なんとなく夏休みモードにはいって、ブログに集中して向かう時間がとれずにいましたが
相変わらず、あちらこちらに出かけては、いろいろなことを見聞きしておりますので
そのうち、まとまったお話ができるといいなぁと想っております。
さて昨日は、通級指導教室での宿泊学習の集合が、Y駅に8時45分ということで
「時間の感覚のあまりない」kirikouと、どこかノンビリの私にとっては
『遅刻しないように、時間どうり行く』のは、大きな目標でした。
目覚ましぴったりに、早くは起きられませんでしたが
こんなイベントの時には「火事場のバカヂカラ」のでるタイプらしく
カナリあわてながらも、何とか予定していた電車に乗れました。
車内も思ったよりもひどい混雑ではなく、大きなリュックを前に抱えて
なるべく小さな声で話しながら、15分ほどで駅に着きました。
(思い返してみると、混んだ電車の中でも、意外に落ち着いていられました!)
一泊の宿泊学習で、心配がまったくないわけではありませんが
昨年はじめて、スポーツクラブの一泊のキャンプに参加したこともあって
kirikouも私も、一度経験しているという安心感が大きかったのでしょう
ドキドキワクワクする気持ちは、もちろんありましたが
不思議なくらい心配や不安な気持ちは、私にはありませんでしたし
kirikouも、とても落ち着いた様子でした。
同じ学校から14名、全部で8校ありますので、かなりの大人数です。
指導グループが一緒のお子さんと連れ立ってトイレを済ませて
バスに乗り込んでから出発までの時間、
窓際に座ったkirikouは、チョッと興奮気味の様子で
ニコニコしながら何度もこちらに向かって手を振っていました。
車酔いをすることがあると申し出ていたためか
kirikouの隣には、通級校の校長先生が座ってくださっていました。
見送る母親のほうも、初めてのお泊りで心配げな様子の方や
兄弟のお子さんと一緒に手を振る方などいろいろでした。
お天気も曇り空で、子どもたちも元気そうに無事に出発していき
見送った母親も、まずは、ほっとしてそれぞれに解散しました。
おかげさまで、この一日は、
私にとっては、神さまからいただいた『ははの休日』に思えて
先日ご紹介した「円覚寺の夏期講座」に、伺うことにいたしました。
9時半には北鎌倉駅に到着し、階段を登り三門を抜け
その先の仏殿の横の立て札に書かれた
「ありがとう 感謝のこころが灯をともす」のことばを一回唱えてから
大方丈へ向かいました。
受付を済ませて中に入ると、たくさんの参加者がいらしていて、中はいっぱいのようで
大方丈のお庭に面した、講師の方のお姿が見える外廊下のところに座りました。
管長様のお話は、終わっていましたので
井上宏先生の「笑いの力~笑いのふしぎ」というお話から伺いました。
関西の方らしい柔らかな語り口のお話は、とてもわかりやすく親しみやすく
流石に、笑いのつぼも心得ていらっしゃって、一時間強のお話もあっという間に感じました。
さらには、井上先生のお話を伺ううちに、そのお話の内容のとおり
「笑いは実践」「笑う門には 福来る」「人間は笑う存在」「笑う能力」
「元気に生きる=健康」と「親和的な共同体=仲の良い人間関係」に結びつき
「笑いの開放作用」や「笑いの無化作用」が働いて
「人間関係のストレスも忘れ」
「笑いとユーモア」によって「コミュニケーションも良好」になって
「壊れた関係の調整・復元にも役立つ」そうで
加齢とともに衰えてくる「柔軟性を絶やさないように」
『孤独にならないように仲間と笑い』『笑うことを忘れない』ようにしたいと
心から想いました。
とってもありがたく心も癒される、ほんとうに素敵なお話でした!!
曇り空とはいえ、緑の木々のあいだを、さわやかな涼しい風が吹き抜けて
ことのほか心地よく
外廊下では、お話を聞きながらも、遠くで鳴くウグイスやカラスの声が
響きわたっているのが、はっきりと感じられました。
もちろん、どこをどうとも分けることはできないのでしょうが
よく左脳・右脳のことが取りざたされることがあり
その時に私の感じたものは、もしかするとその両方のことを、ふと思い起こさせるような
なんともいえぬ、ふしぎな感覚であったように、いま振り返ると思えます。
もうお一方の、田中仙翁先生のお話は
「他者といかに接するか~茶の湯の示唆するもの~」という
私には、一見あまりなじみのない世界のお話でしたが
奥深い伝統ある「茶の湯」のもつ、もともとの精神や
日常の中での細やかな心配りや人への思いやりのようなことどもが伺われ
同じように、心が洗われるような、とてもすがすがしい気持ちになりました。
終わりに、管長様がお出ましになって「般若心経」を皆さんで、ご一緒に唱えました。
管長様の閉講のご挨拶は、
「どんなに、幸せそうに見える人も…」のおことばではじまりましたが
私は、そのとき思わず目にあふれるものがあって、その先がよく聞き取れなかったような
もう、頭の中に何も入ってこないような感じになってしまいました。
そのあと、大方丈のうら手のお庭の池を眺めたり
亀のいる大きな池のほうを、少し歩いてから、仏殿のほうに向かいました。
うす暗く感じるお堂の中の仏様をしばし拝んでから
また、三門をくぐって、ふと振り返って高くそびえるその門を見上げて
何も思い浮かぶこともなく、じっとたたずんでおりました。
それから、石畳をゆっくりと降りるうち、少しはなれたところを歩いている初老の男性がいらして
どちらからともなくお声をかけて「良いひと時を過ごせたこと」をお話しました。
「先ほど、三門のところに立っておられたが
漱石の『門』のなかの言葉をご存知ですか?」と、不意に問われたので
「この三門が漱石の『門』に書かれていることは知っておりましたが…
その言葉は、思い出せません。」と申し上げると
『彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。
要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。』
という夏目漱石の『門』の中の一節を、お話してくださいました。
私はそのあとで「ひとの幸せや不幸とは、いったいなんなのでしょう…
先ほどの管長様のお話を伺って、なぜか途中で涙が出てしまって
最後が良くわかりませんでした。」と申し上げたところ
「『心を開いて、何事にも感謝して生きることが肝心』というようなことでしょう。」とのこと
それから、何気ないお話を二三交わして、ご挨拶をしてお別れいたしました。
お名前も知らない方との、まさにこれが「一期一会」というものか…と
つよく心に残る出来事でした。
さて、私の鎌倉散歩は、まだもう少し続きますが
ここでは、足立大進老大師の4日間の講和をまとめた
「説くに説かれぬ」という冊子に書かれた最後のお言葉をご紹介いたします。
私にとって、意味があるのかないのか
皆さまにとって、何らかのお役に立つのかどうか、まったく何の根拠もありませんが
どうも気になる、なぜか惹かれる、というのは
まだ何かを断ち切れないでいる私のような人間には、
どこかしら、心打たれるものがあるように感じています。
どうでもいいことは
どうでもいいぞ
人がなんと云おうが
社会がなんと思おうが
そんなことを
いちいち気にかけておっては だめだぞ
ねらった仕事をやれ
相変わらず、あちらこちらに出かけては、いろいろなことを見聞きしておりますので
そのうち、まとまったお話ができるといいなぁと想っております。
さて昨日は、通級指導教室での宿泊学習の集合が、Y駅に8時45分ということで
「時間の感覚のあまりない」kirikouと、どこかノンビリの私にとっては
『遅刻しないように、時間どうり行く』のは、大きな目標でした。
目覚ましぴったりに、早くは起きられませんでしたが
こんなイベントの時には「火事場のバカヂカラ」のでるタイプらしく
カナリあわてながらも、何とか予定していた電車に乗れました。
車内も思ったよりもひどい混雑ではなく、大きなリュックを前に抱えて
なるべく小さな声で話しながら、15分ほどで駅に着きました。
(思い返してみると、混んだ電車の中でも、意外に落ち着いていられました!)
一泊の宿泊学習で、心配がまったくないわけではありませんが
昨年はじめて、スポーツクラブの一泊のキャンプに参加したこともあって
kirikouも私も、一度経験しているという安心感が大きかったのでしょう
ドキドキワクワクする気持ちは、もちろんありましたが
不思議なくらい心配や不安な気持ちは、私にはありませんでしたし
kirikouも、とても落ち着いた様子でした。
同じ学校から14名、全部で8校ありますので、かなりの大人数です。
指導グループが一緒のお子さんと連れ立ってトイレを済ませて
バスに乗り込んでから出発までの時間、
窓際に座ったkirikouは、チョッと興奮気味の様子で
ニコニコしながら何度もこちらに向かって手を振っていました。
車酔いをすることがあると申し出ていたためか
kirikouの隣には、通級校の校長先生が座ってくださっていました。
見送る母親のほうも、初めてのお泊りで心配げな様子の方や
兄弟のお子さんと一緒に手を振る方などいろいろでした。
お天気も曇り空で、子どもたちも元気そうに無事に出発していき
見送った母親も、まずは、ほっとしてそれぞれに解散しました。
おかげさまで、この一日は、
私にとっては、神さまからいただいた『ははの休日』に思えて
先日ご紹介した「円覚寺の夏期講座」に、伺うことにいたしました。
9時半には北鎌倉駅に到着し、階段を登り三門を抜け
その先の仏殿の横の立て札に書かれた
「ありがとう 感謝のこころが灯をともす」のことばを一回唱えてから
大方丈へ向かいました。
受付を済ませて中に入ると、たくさんの参加者がいらしていて、中はいっぱいのようで
大方丈のお庭に面した、講師の方のお姿が見える外廊下のところに座りました。
管長様のお話は、終わっていましたので
井上宏先生の「笑いの力~笑いのふしぎ」というお話から伺いました。
関西の方らしい柔らかな語り口のお話は、とてもわかりやすく親しみやすく
流石に、笑いのつぼも心得ていらっしゃって、一時間強のお話もあっという間に感じました。
さらには、井上先生のお話を伺ううちに、そのお話の内容のとおり
「笑いは実践」「笑う門には 福来る」「人間は笑う存在」「笑う能力」
「元気に生きる=健康」と「親和的な共同体=仲の良い人間関係」に結びつき
「笑いの開放作用」や「笑いの無化作用」が働いて
「人間関係のストレスも忘れ」
「笑いとユーモア」によって「コミュニケーションも良好」になって
「壊れた関係の調整・復元にも役立つ」そうで
加齢とともに衰えてくる「柔軟性を絶やさないように」
『孤独にならないように仲間と笑い』『笑うことを忘れない』ようにしたいと
心から想いました。
とってもありがたく心も癒される、ほんとうに素敵なお話でした!!
曇り空とはいえ、緑の木々のあいだを、さわやかな涼しい風が吹き抜けて
ことのほか心地よく
外廊下では、お話を聞きながらも、遠くで鳴くウグイスやカラスの声が
響きわたっているのが、はっきりと感じられました。
もちろん、どこをどうとも分けることはできないのでしょうが
よく左脳・右脳のことが取りざたされることがあり
その時に私の感じたものは、もしかするとその両方のことを、ふと思い起こさせるような
なんともいえぬ、ふしぎな感覚であったように、いま振り返ると思えます。
もうお一方の、田中仙翁先生のお話は
「他者といかに接するか~茶の湯の示唆するもの~」という
私には、一見あまりなじみのない世界のお話でしたが
奥深い伝統ある「茶の湯」のもつ、もともとの精神や
日常の中での細やかな心配りや人への思いやりのようなことどもが伺われ
同じように、心が洗われるような、とてもすがすがしい気持ちになりました。
終わりに、管長様がお出ましになって「般若心経」を皆さんで、ご一緒に唱えました。
管長様の閉講のご挨拶は、
「どんなに、幸せそうに見える人も…」のおことばではじまりましたが
私は、そのとき思わず目にあふれるものがあって、その先がよく聞き取れなかったような
もう、頭の中に何も入ってこないような感じになってしまいました。
そのあと、大方丈のうら手のお庭の池を眺めたり
亀のいる大きな池のほうを、少し歩いてから、仏殿のほうに向かいました。
うす暗く感じるお堂の中の仏様をしばし拝んでから
また、三門をくぐって、ふと振り返って高くそびえるその門を見上げて
何も思い浮かぶこともなく、じっとたたずんでおりました。
それから、石畳をゆっくりと降りるうち、少しはなれたところを歩いている初老の男性がいらして
どちらからともなくお声をかけて「良いひと時を過ごせたこと」をお話しました。
「先ほど、三門のところに立っておられたが
漱石の『門』のなかの言葉をご存知ですか?」と、不意に問われたので
「この三門が漱石の『門』に書かれていることは知っておりましたが…
その言葉は、思い出せません。」と申し上げると
『彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。
要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。』
という夏目漱石の『門』の中の一節を、お話してくださいました。
私はそのあとで「ひとの幸せや不幸とは、いったいなんなのでしょう…
先ほどの管長様のお話を伺って、なぜか途中で涙が出てしまって
最後が良くわかりませんでした。」と申し上げたところ
「『心を開いて、何事にも感謝して生きることが肝心』というようなことでしょう。」とのこと
それから、何気ないお話を二三交わして、ご挨拶をしてお別れいたしました。
お名前も知らない方との、まさにこれが「一期一会」というものか…と
つよく心に残る出来事でした。
さて、私の鎌倉散歩は、まだもう少し続きますが
ここでは、足立大進老大師の4日間の講和をまとめた
「説くに説かれぬ」という冊子に書かれた最後のお言葉をご紹介いたします。
私にとって、意味があるのかないのか
皆さまにとって、何らかのお役に立つのかどうか、まったく何の根拠もありませんが
どうも気になる、なぜか惹かれる、というのは
まだ何かを断ち切れないでいる私のような人間には、
どこかしら、心打たれるものがあるように感じています。
どうでもいいことは
どうでもいいぞ
人がなんと云おうが
社会がなんと思おうが
そんなことを
いちいち気にかけておっては だめだぞ
ねらった仕事をやれ