々なんだろうなぁと思います。
まぁまぁ、そんなことを理屈っぽく考えてみるのも面白いですけれど
人が、何かを決めて行動する際なども、そんな理屈だけではなくて
言葉にもできないような「感情や気持ち」に拠るところも多いのかもしれませんね。
ところで、お話は変わりますけれど・・・
先日、朝の連続テレビ小説「カーネーション」の脚本を書いた渡辺あやさんの新聞記事のなかに
「書くことがただ好きなんですが(中略)自分と登場人物の間で起きた純度の高い振動が役者の肉体を通じて他の人々にも広がっていく。私自身、それですごく解放されるし、見る人も自意識に閉じ込められていた感情を一緒に解放できればいい。そう願っています。」とありました。
そして、これまで映画などの作品に関わって
「・・・死や老いという課題について、作品を通じて取り組んでいます。」とのこと。
「カーネーション」も、そんな視点が反映されていたのかなぁと想いました。
ということで、いくつかの興味が広がって
先日、DVDを借りて映画「ジョゼと虎と魚たち」と「メゾン・ド・ヒミコ」
(他には「プール」と「恋する宇宙」という取り合わせで…)を観ました。
そうとなると、田辺聖子さんの原作も無性に気になって、収められている全集を借りました。
私は、最近小説を読むことも少ないのですけれど
最後の解説で、田辺聖子さんが書いていらっしゃることに、フムと合点がいきました。(以下引用)
『(前略)オトナでも困る、コドモでも困る、ということである。
オトナというのは、(何でも分かってしまう癖)のある人という意味で使っている。
…短編小説は、名の如く「小説」小なる説であるから、大所高所の見かたは不要であって、偏狭でよい。
我利我欲の解放を主張すべきである。
次いで、”コドモ”でもいけない、というのは、我利我欲の依ってきたるところを、諄々と説き去り、説き来って、
〈なるほど、そこもあるか〉と相手にいわせるのが大事だからである。(中略)
ここはやはり、一人漫才できるほどの、度胸と器量がなくては叶わぬ。・・・
一人漫才は、疎漏が多い。
而して、聞く側としては、おのずとわがあたまで補い、やっと辻褄を合わせて聞くことができる。(だろうと思う)
短編も読者参加の余地があらまほしい。
おのおのの人生経歴に従い、短編を読んでわが想像で補う。それをゆるしてくれる包容力のあるもので、あらまほしい。」
「小説」って、こんなふうにして、ヒトの想像力を借りて、様々な場面を描き出し
その中で、身体を持ち血の通った登場人物が語りだし、動きだし
そして、読むヒトの心を揺さぶるものなんですね・・・
さらには、短い小説から、映像作品が生み出されたり
脚本家の描き出すセリフから、面白いドラマが創られるんですね。
作る人、語る人、演ずる人があって、
さらに、その作品を受け取リ、感じる人があって、そんな世界が成り立っているんだなぁと想いました。
19:24 from Twitter for iPhone ☆RT @LPattern: 「右脳と左脳のスイッチ」? 論理と感覚、その両方が必要だ。【ラーニング・パターン】 tinyurl.com/LPattern22 pic.twitter.com/13rwgOUx19:56 from Twitter for iPhone 色々なサポートに少しでもつながれると、いいですね~私も、お話を伺ってうれしく感じました。RT @asboyum @midorinrinEX そうですね~通級の先生も、保護者のケアが…ともおっしゃてくれていたので嬉しいです?20:00 from モバツイ / www.movatwi.jp 今日は一日中、本や小説や物語のことを考えながら過ごす。ダニエル・キイスと田辺聖子全集16巻お目当ては… twitpic.com/9dnv4s